容れない関係
今回は切りどころが難しく、いつもより少し長くなっています。申し訳ない。
四条烏丸から、地下鉄烏丸線で烏丸御池を経由し、京都駅へ向かった。そこから、またさらにJR山陰線に乗り換え、嵯峨嵐山駅を目指す。晴朗な空が大気を抱き、窓から眺められる嵐山の上空には、霧のような薄い雲が蟠っていた。
今日も今日とて、相宗美鈴の自宅を訪ねるようにと、担任から言いつかっているのだ。
府道に沿って坂道を上っていくと、白壁の豪邸が見えた。まるで洋館のような静かな雰囲気が漂い、翡翠色の屋根という造りも、設計者の趣味趣向を、隅々まで再現しているようだ。
見上げると、三階の美鈴の窓には、純白のカーテンが下りている。美鈴の家の隣には小さな神社があり、その絶妙なコントラストが互いを不気味に魅せているのは、気のせいだろうか。
佑暉は、これまでにも二度ほど、彼女の家を訪問しているが、母親に部屋の前まで通されただけで、未だに本人と直接対面したことはない。
あの部屋では、彼女はどんな生活を送っているのだろう……そんな想像を幾度か膨らませてみたが、それは想像でしかない。
超えてはならない一線があるのだ、そう思っていた。それは、美鈴が学校に来なくなってしまった理由、彼女が味わった苦痛、誰にも打ち明けられないもどかしさ、悔しさ……それらを佑暉がまだ知らないからだった。
しかしそれを今日、身をもって体験し、彼女もこんな気持ちだったのだろうか、そんな同情と呼ぶには軽すぎる、寂寥の混じった哀憐の情を、覚え始めていた。
訪問初日には、佑暉の呼びかけに少しだけ応じてくれたものの、それ以降は、彼がいくら声をかけても、何の応えもなかった。だが、今なら多少は通じ合えるという、根拠の希薄な自信を糧に、佑暉は気負い立って、呼び鈴を鳴らした。
美鈴の母親が顔を出し、彼を応接間に通した。
「いつもごめんね。迷惑かけて」
本心から言っているのだろう。母親は眉を下げて謝った。
家の中であるにもかかわらず、薄化粧をしているのか、薄い唇にはほんのりと艷やかな薄桃色が差している。けれども、その頬には張りがなく、佑暉の目には少しばかりやつれて映る。歳は四十代くらいだと思われるが、目の下には幾筋もの深い皺が寄り、実齢よりも老け込んだような印象を受ける。極めつけは、髪が野放図に乱れ、白髪も心なしか前日より増している気がする。自身の風采に頓着しなくなるほど、娘のことで、相当気に病んでいるためだろう。
佑暉は母親の心情を汲み、誠意を込めて否定した。
「迷惑だなんて、全然思ってないですよ。進んでここまで来てますから。僕に手伝えることがあれば、遠慮なく言ってください」
こんな返答を予想もしていなかったのか、母親はしばらく佑暉の顔を瞠目して見ていたが、やがて頬を緩め、瞳を潤ませて彼に笑いかけた。
「ほんと、あなたみたいな子が同じクラスになってよかったわ。あの子もきっと、本音では嬉しいはずよ」
頬にはわずかに赤みが差し、先程まで憂愁を湛えていた双眸には、光が宿った。彼女の表情の変化に安堵し、佑暉からも自然と笑みが漏れた。
佑暉は、学校で預かった封筒を母親に渡してから、三階の美鈴の部屋に行った。廊下はしんとしていて、突き当たりの窓から射し入る光が、杏色の床を照らしている。
ドアの前まで来ると、佑暉は正面の壁に背をつけて座り込んだ。しばしの間、目の前の開き戸を見つめていたが、穏やかな声調を意識して、中にいると思われる美鈴に話しかけた。
「今日、身体測定があったよ。あと、委員会を決めたり。僕は、文化祭実行委員会になった。今学期は出番がなさそうだけど、楽しそうだし、いいかなって。君も一応、そこに入ってる。必ずどこかには所属しなきゃいけないから、担任の大西先生がそこに引き入れてくれたんだ。先生、そこの担当らしいから……」
室内からの応答はない。しかし、誰かがいる気配は、少しながらある。彼女が中で何をして聞いているのかすら、わからない。それでも構わず、佑暉は近況報告を続けた。
「学級委員も決まったんだよ。掃除の割り当てや委員会を決める時なんか、早速みんなの前に出て、指揮をとってた。ああいう人が、リーダーに向いてるのかな。……って、現場を見てない君に言っても、わからないか。
一人は玄長君っていって、去年も僕と同じクラスで学級委員長をやってた。もう一人は……ちょっと思い出せないけど、たしか、珍しい苗字だった。京都って、そういう人多いよね。そういえば、相宗さんも珍しい名前だよね。僕はどっちかと言うと、苗字も名前も平凡だから、君が羨まし……」
そう言いかけて、佑暉は我に返り、口を噤んだ。誰もいないのに、延々と独り言を喋っている自分に思い当たって、急に含羞がこみ上げてきた。まるで、幽霊に向かって話しかけているみたいな、空々しい気分になる。部屋の奥から、嘲笑う声が聞こえてくる気がした。
恥ずかしさを誤魔化すように、佑暉は少し強引に、本題に踏み出した。
「君、辛い目に遭ったんだよね。今日、僕も上級生の人から暴力を受けたよ。あの人たちは僕が東京出身だから、気に入らないみたい。君もそうだったんだろう。金銭目的で呼びつけて、願いを聞き入れてもらえなかったら、痛ぶって、二度とその傷を癒えなくする。……やり口がとても低俗だ。君が過去に感じた痛みが、少しは、理解できた気がするよ」
佑暉はじっと扉の木目を見つめ、変化があるのを待った。部屋には鍵がかっているので、母親でさえも、力ずくで開けることは叶わないという。この戸が開かれるのは、やはり、本人の心持ち次第なのだ。ただ、説得すること自体は可能だと、佑暉は思いたかった。
「京都の人はみんな優しい。僕も今までは、ずっとそう思ってたんだ。でも、そうとは限らないみたい。気品があって、建前を大事にするし、気位が高い。だけどその分、裏があるみたいなんだ」
佑暉が東京を離れる少し前、父の慎二が、江戸から名称が「東京」になったあらましを、彼に語って聞かせたことがある。
明治維新後、「都を江戸に移すべし」という、江戸遷都論が持ち上がった。それは、大久保利通に宛てられた建白書によるもので、参与を務めていた大久保は、これを支持した。ただ、この政策に対し、新政府の一部や京都民からは、反発の声が上がった。しかし明治天皇が初めて東京に行幸した日、明け渡された江戸城を東京城と改称し、明治天皇は一度京都に還御したものの、再び東京に移った。
こうして東京奠都は成ったと聞かされたが、父の言葉はいわゆる信憑性に欠け、佑暉が追及するように仔細を尋ねたところ、「学校で習っただろう」と笑って、煙に巻かれた。
京都の人は、天皇に留まってほしかったのだろうか。皇居を奪われたことで、東京に恨みを抱いているのだろうか。内心では、東京の言葉を小馬鹿にしているのだろうか。
「僕は京都に来てまだ日が浅いから、この土地について理解しきれていない。一年住んでも、知らないことがいっぱいある。だから君も、怖いんじゃないかな。僕も、正直言うと、怖い」
語尾が震えるのが、自分でもわかった。それでも、佑暉はまっすぐ部屋の扉を見据え、言葉を継ぐ。
「だから、手伝わせてよ。君を、救いたいんだ」
口をついて出た言葉に、すぐに羞恥と後悔を感じ取ったが、佑暉は構わず、さらに続けた。
「君が傷ついたのは、そういう偏見があるからじゃないかって思うんだ。僕も今日、悔しかった。未だに根強く残っている確執があるとしても、君が引きこもる理由にはならないと思う」
「私は……」
唐突に返ってきた声に、佑暉は咄嗟に耳を澄ました。
しばらく沈黙が場の均衡を保っていたが、やがて扉の向こうから、鴨川の滔々と流れるさまを想起させるような、透き通った声が小さく聞こえてきた。
「私は、そんなことじゃ、傷つかない」
その意味をうまく処理できず、佑暉は、持て余してやや茫然とした。
「どういう、こと……?」
「誰に何を言われても、何をされても、私は傷ついたりしない」
「じゃあ、どうして引きこもってるの?」
純粋に気になったということもあり、佑暉は冷静に問いかけた。
するとまた、沈黙が降臨し、相手は何かボソボソと、呟くように言葉を発した。
「……何もわかってないくせに」
そのように聞こえた気がした。聞き取れるかどうかという声量だったため、佑暉は前方に身を乗り出すようにして、上半身を傾倒させる。次いで、「ごめんね」という、弱々しい声。
「私ね、そういう白々しい言葉で励まさられることに不馴れだから、反応の方法がわからないの。ねえ、教えて。そんな場合、どうしたらいいのかな?」
「僕は本気だよ。僕でよかったら、君の力になりたいと思ってるんだ」
「うるさい!」
佑暉の言葉尻に被せるように、今までにないくらいの大声で、彼女は怒鳴った。
「私のことなんか、守ってくれる人なんていない。どいつもこいつも、みんな……何もわかってない」
姿は見えないものの、声高にまくし立てられ、佑暉も呆然と聞いているだけだったが、そのうちに段々と怒りが湧いてきて、言い返した。
「そんなことないよ。お母さんだって、とても心配してるし、学校の先生やみんなも、きっと相宗さんのこと、気にかけてる。全部、君の思い込みで……」
言い終わらぬうちに、鍵の外れる音が響いて、佑暉は押し黙った。
間髪入れず、ドアが勢いよく開け放たれたかと思うと、闇に沈んだ部屋から、人影が飛び出してきた。相手の顔を視認する間もなく、佑暉は首を掴まれて、背中を壁に打ちつけた。その衝撃によって、佑暉は目をぎゅっと瞑り、恐る恐る片目を開くと、眼前の人物の顔がぼんやりと、視界に浮かび上がった。
栗色のつぶらな瞳は、わずかに潤みを帯び、後ろで一本に束ねられた髪は、窓外からの日光を受けて、明るい茶色に輝いている。頬は白く、首もとの鎖骨はきれいな流線を描き、彼女の激しい息遣いと連動するように、白いブラウスの第一釦が上下運動を繰り返している。
相宗美鈴は、佑暉を間近から見つめ、その表情には、特に怒りの感情はうかがえない。
しかしその時、佑暉は自分の喉もとに、固くて冷たい感触を覚えた。まるで、金属製の何かを押し当てられているような感覚。ゆっくりと視線を落としていくと、美鈴が彼の喉に、鋏の刃を押しつけている。クラフト用の鋏だった。
「もう、来ないで。ここは、あなたの来るべきところじゃない」
美鈴は、冷淡な口調で言い放った。佑暉は恐怖に慄き、彼女を見つめ返すことしかできずにいた。
「今度、またうちに来たら、切り裂いてあげるから、ここ」
囁くような甘い声で言葉を続けながら、美鈴は刃の背で佑暉の喉を撫でる。佑暉は思わず、肩をびくつかせた。その声音には、彼女なら本当にやりかねないという迫力があった。静刃が皮膚に触れ、その冷たさが佑暉の中で、美鈴の冷酷さと接続した。
美鈴の表情には、感情というものが隠れていた。死人のような瞳の中に、佑暉は「残虐」という言葉を見出したのだ。
帰り道は、行きよりも足取りが重く、駅に向かう途中、何度も立ち止まりかけた。顔を上げると、嵐山の山々には桃色の雲がかかり、山肌は色鮮やかな夕日色に染まっている。光の加減で、日が当たる部分によって、おはじきのように色が変化する山並みの光景を、佑暉は交差点に立って、ただ眺めていた。
事実、今はこの風景だけが、彼にとって、自分の心の拠り所のように思われるのだった。




