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来たりし春の都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 葵の契約
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背徳的支配

 プールは、校舎の裏に体育館と併設されている。建物が太陽を遮っているためか、プールの半分ほどに学舎の影が及び、薄暗い。


 フェンス越しに、濁った緑色のプールが見える。海岸の苔むした石巌のような匂いがした。


 一見、何の変哲もない、まだ掃除されていないごく普通のプールだが、とてもそこに生き物が揺蕩っているようには思えない。佑暉は目を凝らし、二十五メートルプールを端から端まで見渡したが、実際、鴨はおろか、アメンボすらいるのか疑わしい。


 どこにもいないじゃないか、そう思っていた矢先、すぐ背後から低声が聞こえた。


「おう、よく来たな」


 佑暉の背を、悪寒が走る。


 急いで振り向くと、いつの間にか、石本の他にも二人の男子生徒がいて、三人は佑暉を取り囲むようにして立っている。真っ先に目に留まったのは、昨日、二度も佑暉に対して嫌がらせをしてきた、あの男――前田だった。そのすぐ隣には、もう一人の仲間――消去法で大岡だと思われる――もいる。


 前田と目が合った瞬間、昨日の出来事が脳裏を過り、佑暉は咄嗟にそこを飛び退いた。その時、バランスを崩して後ろのフェンスに背中を打ち付け、ガシャンという音が鳴った。


 三人はそれを見て、けらけらと笑った。佑暉は唖然として、動けなかった。


 前田が近づいてくるなり、佑暉の肩に手を回す。


「鴨の赤ん坊なんておるわけないやろ。それより河口、昨日のことやけどさぁ、誰にも言ってないよな?」


 脅すような口調で囁かれ、佑暉の鼓動は加速。一日前の記憶がフラッシュバックし、恐怖に襲われる。


 すると石本が、急に笑い声を立てた。


 前田が振り向き、「なにわろてんねん」と注意を向けると、


「いや、すまん、思い出し笑い」


 と石本は言った。


「きも、何を思い出してん」


 前田が問うと、石本は佑暉を指さして、こう言い出した。


「さっきこいつに『昨日はごめん』って言ったらさ、『謝ってくれたので許します』やって」


 石本が言い終わるか終わらぬかのうちに、場はまたしても、三人の笑い声に包まれる。


「うぜ〜。やっぱこいつ、ムカつく」


 大岡も、横から茶化すように言う。石本は笑いを堪えるように、拳で口を押さえている。


 佑暉は当然、この状況が居た堪れなかった。三人が笑っている隙を突いて、彼らの間をすり抜けようとした瞬間、それを見逃さなかった前田は、佑暉のネクタイを荒々しく掴み、乱暴に引き寄せた。


「逃げんなや」


 眉間にしわを深く刻んで、佑暉を睨む。茶色がかった鋭い瞳は、猛禽のそれである。佑暉は金縛りにあったように、身動きがとれなくなった。


「……訊きたいことがあるんやけど」


 小声で、前田が口を開く。


「相宗美鈴っていうやつ、知ってるか?」


 佑暉は黙って頷いた。相手の鋭利な眼光に気圧され、言葉さえも封じられたように思えた。


 前田は溜息をつくように、小さく息を漏らし、佑暉から離れる。


 フェンスに寄りかかり、ポケットに指を差し入れて、長方形の小さな箱をつまみ出す。煙草の箱だった。おもむろにライターを着火し、前田は煙草を咥える。そして、ここが学校の敷地内であることなど毫も気にしないように、堂々と吸い始める。


 煙草の先端から、煙が蛇のようにうねりながら伸び上がり、プールサイドの一角でとぐろを巻く。


「あいつが不登校になった理由、教えたろか」


 突然、そんなことを前田が言い出した。


 佑暉はごくりと息を呑んだ。確証はないものの、自分が何か、禍々しい事態に巻き込まれているような、そんな予感を覚えずにはいられなかった。


 前田は遠くを見つめるように、目を細め、語り出した。


「相宗の親父は、そこそこ名の知れた資産家でな、色々な事業に投資しまくってたらしい。だから、あいつのオヤジの息のかかった会社や団体はけっこう多い。京都の中小企業なんかは、ほぼ相宗家の掌中って噂や」


 そこで前田は一旦言葉を区切り、ちらりと流し目で佑暉を捉えた。


「そんなやつの娘が去年、うちの学校に入学してきた。まあ、案の定、目立ってたわ。いい噂もよくない噂も含めて、な」


 前田は、視線を正面に戻すと、話を続ける。


「でも、誰もそいつに手ぇ出さへんかった。それだけの資産家の子供なら、いくらでもお財布にできるのに。それで俺は考えた。他のやつらは、きっと後ろ盾になってる連中のことを考えて、あえて近づかへんねんやって。


 だから、俺はそんな拍子抜けどもに知らしめるつもりで、相宗を呼び出した。そんで、悪い噂を立てられたくなかったら、百万寄こせって言ったんや。まあ、百万は半分冗談やったけど、あいつ、すげない態度で断りやがった。それで腹立って、仲間と一緒に制裁として、いたずらを繰り返したったんや。机に落書きして、クラスの笑いものにしたり……とかな」


 この独白を聞いて、佑暉は徹頭徹尾、合点がいった。


 人前で滅多に怒りを見せることのない佑暉でさえも、激しく煮え立つような怒りが、胸の内に広がるのを覚えた。


「やっぱり、僕のクラスの落書きも……」


 震えるような声を絞り出すと、前田たちはまた、腹を抱えて笑い出した。


「せやせや、俺らが書いてん」


「おもろっ」


 口々に笑い混じりの声が連なり、佑暉は、形容しがたい感情に囚われた。怒りとも悲しみともつかない、心奥の洞穴から掘り起こされた未知なる感情の奔流が、彼の体内を巡った。


 前田は、見下すように佑暉に視線を送ると、更に言葉を浴びせた。


「理由ならある。俺らは、道徳的手段を行使しただけや。な? 立派な動機やろ」


 唇を噛みしめながらそれを聞いていた佑暉は、とうとう耐えきれず、口を開いた。


「そんなの……全然道徳的じゃありません。そんなものは道徳じゃない!」


「うっさいわ!」


 前田はそう叫び、佑暉を足で蹴り倒した。フェンスに手をかけ、佑暉を横目で見やりつつ、吐き捨てるように呟く。


「これやから、関東人は嫌いやねん。どいつもこいつも、偉ぶりやがって」


 そうして、佑暉に顔を向けると、付け加えた。


「俺らがお前に手ぇ出したのにも、ちゃんと理由がある。相宗と同じ匂いがした、それだけや」


 前田は不敵な笑みを浮かべ、その場から離れようとした。


 ――こんな理不尽は決して許されない。許してはならない。


 佑暉は身を起こすと、瞬間、駆け出した。体が勝手に動いた。自分でも思考が追いつかないうちに、気がつけば、前田の腕に掴みかかっていた。


 虚をつかれた前田はよろめいて、煙草を持った手を庇うように、しゃがみ込む。ただ、相手が前田一人であればよかったのだ。佑暉は、石本と大岡によってすぐに取り押さえられ、そのうちの一人に突き飛ばされた。


 誰が自分を飛ばしたのだろう、などと考える暇もなく、尻餅をついた瞬間に腹を蹴られ、顔面を殴打される。四方八方から飛び出してくる拳や足が、全身に尽く襲いかかり、意識が次第に朦朧としてくる。


 どれだけの間、殴られ続けたのかも覚えていない。目を開けると、佑暉はプールのフェンスにもたれかかり、三人の姿はもう消えていた。


 佑暉は、余力を振り絞って身を起こすと、足許に転がっている土のついた鞄を拾い上げた。それを肩にかけ、一散に駆け出した。


 ――いつだったか、こんな話を聞いたことがある。


 千年の都・京都と、成り上がりの東京。明治維新よりこの方、東京と京都の間には、天皇陛下の御地をめぐる根強い確執の名残がある、と。


 京都出身である父も、佑暉の前でも常に標準語で話していた。それは思うに、息子が自分の故郷に対して、愛着を持ったり、哀愁を感じたりしないためだったのかもしれない。


 けれども、文化や言葉の違いで、何故自分がこんな目に遭わねばならないのか、何度思考を巡らしても、彼は到底理解できない。

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