プロローグ②
葵祭は、日本最古の祭りである。
嚆矢は欽明天皇の時代にまで遡り、近代においても、「京都三大祭」の一つとして、毎年多くの観光客が見物に訪れる。
五月十五日。藤の花の香りに誘われるようにして、佑暉も、京都御苑に足を運んだ。
葵祭は、「賀茂祭」とも呼称され、総勢五百数十もの人々が行列を成して、午前十時半に京都御所を出発する。下鴨神社を経由し、賀茂川沿いを上流へと向かって練り歩き、最終的には上賀茂神社を目指すのだ。
午前九時半ごろ、蛤御門から苑内に踏み入ると、すでに雑踏が犇めき合い、混雑していた。見物客の中をかき分けるように進み、運良く目当ての人と合流したが、思った以上の賑やかさで、油断するとすぐに人の波に押し返されてしまいそうだ。
彼らは、なるべく群衆の先頭に出ようと、思考を巡らす。客が行列の進行を阻害しないようにロープが張られ、手前には、警察官の格好をした人が厳格な顔つきで、警備に当たっているのがわかる。
あまりの人の多さに、佑暉は辟易しつつも、いつも驚かされる。東京にいた頃は、こんなに大掛かりな祭になど行ったことがなかった。せいぜい、父と一緒に出向いた自治体の花火大会くらいのものだ。
五月の晴れやかな陽光がぎらぎらと降り注ぎ、松並木が砂利道に豊富な影を落としている。
佑暉はぼんやりと、眼前を陣取る報道関係者と思しきカメラを携えた男や、交通整理をして大声を張り上げる警備員などを、交互に眺めていた。
「なあ、河口」
ふっと、誰かの囁き声が、幻聴のように耳許に聞かれた。
誰だろうと聞き流していると、また、
「か、わ、ぐ、ち、く〜ん」と、今度は大きな声で呼ばれた。
ハッとしたのと同時に、頭を強く叩かれる。
驚いて隣を見ると、先輩の鳥居南愛咲と目が合った。なるべく動じないふりをして、佑暉は彼女に答えた。
「痛いですよ、どうしたんですか」
愛咲は少し心配したような、それでいて面白がっているようにも見える、よくわからない顔で彼を見ていた。
「なんか、ボーッとしてるみたいやったから。どしたん?」
彼女は言った。
愛咲は、佑暉と同じ高校に通っており、学年は彼の一つ上だ。こうして彼が葵祭を観賞しに来ているのは、彼女に誘われたからだった。ただ、実のところ、彼には、心からこの行事を楽しめない理由があるのだ。
それは、この日だけ、学校を無断欠席してしまったことにある。行列が市内を巡回するのは、毎年、五月十五日と定まっているのだ。
平日にもかかわらず、愛咲がしつこく誘ってくるものだから、泣く泣く断りきれなかった。彼女も授業があるはずなのに、「一日ぐらいいいやん」などと、取り合ってくれなかった。
また、彼女の言い分としては、「一年に一度しかない、貴重な行事だから」ということであった。そのことには同意できるが、やはり学校には連絡を入れておくべきではないのか、と疑問が湧く。
罪悪感がいっそう深まってきたころ、京都御苑の門をくぐる前に少しばかり感じていた意気揚々とした気分は薄れ、次第に気持ちが落ち込んでくる。何故、承諾してしまったのだろう。
学校では、とっくに授業が開始されている時間だ。色々な人に迷惑をかけていることに思い至って、やり切れなくなる。家族、友人、クラス担任、そして――。
とある人物が脳裏にちらつき、佑暉が顔を前に向けた瞬間。見覚えのある風体の人が、黒山の人だかりの中に、垣間見えた気がした。
一瞬、見間違いかと目をこすり、再びじっと凝視してみる。
すると、彼の視線に気づいたのか、その人物は、こちらを振り向くような素振りを見せる。長い睫毛と、高い鼻梁が目立つ、小綺麗に整った顔が、彼に向けられた。
粘つくような風が、景色を舐めるように吹き始めた。後ろで束ねられた、やや茶色がかった髪が、顔の輪郭に光を散らしながら、揺れる。それを視認した瞬間、佑暉は我が目を疑った。
それは、佑暉が一度だけ対面したことのある、同じクラスだが学校に全く姿を見せない女子生徒――相宗美鈴に間違いなかった。