謝罪と寛恕
佑暉は一日、余分な煩慮を忘れて過ごした。クラスメイトたちからの同情や憐憫の視線は、まだ完全に消え去ったわけではなかった。それを感じていながらも、殊更気にすることなく、平常心でいようと思った。実際には気にしないわけがなかったが、級友や教師たちに対して、気丈に振る舞ってみせたのだ。
担任の大西は、そういう彼の様子に安堵したのか、放課後になると気さくに声をかけ、また相宗家への訪問を依頼した。何も知る由もないとはいえ、大西が無遠慮にお願いしてきても、佑暉はそれを快諾した。
誰もいなくなった教室の片隅で、三十分ほど、佑暉はぼーっと物思いに耽っていた。特に何かを考えていたわけでもなく、なんとなく、生徒たちの下校ラッシュを避けたかったのだ。人の声が次第に遠ざかり、やがて静寂が、朝靄のようにゆったりと降りてくる。
佑暉は帰る決心をし、席を立って、深閑とした廊下に出た。
昇降口から、玄関の扉をくぐると、澄明な空からは、柔らかい午後の陽射しが降り注ぎ、爽やかな風が渡ってきて、彼の頬を優しく撫でた。
ここまでは四条通の喧騒は届かず、音らしい音といえば、運動部の喚声がグラウンドの方角から聞こえてくるくらいだ。それが野球部のものか、サッカー部のものかは判別しにくいが、おそらくそのどちらかだろうと、佑暉はぼんやりとした頭で考えた。
瞼を閉じ、軽く息を吸い込み、再び両目を開けて、佑暉は足を前に一歩踏み出そうとした。すると、
「おーい」
と、どこからともなく誰かの呼ぶ声が聞こえた。それが、自分に向けて発せられた声であることに、佑暉はすぐには気づけなかった。
肩を叩かれ、振り返ると、一昨日の喫茶店にて、少しの時間、言葉を交わした男であった。あの時は、風貌から多少は粗暴な印象を垣間見たものの、まだ彼の本性を知らなかった。前田を筆頭とするグループに加担していると知ったことで、味方ではないとわかっている。
昨日、玲音から聞いた特徴を思い出し、そこに名前を当てはめてみた。すると、自ずとこの男の名が、石本知大だと知れた。
石本は、佑暉の進行を阻害するように、彼の目の前に回り込む。当然、佑暉は警戒して足が竦み、石本と目を合わせるべきか逡巡して、結局、胸元あたりに目線を留めた。だが、ここで石本は、佑暉の想像を逆の意味で裏切る行動に出る。
急に、気弱になったように肩をすくめて、こう言ったのだ。
「河口、昨日はごめんな。怒ってる?」
しばらく、佑暉は何も言えずにいた。昨日についで、また悪態をつかれるのかと思いきや、開口一番に謝ってきたことを、心底意外に思った。
ふと我に返って、佑暉は視線を上げた。石本は眉を歪め、悲しげな視線を送ってくる。昨日のことは許せなかったが、その表情を見れば、なんとなく寛恕できる気がした。
「はい。正直、怒ってます。でも、謝ってもらえたので、許しますよ」
こんなにもスラスラと言葉が出るのは、佑暉自身、幾久しいと思った。心の底では許せないと思っているが、反省しているのなら、これ以上は強要しない。
石本も安心したのか、胸を撫で下ろすような仕草をした後、佑暉にこんな提案をした。
「それよりさぁ、時間、空いてる? おもろいもん見かけてんけど、一緒に行かん?」
「どこですか?」
佑暉は咄嗟に質問した。
「ああ。さっき、プールの横、通りかかってんけどさ、なんか茶色いもん浮いててんやんか。ほら、プールってヤゴの死骸とか、いっぱい湧いてるやろ? でも、それにしてはなんかデカいな〜って思って、近づいてよく見てみたら、なんと、鴨の赤ちゃんやってん!」
どことなく、嘘くさい雰囲気が漂っていたが、「見に来てみいひん?」と詰め寄られ、佑暉は無意識に頷いてしまった。そして、佑暉の承認を得るや、石本は彼の手を掴んで歩き出した。
何をそんなに急ぐ必要があるのか、石本は佑暉の手を引いて、校舎の角を曲がり、そのまま奥へと進んでいく。佑暉は、やや思考に混乱を来しながら、黙って石本に従った。




