蛍月
サキを祇園大和町の置屋まで送っていき、帰宅した頃には、館内は慌ただしかった。仲居が膳や、黒釉の小鍋を乗せた卓上コンロを、次々に広間へと運んでいるのが、玄関から見えた。厨房へ行くと、生魚や鍋料理の香気で充満し、眼裏には、それらのディテールが浮かぶような気がした。
裏口から覗いている佑暉に、小紋に丸帯を締めた正美が近寄ってきて、
「あなたも手伝ってくれる?」
と、声をかけてきたので、佑暉も「はい」と二つ返事で承知した。中に入るタイミングを測りかねていた彼にとって、正美の呼びかけは有り難かった。
手を洗った後、佑暉も料理を運ぶのを手伝った。配膳が終わると、正美が客前に出て謝礼を述べ、料理の説明を始める。その間に、娘たちと一緒に、自分たちの夕食を居間に持っていくのが、佑暉にとっても、日常に溶け込んだ習慣だった。
四人揃って食事を摂るのは、日が完全に暮れた八時過ぎになる。彩香と夏葉はいつも、食事中、他愛もないことを話す。
ふと、残された玲音はあの後どうしたのだろう、ということが、佑暉は気になった。夏葉の話に耳を傾けても、なかなか玲音のことが出てこないので、佑暉は自分から尋ねてみた。
「堀垣先輩、あれからどうしたの」
「あ、うん。一瞬目を離したうちにな、帰られたんよ」
夏葉は、やや不満げな顔をする。ただそれだけで、玲音に対するとめどない愚痴が聞かれるわけでもなく、彼女は姉とまた、関係のない世間話を延々と続けていた。
結局、玲音の挙動について、佑暉はわからず仕舞いとなった。旅館に住んでいると聞いて、ただ興味を持ってついてきただけだろうか。その時、美鈴について訊かれたことも、ふと脳裏を過った。
玲音は、彼女のことを知っていた。学年が同じ佑暉に、何かを聞き出そうとしたのではないか。もしかすると、玲音は不登校の原因を探し当て、美鈴を闇の中から救い出そうとしているのかもしれない。
佑暉には、彼がどうしても悪い人間には思えなかったのだ。
食後、佑暉は自室でパソコンを開いた。彼もブログを書いているが、他人のブログを読むのも、楽しみの一つだ。実際に体験していないことも、誰かが自らの体験を記事に書くことで、読者も同じ体験をしたように錯覚できる。
そうやって、時間と空間を共有できるのが、インターネットの醍醐味と言えるだろう。
夜も更けてきて、そろそろやめようかという頃合い、彼がパソコンの画面を閉じようとした瞬間、まさにそのタイミングを待っていたかのように、右下に通知が表示された。
『チャットに新着があります』
それを見逃さなかった佑暉が、急いでチャットルームに入ると、一件の返信があった。
会ったこともない、最近ブログサイトを通して知り合った、「蛍月」という名のブロガーからだった。
相手が「私、学校行っていないから」と書き込んだのが、最後のメッセージだった。その下に、『びっくりさせちゃったかな。まだ起きてた?』というメッセージ。
佑暉は昨夜、困惑して返事ができなかった。学生を自称しておきながら、学校には行っていない。……何か、深刻な悩みを抱えているのではないかと思うものの、軽はずみなことは言えなかった。相手からも、それきり返信はなく、互いに沈黙を守った、『デッドロック』のような状態だった。
『今から寝ようと思ってたところ。君は?』
佑暉がすぐに返信を送ると、相手も間を置かず、返してきた。
『さっきまで絵を描いてたけど、飽きたからおしゃべりしようと思って。学校、楽しい?』
「楽しい」と打ち込もうとして、佑暉は手を止めた。心のどこかに、「それ」を肯定することを躊躇う気持ちがふわついたのだ。
朝の教室の光景が、ありありと記憶の断片に浮かぶ。脳裏に焼きついて恐ろしくなる。鼓動がわずかに速くなった気がして、胸が縮まったような感覚が脳に達し、苦しくもなる。ただ、明日登校すれば、また楽しい学校生活が待っているだろう……という希望的観測も、同時に彼の中で、命を宿していた。
きっと誰かが、軽い気持ちで行っただけの行為に違いない。誰にぶつけるともない怒りを持て余し、鬱憤を晴らしたかったのだろう。その矛先が、たまたま自分に向けられたに過ぎない。自分は何も、他者を傷つけることはしていないのだから。
佑暉は、相手からの質問の下に、こう書き込んだ。
『楽しいよ。みんな、優しいし』
『そうなんだね。私はちっとも楽しいと思わない』
『どうして?』
しばらく返事は来なかった。数分待って、ようやく返信が届いた。
『理由はない。だけど、私の心は楽しむようにできてない。それだけ』
それを読んだ佑暉はまた、返事を書けなくなってしまった。




