袖振り合うも多生の家族
居間に行くと、正美が緑茶と茶菓子を用意して、彼らが帰宅してくるのを待っていた。正美は、佑暉と一緒に入ってきた玲音を認めるや、訳ありげに目をぱちくりさせたが、すぐ表情を元に戻し、一言二言、定型的な挨拶を述べた。その顔には、純朴な微笑みだけがあった。彩香に対して、ぶっきらぼうな態度をとっていた玲音も、正美の前では素直に、ぺこりと軽く会釈をした。無言だが、彼が正美と顔見知りであることは、傍目にもわかった。
正美も表情を崩さず、盆を抱え、「ごゆっくり」といった調子で微笑みかけると、居間を出ていった。先程の応酬を見て、佑暉は二人の関係を知りたくなったが、適当にはぐらかされるという気もしたので、訊くことは控えた。玲音がここに来るのを嫌がったのも、何かしら理由があるのかもしれない。
居間には、佑暉と玲音だけが残された。彩香は帰宅後、自分の部屋に直行し、その後、制服のまま、予備校に向かった。予備校は、四条河原町にある。
「なあ、河口。なんでお前、ここに住んでんの?」
静かになった部屋で、玲音が部屋を見回しながら、何気ない調子で尋ねた。
「父と一緒に住めなくなったんです」
「なんで?」
佑暉の返答に対し、玲音が間髪入れず質問を重ねる。佑暉は一瞬、迷った。それでも、何故か、彼になら話してもいいような気がしてきた。
ふと、四条の物産店前での喧嘩沙汰が思い出された。あのやり取りからしても、少なくとも彼は、前田率いる例の不良グループとは、関わりはないはずだ。どちらかといえば、敵対関係のように思える。
先輩は、信頼の置ける人物だ。今日だって、僕を不良から庇ってくれた。――そう思うことで、佑暉自身の警戒は、いつの間にか解けていた。
父が勤めていた会社が経営難で倒産したこと、自分が「ふたまつ」の世話になった理由、母のこと、サキとの関係……他言しても差し障りのない範囲で、話そうと思った。
そして、いざ口を開きかけると、勢いよく襖を開ける快活な音が、背後から聞こえた。
「はぁ、疲れたー」
正美の次女、夏葉が帰宅してきたのだ。すでに着替え終わり、通気性の高いポリエステル製のTシャツと、ジャージというラフな格好で、生気が抜けたように、手をぶらぶらと遊ばせて佇んでいる。
「おかえり、なっちゃん」
気づいた佑暉が声をかけると、夏葉はそこで、初めて彼らの存在に気がついたような素振りを見せる。彼女は、佑暉に視線を合わせて「ただいま」と返すと、すぐに玲音に目を留めた。
玲音も夏葉の方を見、目が合うと同時に、夏葉は驚きつつも、歓喜の表情を浮かべ、活発な声を上げる。
「あ、DQNや!」
「誰がDQNやねん」
玲音の憮然とした返答もお構いなしに、夏葉は彼の隣に来て、腰を下ろした。そして、先程までの疲れた様子などどこ吹く風といったように、甘えるような声ですり寄る。
「久しぶりやん、なんで来たん?」
玲音はなかなか答えず、居心地悪そうに、彼女から視線をそらす。佑暉はその様子を見て、代わりに説明しようと、
「僕が連れてきたんだよ」と言った。
「そうなん? えっと、なんで?」
「あ、ええっと……」
弁護するつもりが、思わぬ形で反問されたので、今度は佑暉が言い淀んでしまう。ここまでの経緯を今一度、頭の中で整理してみるが、色々な出来事が錯綜し、混沌としていて、うまく表現できない。
「さっき、ヤンキーに絡まれてるとこを、俺が助けたったんや」
先刻、彩香に話したことを、同じような調子で、玲音は夏葉にも武勇伝のように語った。
「なんや〜、またヒーローごっこか」
夏葉は先程とはうって変わって、白けたような表情を作る。夏葉の反応も、ほとんど彩香と同じだった。しかも、嘲笑を含んでいるところまで彩香や前田と一致していたので、佑暉は、「おや」と思った。
玲音は少し気に障ったのか、苦言を呈し始める。
「素直になれや、俺に惚れとるんとちゃうんけ?」
「はあ? なんであたしが、DQNみたいなやつに惚れなあかんのよ。日和君の方がいいわ」
「残念やったな、あいつは来てへんぞ。塾があるんやって」
「へえ、真面目やな〜」
「あいつも俺らと変わらんのに、変に優等生ぶっとるからな」
「玲音とは大違いやな!」
そんな二人の会話を、佑暉は微笑ましく受け取り、自然と笑みがこぼれた。すると、それを目ざとく感知した玲音に、「なにわろてんねん」と頭を叩かれた。
「可愛そう」
夏葉は両手を広げて、佑暉を庇う姿勢をとった。
こんなくだらない茶番劇を、知らず知らずのうちに繰り広げていると、
「まあ、サキちゃん! 今日も来てくれたん?」
という、正美のよく通る声が、ロビーの方から響いてきた。
「はい。またお土産、持ってきました」
「いつもありがとうね」
しばらくして、妙に気品のある、秒針のような規則正しい足音が、こちらへ近づいてきた。襖を開け、片手に紙袋を提げたサキが、居間に顔を出す。
「あ、サキちゃん。いらっしゃい!」
夏葉が手を振って応対した。
「こんにちは」
サキは紙袋を、テーブルの上に静かに置き、佑暉の隣に静かに正座した。
佑暉はややドギマギしながら、サキの目を見つめて、感謝を述べた。
「いつもありがとう」
サキもほんのりと赤みを帯びた顔を向け、彼を見つめながら、黙って首を横に振った。
週に一度ほど、サキはこの「ふたまつ」を訪れ、その度に手土産を贈ってくれる。それは、彼女が昔から懇意にしている、老舗和菓子屋の看板商品だったり、遠征した際に購入したその土地の名産品だったりした。あるいは、休暇に置屋の朋輩とクッキング教室に通って、そこで手作りしたクッキーだったりしたこともある。
「ふまたつ」は、彼女の母親が生前、仲居として従事していた場所でもあり、彼女自身もよく芸者として、宴席などに呼ばれ、客に酌をしたこともある。
そもそも、佑暉の父と母の仲人を務めたのが、正美という縁がある。二人を生んだ母だけではなく、サキ自身も、正美に恩義を感じているのは間違いない。
「じゃあ、私、そろそろ帰るね」
サキは腕時計を確認しながら言い、立ち上がる素振りを見せた。
「もう帰るの?」
「うん。今日はご挨拶に来ただけだから」
佑暉に、サキは土産物の袋を目で示しながら、優しく答えた。
「じゃあ、僕が送っていくよ」
佑暉が一緒に立つと、それに便乗するように玲音も、「じゃあ、俺も帰るわ」と腰を浮かせたが、夏葉に片腕を引っ張られて、姿勢を崩した。
「なんやねん」
「まだ帰ったらあかん」
夏葉は、両手でぎゅっと玲音の腕を掴み、離そうとしない。佑暉はそれを見て、玲音の胸中を察すると同時に、夏葉の心中も察し、二人に笑顔を向けた。
「では、僕はこの子を送ってくるので、先輩はゆっくりしていってください」
わずかに困惑するサキを促しつつ、佑暉は敷居を跨いで廊下出た。そのすぐ後ろで、「おい! 見捨てんなや、河口!」という、悲哀のこもった声も聞こえるが、佑暉はサキを連れて、そのまま玄関口に向かった。
外は日が落ちかけて薄暗く、濃紫の空を流れる雲は、残照によって薄桃色に染まっていた。東大路通に出て、三条通までの道を歩き始めると、サキは心配そうに口を開いた。
「ほんとに、置いてきて大丈夫だったのかな」
「大丈夫だよ、多分」
わざとらしく付け加えられた「多分」を聞いて、サキはくすっと笑った。
「夏葉ちゃんは、玲音先輩のことがお気に入りみたいだからね」
「サキも、あの先輩のこと、知ってるの?」
不思議に思った佑暉が訊くと、サキは頷いた。
「中学の時にも、何回か会ったことあるよ。だけど、相当久しぶりだったから、もっと話せばよかったかな」
ゆっくりと歩を進めつつ、名残惜しそうに、歩いてきた路地を振り返るサキ。佑暉もそれを、ほっこりした気分で見つめた。
再び、サキは前を向いて、
「実はあれでも、お寺さんの息子らしいけどね」
とさり気なく話を進めるので、佑暉は色々な意味で、意外な展開に驚き、思考が滞った。
「そ、そうなの?」
「なんでも、大阪のご実家から、家出同然で京都に出てきたんだって。彩香さんが話してるの、聞いただけだけど」
それは、玲音の一挙手一投足からは、窺い知れないことばかりだった。そんなに良い家柄に生まれたのなら、つむじを曲げる必要もないだろう。親の跡を継ぐことに不満があったのか、あるいは何らかの問題を起こして、家族から疎外されてしまったのだろうか。
佑暉の中で、母と結婚して勘当された父の面影が、ふと重なった。
夕空を仰ぎ見ながら、サキは、
「ねえ、お兄ちゃん」
と、心なしか物憂げな声色で、佑暉に呼びかけた。
サキに視線を向けると、彼女もまた、彼と目を合わせる。
「なんか、最近、変わったね」
こう言われることを、まるで予期していたように、佑暉は不思議と違和感を覚えなかった。それどころか、その言葉はすぐに彼の心に潜り込み、そして馴染んだ。
自分でも、時々そう思うことがある。そこにはやはり、彼女の存在が大きく関係しているのかもしれない。ただ、まだ彼女を本当の妹であると受け入れるのは、今の佑暉にとって、やや困難に思われるのだった。




