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来たりし春の都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 葵の契約
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DQN

 玲音はなんとなく、花見小路に煙草の箱を忘れたような気がして、佑暉が電話をかけている間に取りに戻っていたという。しかしそれは思い違いで、実際には落としておらず、箱は制服のポケットの中にあった。


 安堵し、四条通まで戻ってくると、バスターミナル付近の店の前で、佑暉が不良に絡まれているところを発見したのだ。


 結果的に、玲音が来たことで、佑暉は難を逃れた。とはいえ、まさか衆目の前で堂々と喝上げを食らうとは思わなかったし、玲音が来てくれなければどうなっていただろうと、にわかに怖気が襲ってくる。


 佑暉は、玲音を自宅まで案内する道すがら、本当に彼を信用してもいいものかと、しきりに苦慮していた。


 何はどうあれ、先程の一件が、彼はただの不良ではなく、危機を救ってくれる存在であるという裏付けにもなった。知り合ってから間もないというのに、これほど感謝することになるとは、到底思わなかった。玲音の魂胆や、目的はまだ見えてこないが、今は信じてみようという気も起きた。


 四条通を左に折れ、東大路通を北上した。東山三条の交差点を渡り、角のファーストフード店のそばを通るあたりで、玲音がまた、佑暉に話しかける。


「で、どこなん? お前が居候してる旅館って」


 佑暉は一旦停止し、正面に伸びる街路を指さした。


「この道をまっすぐ行くと、満足稲荷という神社がありますから、そこを過ぎて、一つ目の路地を右に曲がったところです」


 だが、佑暉の返答を聞くなり、玲音の顔色が一変した。表情が心持ち、強張ったような気がしたのだ。


「あの……どうしたんですか?」


 不安に思って尋ねると、玲音は眉をひそめた顔を、佑暉に向ける。


「それさ、もしかして……『ふたまつ』か?」


 その名を玲音が知っていたことを、佑暉は意外に思ったものの、徐々に嬉しさがこみ上げてきた。何分、「ふたまつ」はそれなりの歴史ある旅館ゆえ、知る人ぞ知る、穴場の旅宿なのだ。


 泊まりに来るのは、定年退職して暇を持て余した老輩の夫婦であったり、当宿に恩を感じているのか、わざわざ宿泊して投資してくれる近所の人が大半だ。現に、若い旅行者などは滅多に見かけない。


「そうなんです。すごいんですよ、江戸時代から営業してて……」


 佑暉は嬉々として語ろうとすると、彼が言い終わらないうちに、玲音は壊れかけのロボットのように、くるりと身体の向きを百八十度変え、「俺、帰るわ」とだけ告げた。


「ええっ、どうしてですか!」


 佑暉は引き留めようと、咄嗟に玲音の腕をつかみ、理由をきいた。


「ちょっと用事、思い出してん」


「でも、ここで帰られたら、歩かせ損ですよ」


「なんやねん、〝歩かせ損〟って」


「女将さんにも、もう言っちゃいましたし……。今頃、お茶を用意して待ってると思います」


 ここまでついて来ておいて、なぜ今更、引き返そうとするのか。わかりかねたが、なんとか玲音を留まらせようと、佑暉は必死に訴えた。


 今頃になって、「予定が変わった」とは、さすがに言いにくいものがある。本来ならば、夕餉の支度に取り掛かっているはずの時間なのだ。それを一時的とはいえ、仲居たちに丸投げし、予期しない来訪者の接待のため、準備をして待っているかもしれないのだから。


 数分の押し問答の末、哀訴嘆願する佑暉の申し出に根負けしたのか、玲音はやや面倒そうな顔で、「わかった、わかった、行くから」と承諾した。


 玲音を連れて、佑暉は、通用玄関の格子扉の前に立った。


「ほんまに帰ったらあかん?」


 玲音も「ふたまつ」と書かれた看板を仰ぎながら、未練がましく言う。


「せっかく来たので、どうぞ上がってください」


 佑暉もそう言いつつ、玲音のこの自己撞着がよくわからなかった。先程まで、あれほど興味津々だった彼が、「ふたまつ」という名前を聞いた途端、まるで関心の消息を絶ってしまった。


 もしかしたら、過去にこの旅館でいやな経験でもしたのだろうか。……と、佑暉は考えた。


 綺麗好きの正美の意向か、廊下やロビーは、客足が遠い日でも欠かさずに手入れされ、天井の照明を受けた床は、常にきらきらと照り輝いている。年季を感じられるのも、その輝きあってこその価値だと、佑暉は思っている。佑暉も稀に、客室に寝具を敷くのを手伝ったりもするが、塵ひとつ見たことがない。


 一体、何がそんなに不満なんだろうか。入るのに躊躇う必要もないのに。――などと考えていると、すぐ後ろから声がかかった。


「何してんの、自分ら」


 佑暉にとって、聞き慣れた、川のように澄んだ声音だった。


 振り返ると、想定した通りの人物がいた。高校の制定鞄を肩から外し、少し気怠げに両手に提げた彩香が、彼らのいる路地と東大路通が接するあたりに立ち、佑暉たちを見ている。


 微妙に警戒するように、彼女は両目を細めながら、二人に寄ってくる。玲音はわずかに腰を低くかがんで、佑暉の背後にそっと隠れた。


「今、帰り?」


 彩香は笑顔に戻り、佑暉に話しかけた。玲音の存在には気づいていないのか、それとも無視しているだけなのか、一瞥しただけではわかりにくい。声をかけてきた時に複数形だったのを鑑みると、おそらく後者だろうとは思いつつ、佑暉は対応に困った。二人を同時に気にして、まずはどちらから話の種を植えるべきか、迷ったのだ。


 とりあえず、玲音が自分の後ろに身を隠したことで、なぜ彼がここに来るのを渋っていたのか、ようやく氷解した。彩香も、玲音と同じ、四条高校の三年生なのだ。


「今日の部活、はやく終わったんですか」


「あ、えっとね、これから予備校やから、部長やけど、早退してきた」


 今年の三月から、彩香は予備校に通い始め、受験の準備を着々と進めているところだった。部活と両立することに対しては、母親の正美もいたく寛容的で、応援もしている。


 彩香はちらりと、佑暉の背中にぴたりとくっついている玲音に、視線を転じた。そうして、さも今気づいたように、佑暉にこう尋ねた。


「それで、そこのDQNは何?」


「誰がDQNやねん!」


 玲音が佑暉の背後から顔を出すなり、言い返した。しかし佑暉には、二人のやり取りがよく理解できなかった。


「あの……、ドキュンって何ですか?」


「俗語や。知ろうとするな」


 玲音によって質問を即座に片付けられ、佑暉はそれ以上、何もきけなくなる。すると、それを聞いていた彩香が、今度は嗜虐的な微笑を湛えながら、皮肉まじりの感想を述べる。


「へえ、『俗語』なんて使えるんや。賢くなったなぁ」


「あんまり馬鹿にすんなよ……」


 どことなく、険悪になりそうな雰囲気だったので、佑暉は思い切って声を上げた。


「僕が連れてきたんだ。今日、堀垣先輩に、助けていただいたので」


 この弁明は間違っていない。玲音も鼻を高くしたように、佑暉の肩に手を回す。


「そうや。こいつが前田に絡まれとるとこ、助けたったんやぞ」


 玲音は得意そうに言うが、彩香は溜息をつくと同時に、呆れ顔になった。


「また正義ごっこ? もうやめとき。あんたがいくら優しくしたところで、まず見た目で感謝されへんわ」


 そのことに関しては、佑暉も意に反し、心の中で首肯してしまう。


 大きい瞳は、少年らしい印象を彼に付与してはいるものの、夕日を受けた栗色の髪は、いっそう明るみを増している。高校生のうちから髪を染める行為は、素行が悪い証だという、社会的共通観念があるせいだろうが。


 物産店の前で絡んできた、前田という不良も玲音に対し、『また正義のヒーローごっこかよ』という、彩香とほとんど同じ皮肉を口にしていた。結局のところ、玲音が不良なのか優等生なのか、佑暉はまだ判別できない。そこを考え始めると、途端に混乱してくるのだった。


 玲音は開き直ったように、客の通用口の格子戸を開け、図々しく踏み込んでいった。そんな彼を見て、彩香は繰り言を並べ立てながらも、その後に続き、佑暉も二人について上がった。

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