詰問
四条駅から地上に出ると、正面から眩い光が射していた。すでに午後三時を回っていた。
四条通を歩くと、傾き始めた太陽に照らされ、徐々に首筋に汗が滲んでくる。四月上旬とはいえ、午後の日差しは強く、朝から飲まず食わずのために疲弊していたこともあって、佑暉は軽く目眩を催した。
当初は、駅までの道中、どこかで昼食をとってから向かおうとも思ったが、任務は配布物を届けることであり、すぐに終わるだろうと結論づけ、佑暉は何も食べずに相宗家に向かった。あらかじめ旅館には電話を入れ、帰りが遅くなることを伝えたが、その時は昼食のことは話さなかった。
嵯峨嵐山まで電車を乗り継いで、午後二時過ぎ、相宗美鈴の家を訪ねた。美鈴の母親に案内されながら、佑暉は彼女の父親のことを考えた。亡くなったことは聞かされたが、詳しい経緯については、聞けなかった。あまり他家庭の事情に踏み込むべきではない、ということが経験上、彼を踏み止まらせたのだ。
封筒を母親に手渡した後、三階の美鈴の部屋の前に行き、ドア越しに声をかけたが、やはり返事はなく、特に進展もなかった。ドアの向こうには誰もいないんじゃないかと思うくらい、ひっそりと静まり返り、そばのガラス窓から射し入る午後の淡い日光が、薄橙の板張りの床を照らしているだけだった。
佑暉は諦めてその場を離れ、階下に降りると、母親に頭を下げた。そして相宗家を後にし、そのまま電車で四条まで戻った。
花見小路通の前を通りかかった時、佑暉はあることに思い至り、足を止めた。右手の通りを入ってすぐの一角に、「祇園茶屋」がある。歌舞練場も兼ねた茶屋で、サキも芸者として、そこへ通っている。通例なら、今日も彼女は来ているはずだった。
佑暉は、何かに誘われるようにして、花見小路通に足を踏み入れた。
しかし……と考え直して、再度、佑暉は静止する。思い返すと、今日は色々なことがあって、彼の心は歩くことも億劫になるくらい、憔悴している。サキは聡く賢いから、多分、佑暉の心は丸裸にされるに違いない。
今日は会わない方がいいな、そう思って、佑暉が茶屋へと目を向けたその瞬間、彼としては忌避すべき光景が目に飛び込んだ。
高校生と思われる三人組の少年が、茶屋の前を占領するように座り込んで、話をしている。それだけでなく、有ろう事か煙草を吸っていたのだ。
軒下で薄暗く、顔はよく見えないが、下校時に絡まれた三人とは違うようだ。茶屋の軒下では、三人の周辺を白い煙が渦巻き、彼らが息を吹きかけるごとに、空中に霧散する。
突如、果てしない嫌悪感が佑暉の胸に押し寄せ、激しく波打った。神聖な場所を荒らされた気がしたのだ。佑暉が足繁く通い、サキが舞台に上がる日には、座席がいっぱいになることもある。彼と同じように、彼女の踊りを目当てに来る客もいる。
二階建てのどこにでもある小さい茶屋だが、その古臭さが却って人々に歴史を伝えている。その一角だけを切り取ってタイムスリップしたみたいに、ここだけが時間を止めたような風情を感じられる。
そんな神聖なる場所の近くに、傲然と腰を下ろして喫煙するなど、もっての外である。不良たちの非礼を目の当たりにした佑暉が、憤りを感じたのは言うまでもない。
ただ、これを注意するにしても、それ相応の勇気が必要になる。昼間のように開き直られては、今度は何をされるかわかったものではない。それでも、サキが大切にしている場所を荒らされるのは嫌だった。
悩みあぐねた挙句、少しずつ歩を前に進めて、三人との距離を縮めた。一メートルほど近くまで来た時、佑暉の存在を相手も認識したのか、中央の一人が、顔をこちらに向けた。
彼と目が合って佑暉は当惑したが、これを契機だとして、注意を試みた。
「あ、あの……ここで煙草を吸わないでください。出入りする人が、困るので……」
「お前、この店の常連か」
「いえ、違います」
何故、そんな嘘をついてしまったのか、自分にもわからなかったが、必要以上の詮索を迫られるのを嫌った側面もある。
屋根の影に覆われ、相手の顔はよく見えないが、ぼんやりと浮かぶ輪郭の中に、佑暉と同じ四条高校の制服を着ていることは確認できた。
「どうせ偽善者やろ、佇まいでわかるわ」
中央の不良が、吐き捨てるように言った。
「……偽善者、ってどういうことですか?」
佑暉が小さく問うと、佑暉に対して「偽善者」と口にした不良は、こう言った。
「立場の弱い人間を注意することで悦に浸る、偽善者の常套手段や」
それを聞いて、佑暉は、
「違います」
と咄嗟に否定したが、先の言葉が続かない。視線を下に落とし、拳を握りしめて、どうにか絞り出そうと言いよどんだ。
「僕は、その……、ここは、神聖な場所なので……」
「じゃあ、やっぱり常連客なんか?」
そう問われ、思わず、「はい」と答えた。
「妹が、舞妓をしていて……」
「へえ」
中央の不良がむくりと立ち上がり、軒下の日陰から姿を現した。西から射す強い光が、彼の頭を照らし、短くカットされた髪をオレンジに染め上げる。もともと染めていることは安易に想像できるが、いっそう明るく、陽気な印象を与えるには十分だった。
顔はどちらかといえば童顔だが、目許は凛々しく、口は引き締まっていて、少しも抜け目のない、精悍さを備えた少年だった。
狡猾そうな眼を光らせながら、彼は佑暉のところへ歩み寄ってくるなり、近くから彼の顔をまじまじと眺め始める。佑暉は条件反射的に、上半身を後ろへ反らせ、彼を見つめ返した。
無表情だが、物珍しげに佑暉の顔を眺め回す瞳は、澄明だった。それが、敵を殺しても表情一つ変えない兵隊のように、残忍さを湛えているようも見えた。逆らえば命はない、と脅しにかかってきているようなその眼差しに、佑暉は射竦められ、覚悟を決めた。
殴られる……そんなことばかりが、脳内をいたずらに駆け回る。しかし、そんな佑暉の懸念とは裏腹に、ぽつりと眼前の少年は言葉を発した。
「お前、河口やろ?」
次の瞬間、佑暉は目を見開き、言葉を失った。肩から全身の力が抜けたように、後退りすることすら、発想の外だった。
「どうして……それを……?」
「有名人やん、お前」
不良は屈託なく笑うと、白い歯を覗かせた。そして、かすかに後ろの二人の方を振り向き、目で何やら合図のようなものを送った。それを受け取った二人が、少年の両脇を通過して佑暉のもとに歩いてくる。佑暉が状況を掴みそこねているうちに、瞬く間に後ろ側に回り込まれてしまった。
三方を包囲された佑暉は、逃げ場を失った。
「ちょっと付き合ってくれや」
と、目の前の不良が笑ったと思うと、佑暉は両側の二人に腕を掴まれた。そして息つく暇もなく、強制連行されたのだった。
茶屋の裏手にある、細い路地に連れ込まれ、板張りの壁に押しつけられた。不良学生三人に取り囲まれ、佑暉の頬を冷たい汗が伝う。
二人に指示を出した栗色の髪の少年が、佑暉の目の前に立った。彼は持っていた吸いかけの煙草を、自分の足許に落とし、靴底で火を揉み消した。彼がこのグループのリーダーなのか、佑暉を強引にここへ連れてきた二人は、その後ろに控えるように立っている。
白い煙がゆらゆらと立ち昇り、佑暉と彼らの間で、行き先に惑うように滞留している。焦げつくような匂いが路地裏全域に広がり、これから何が始まるのかと、佑暉は混乱した。必死に冷静になろうと、声を殺してゆっくりと尋ねた。
「な、なんですか……?」
自分が苦言を呈したことによって、彼らの機嫌を損ねたということは、特段考えを巡らせずとも、大凡は理解していた。ここはひとまず謝るほかに道はない、と佑暉は、定まらない思考の中、その場しのぎの答えを導き出した。
「すみません。怒らせるつもりじゃなかったんです。だから……んひゃっ」
突然、握り拳が視界をかすめたかと思うと、それがちょうど顔の横あたりの壁に激突し、音高く響いた。
「……黙れや」
少年が佑暉の顎に手を添え、ぐっと持ち上げた。さらに、その童顔をまた、佑暉に近づけてきた。額同士がくっつくかというところまで押しつけてきて、佑暉の目をじっと見つめる。
「なかなかええ面しとるやんけ」
少年は顔を離し、やや後ろに退いて距離を開けたので、佑暉は精神的に幾分楽になった。とはいうものの、彼がおかれた状況は、依然として変わっていない。
「河口、訊きたいことがあんねんけど」
少年は佑暉の目に焦点を合わせたまま、本題に入る。彼の仲間と思われる二人も、その後ろから、しかつめらしい面持ちで佑暉を見ている。そこで佑暉は、自分に危害を加えるつもりはないのかもしれないと、ようやく思うことができた。
「お前さ、相宗美鈴って知ってるやろ?」
その名前を彼が知っている理由、また、何故それを自分に問うてくるのか、当然ながら佑暉には、何もかも理解が追いつかない。佑暉は、美鈴の家に足を運んだ時のことを思い出した。
佑暉が頷くと、眼前の少年は続けた。
「あいつがなんで不登校になったか、お前、知ってる?」
「知らないです」
「あいつ、関東出身やねん。それが原因で虐められてたらしい。俺ら、その虐めてたっていうやつを探してる」
「どうして、ですか」
「うん、まあ、制裁っていうやつやな。個人的に、そういう輩は排除せんと気が済まんねん。お前がそいつのこと、何か知ってたら聞こうと思ってんけど、知らんねんやったら、ええわ」
彼は佑暉から離れ、花見小路通に出ようと歩いていった。しかし数歩先で再び立ち止まり、佑暉の方を振り返る。
「河口、お前も学校で有名になってるぞ。イキりたいだけのヤンキーどもが多いからな。何かされたら、相談でもしてくれ。場合によったら、そいつら全員ぶっ飛ばしたる。俺は堀垣玲音。三年一組。まあ、教室に居らへんこと多いけど。そん時はまあ、伝言とかでもええぞ」
「堀垣玲音」と名乗る少年は、無邪気にも見える笑いを浮かべ、親指を立てる。
最後に、「怖がらせてごめんな」と言い添え、仲間と一緒に路地から姿を消した。
現状、彼らが敵なのか味方なのか、佑暉にはうまく判別できない。ただ、得難い相談相手を得たことは、嬉しい事実に他ならなかった。




