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来たりし春の都街  作者: 橘樹 啓人
第一章 葵の契約
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青天の霹靂

 部活動に励んでいる彩香が出ていった数分後、佑暉も一足遅く旅館を出た。夏葉はまだ髪を整えたりしていて、一人で裏戸を開けた。


 昨晩、あまりよく寝つけなかった。十一時頃に布団に入って、輾転反側を繰り返した挙句、彼がようやく眠りに落ちたのは、初めに床についてから二時間ほど経ってからだ。それというのも、原因はあのチャット相手のことで、自分の身分が学生だと明かしておきながら、「学校に行っていない」という返答をしてきたのだ。


 最も考えられるのは、彼もしくは彼女は引きこもりの不登校生で、家にいる間、ずっと絵を描いている。それを、自身のブログでネット上に公開している……という構図であった。


 佑暉にとって、気になったものの、あまり深入りはしない方が得策かもしれないとも思う。昨夜、少し話をしてみて、仲良くなれそうな雰囲気はあったが、相手が自分のことをどのように思っているのか、今のところ知りようもなく、彼の心は、朝霧に包まれたように、少しもやもやした。


 八坂神社前で、またサキと落ち合い、二人並んで四条通を歩いた。サキからブログについてどうだったかと尋ねられたので、佑暉は帰宅後すぐに見にいったことを伝え、感想を言った。しかし当然ながら、管理人からチャットルームに誘われたことは、黙っていた。


 昇降口で、サキの友人が彼女に声をかけてきたので、佑暉はそこで別れた。早速、高校生活を満喫している様子を見ると、佑暉はいささか安堵した。サキの社交的でおおらかな人格は、ここでも遺憾なく発揮されているのが、兄ながら嬉しかった。


 上履きに履き替え、新しい教室に向かう。


 新学期最初のホームルームでは、少しばかりアクシデント的な出来事が持ち上がったが、それはそれで、佑暉にとっては刺激的だった。担任教師の大西も、朗らかで文字通り「明るい」感じの女性だった。初めてにもかかわらず、人望が厚そうな印象を受けた。


 これからの一年に、胸をわくわく踊らせながら、それでいて表情には出さないように努めながら、佑暉は教室の敷居を跨いだ。


 ただ、入ってすぐ、そこには、異様な空気が張り詰めているように感じられた。


 まず、真っ先に感じたのは、皆からの刺すような視線だった。最初は気のせいかと思われたが、明らかに自分に向けて注がれている。しかも、それは憎悪や好奇心などではなく、憐れみが込められているような気がしてならない。


 もしかして、知らないうちに自分が何か重大なことをやらかしてしまったのではないか、という焦りが喉の奥から込み上げ、急いで自分の席に向かった。


 黒板の脇には掲示板があり、その付近に、小神と伊達野が、立ち話をしているように並んでいた。佑暉が近づいてくるのを認めるや、彼らは互いに顔を見合わせ、気まずい雰囲気に耐えかねるように、その場を離れた。当然、二人のその行動が、佑暉の疑心暗鬼を煽った。


 掲示板には、年間カレンダーのほか、昨日配布された初月号の学校通信などが、貼られている。その掲示物の左下のピンが、不自然に外れていることに気づき、佑暉は鞄を席に置くと、恐る恐る近づいた。


 息が止まるほど跳ね上がった鼓動を抑え、画鋲が外された学級通信の角を、ゆっくりと持ち上げる。その時、彼の目に飛び込んできたのは、自分の氏名だった。その下に羅列された文字列を見て、佑暉は先程からの違和感の正体について、理解した。小脳が焼けたように、思考が覚束なくなり、彼は教室の片隅で呆然と佇んだ。


 ――『東京ニ帰レ』


 フェルトペンのような太字で、そう書いてあったのだ。


 このメッセージは、まるで自分以外に向けられたように、そこから現実味を感じなかった。自分が、本来の世界とは違う、裏側の世界に迷い込んだのかもしれない、とさえ思う。ただ、事実を拒みすぎても、なぜこれが書かれたのか、判然としない。


 同級生たちの、不安と混乱が入り乱れたような視線が、彼の背中を滝のように流れ落ちた。誰がこんなことをしたのか、当然ながら、考える余裕もない。いわれなき言葉の暴力は、佑暉を、深い闇の底に叩き落すには十分すぎた。


「大丈夫?」と声をかける生徒もいたが、佑暉は放心したまま、その言葉の真意も理解できずに、ただ頷くだけだった。


 チャイムが鳴り響き、前方の扉が開いて、大西が教室に姿を現した。場違いなほどの明るい声を響かせながら、例の笑顔を振りまく。


「みんな、おはよう〜!」


 しかし、教室の冷え切った空気が肌に触れ、すぐに異変を察したように、彼女はきょとんと室内に視線を巡らせた。


「どうしたの……?」


 ただ事ではないことに気づいたのか、大西は、近くにいた生徒に尋ねた。


 その時、佑暉は咄嗟に、彼女には見られたくないという思いが働き、掲示物から手を離して問題の文字を隠した。大西に質問された彼らは、居心地が悪そうに下を向いたり、佑暉を一瞥したりするだけで、何も答えようとしない。


 大西は、彼らの視線が一瞬だけ向けられた先に、佑暉がいるのを見逃さなかった。掲示板の前に佇んで、身じろぎもしない彼に近寄っていき、声をかけた。


「河口君、どうしたの?」


 大西が近づいてきていることに、数瞬遅れて気がついた佑暉は、


「な、何でもないです」


 咄嗟にそう答え、誤魔化そうとすると、誰かが彼の肩を叩いた。


 佑暉が後ろを振り向くと同時に、一人の生徒が、自分の前に出てくるのが見えた。一つ後ろの席で、前年度も同窓だった、学級委員長の玄長智弘だった。


 智弘は掲示板の前に立つと、画鋲が外れている掲示物の一部を、勢いよく剥がした。再び、佑暉への悪態が露出した。それを今まさに目撃した大西が、嬌声を上げる。


「ちょっ、何よ、これ!」


 大西は、これまでの彼女からは想像もできないほど、目を吊り上げ、不動明王像もかくやといった憤怒に充ちた表情で、室内をぐるりと睨み回した。


「誰じゃ、こんなことをしたのは! 出てきなさいよ、コラァ」


 大西の豹変ぶりを目の当たりにし、皆は竦み上がったように、目線をそらしたり俯いたり、努めて彼女の方を見ない。


 無論、佑暉には全く身に覚えがない。誰かの不興を買うようなことは、何一つしていない。少なくとも、意図的に他人を傷つけたりなど、するはずがない。以前から佑暉のことを知る者は、彼がそんなことをするキャラではないことは、百も承知だ。恨まれたりするような人間でないこともわかっている。


 静まり返った教室に、険悪な空気が重たくのしかかった。こんな雰囲気の中、無関係を装いたがる大衆の中から唯一、手を挙げる者がいた。


 馬水まみずれんという名の男子生徒だ。佑暉は、彼とも昨年から同じクラスであり、ちゃんと言葉を交わしたことはないものの、彼の登場によって、佑暉は少しの安堵感を手に入れた。


 一方の大西は、動揺を追い越して錯乱しているのか、馬水をキッと睨みつけながら問うた。


「馬水君。あなたなの、これをしたのは!」


「先生、落ち着いてください」


 智弘が宥めた。


 担任から一方的な嫌疑をかけられても、馬水は起き抜けのようなトロンと垂れ下がった瞼をぴくりとも動かさず、淡白な口調で話した。


「俺、見ました。上級生のやつらが、ここに出入りしてるところ」


「それ、本当……?」


 大西は、多少冷静になったように眉を上げ、馬水を見つめる。


 それを聞いて、佑暉はますますわからなくなった。馬水の言うことが本当であれば、自分が彼らに何をしたというのだろう。そして何故、彼らは自分の素性を知っているのか。これまで会話したことのある上級生といえば、彩香とその数人の友人くらいのものだ。


 どうして自分が狙われたのか、いくら考えても、佑暉には合点のいく答えを出せなかった。

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