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海辺のパン屋と孤独なクジラの話

作者: FLABBY

僕が住んでいた町は海にほど近く、父の営むパン屋はそこそこの評判であった。小さいころに一度雑誌か何かに父の店が取り上げられたことがあり、その頃は県外からの客が多く訪れていた。この町の外をあまり知らない僕は、彼らと会話をするのが大好きだった。


「クジラの歌を聞いたことはあるかい?」


柔らかな生地のチューリップ帽を被った若い男が、退屈そうに店の掃除をする僕にそう問うたのを覚えている。薄いあごひげと、時代遅れな丸眼鏡が印象に残る、細身な男だった。


「クジラが歌うはずないじゃないか」

「歌うさ。ほら、今も聞こえている」


彼は薄い一重瞼を閉じた。僕は彼の注文した一斤の食パンと、一番人気のメロンパンを紙袋に詰めながら耳を澄ましたが、開け放たれた窓からは優しく吹き込む潮風の音しか聞こえなかった。


次の日も彼は来た。その日の彼は、いくつかの菓子パンを買っていった。レジを打つ父と彼の世間話が聞こえてきて、僕は彼が東京からバイクだけでこの店まで来たことと、近くの旅館にしばらく滞在することを知った。僕は彼に小さくない興味を抱いた。新幹線を使っても何時間もかかるところから、あんなオンボロで、僕の自転車のほうが立派に見えるくらいの小さなバイクで来ただなんて。単純な子供だった僕は彼ともっと話をしたくなったが、帰り際、手を振る彼に話しかける話題も無く、ずいぶんと歯がゆい思いをしたことを記憶している。


その日、店の片付けの手伝いを早々に切り上げた僕は、父の百科事典で彼の言っていた『クジラの歌』について調べてみた。年季の入った辞典にはしっかりと、クジラの歌に纏わる話が記されていた。彼らは視界が悪く、においも伝わりづらい海の中で、音を出してコミュニケーションを取る。そのことを『クジラの歌』と言うのだ――。その中に、気になる記述が一つあった。明日もきっと店に来るだろう彼に、その話をしてみよう。僕はそう考えて床に就いたが、結局寝付けずに翌朝の店の手伝いに遅れてしまったのだった。


時計の短針が水平を下回るころ、オンボロバイクに乗った彼が、店の前を掃き出す僕に手を振った。僕は彼に尋ねた。『52ヘルツのクジラ』を知っているかい?と――。彼は驚いた顔をして、そして笑って言ったのだ。


「僕はそのクジラに会いに来たんだよ」


52ヘルツのクジラ。通常のクジラよりもはるかに高い声で歌う、世界で一頭だけのクジラ。その鳴き声は他のクジラに聞こえることなく、誰とも話すことができない孤独な存在。蘊蓄自慢をできなかった僕は少し残念に思ったが、それ以上に彼の言葉が気になって問うたのだった。クジラに会いに来るとはどういうことかと。もしかして貴方様はクジラの研究をするえらい先生なのかと。


「独りぼっちじゃ寂しいだろうからさ」

「寂しいからって、お兄ちゃんが海の中にまでクジラの友達になりに行くなんてできないじゃないか」

「……どうだろう。『友達なんかになりたくない!』なんて言われなきゃいいけどね」


ついでに言うと、クジラの先生にはなれなかったんだよ、と彼は困ったように笑ったのだった。彼はいつも通りいくつかのパンを買い、いつも通りに帰っていった。その日の夜に見た夢のことは、今でもはっきりと思い出せる。


何処にも光が見えず、自分の頭が海面を向いているのか、はたまた海底を向いているかもわからない暗い海の中。自分の周りに浮かぶ気泡は浮き上がるとも沈んでいくとも知れず、遊ぶように体に纏わりつく。耳を澄ますと、遠くから音が聞こえる。楽器のような人工的な音とも、獣の咆哮のような生気あふれる声とも、どちらにも似て、どちらとも異なる、不思議な高い音。その音――いや、声の主はどんどんと近づいてきて、僕の身体は次第に波に飲まれていく。しばらくの浮き沈みの後、身体がゆっくりと引っ張られるのを感じ、今僕は海底に沈んでいっているのだと理解する。そのすぐ隣を、あぁ、なんと大きな目が僕を見つめているのだろうか。その目の主は、あの高い声を響かせながらゆっくりと泳ぐ巨大なクジラである。彼、あるいは彼女は僕に少しだけ目を向けると、興味はないとでも言うように、ゆっくりと僕から離れていく。――その時だ。また聞こえてきたのだ。この巨大なクジラとは別の誰かが発した同じ声。クジラは声に反応して身を翻す。巨大な水流に巻き込まれて、再び浮き上がる僕は、視線の先にもう一頭の小さなクジラを見た。二頭のクジラは寄り添い、輝きをもって漆黒の闇の中に消えていく。その姿があまりにも幸せそうで、楽しそうで、僕はいてもたってもいられなくなった。まるで遠足の日に風邪を引いてしまったかのような、もどかしさともったいなさが胸を突き破り、僕は思わず叫んだ――僕もいっしょに連れて行ってよ!――。小さいクジラが振り返り、オキアミのようにジタバタと動き回る僕を見つめる。僕は嬉しくなり手を伸ばす、が、彼は僕を見つめて、あの高い声で咆哮した。クジラの言葉の意味など知る由もないが、僕は強い言葉で「来るな」と言われたことをはっきりと理解した。こんなにも素晴らしく美しい場所で、自分たちの邪魔をするなと――そんなことを言われた気がして、僕の目から涙が溢れ出す。溢れた涙は頬を伝わらず、ただ僕の周りに広がる暗い海の中に溶けていく。僕は何度も何度も叫ぶのだが、彼らにはその声は届かない。52ヘルツという彼らの「言語」から遠く離れた僕の声は、もう彼らに届くことはないのだ。僕はその雄大な姿を見送り――目を覚ましたのだった。


次の日から彼はパンを買いに来なくなった。あのオンボロバイクで東京に引き返したのか、クジラを追いかけて旅をしているのか、僕は知らない。だが大人になった今でも、店の窓から海を見るたびに、彼と最後に話した日に見た夢を思い出す。店を閉めた後、不意に懐かしさを覚え、窓を開け放つ。彼と初めて出会った日と同じ潮風の音に重なり、夢の中で聞いたあの声が、聞こえたような気がした。


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