猫な上司の部下の日常
古びた旧庁舎の二階奥にその場所はあった。
「蜂須賀」
「…ん?神奈か」
柔らかな蜂蜜色の頭が書類の山からひょっこりと覗く。
細身のメタルフレーム越しの瞳を薄らと細め、その美丈夫は声のする方へ顔を向けた。
扉窓の磨りガラス越しに映る人影を見遣ると席を立ち、引き戸となっている扉を開いた。
「あぁ、助かったよ。両手が塞がってるからどう開けようか考えていたんだ」
「ガラス越しにファイルの山が見えたからな…」
あのまま入室許可を出してたら貴女、足を使って扉を開けてたでしょう
…という言葉が喉まで出かかったが。
蜂須賀 隼斗
七里の同期である熊代の直属の部下で、神奈とは同期の仲であった。
「これ、熊代さんから頼まれたファイル持ってきた」
「それは…お手を煩わせて申し訳ありませんでした」
「このくらい構わないよ。本当は熊代さんが自分で持っていくって言ってたんだけど、上層部から急に呼び出しかかっちゃったみたいだからさ」
うちの七里先輩も一緒に呼び出されてるから、何か重要な案件かもね。
ファイルを蜂須賀に渡しながら、神奈はそう言った。
ずしりと腕に掛かる重さに内心驚きを隠せない。
「神奈…貴女、これを一人で運んできたんですか?」
「…?そうだけど?」
女性を非力であると決め付けてはいないが、これは大の男が持ってもかなり重たい部類に入ると思う。
それを顔色ひとつ変えず、汗ひとつかかずに持って来るとは…
「まぁ、普段から10kg近い毛玉抱えて仕事してるからね」
「あぁ、七里さんか…」
呪詛により人から猫へと変化した七里は一般的な猫とは大きさが異なり、メインクーンという猫種に近い大きさをしていた。
「ちょっと目を離すと『巡回』とか言って書類処理から逃亡しようとするから、捕獲スキルと筋力が無駄に上がってるのよ…」
「なるほど…」
受け取ったファイルを手近な空きスペースに置くと、蜂須賀は神奈を振り返った。
「いま丁度仕事のキリが良いから休憩しようと思っていたんです、良かったら神奈も一緒にどうですか?」
「いいね!是非!」
普段はあまり変化を見せない神奈の表情が明るいものへと変わる。
「コーヒーと紅茶、どちらにしますか?」
「蜂須賀が淹れてくれるなら、紅茶がいいな」
「了解です」
慣れた手つきで手際良く紅茶を淹れる準備を始めた。
「…蜂須賀のところも忙しいみたいだね」
「えぇ…ここ最近は討伐任務が劇的に増えてきています」
温めたティーポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。
コトリ、と砂時計をひっくり返して三分間。
「任務に割ける頭数が足りてないって、七里先輩もボヤいてたな…」
「俺たちみたいな異能者は数自体が少ないですからね」
温めたカップに琥珀色の液体が踊る。
最後の一滴まで注ぎきると、蜂須賀は神奈にカップを手渡した。
いただきます、と一口。
「…やっぱり蜂須賀の淹れた紅茶は美味しいなぁ」
「お口に合ったのなら何より」
へにゃりと頬を緩める神奈の姿に、蜂須賀も自然と笑みがこぼれる。
日々の激務の合間の癒しの時間だ。
「七里さんのほうはどうなんだ?何か元に戻る手段の手掛かりは見つかったのか?」
「いや…そっちは相変わらず進展なしだよ。先輩自身、猫生活を楽しみ始めてしまってるしね」
神奈は眉間にシワを寄せると、はぁ…と溜め息を吐いた。
「そうか…俺たちも仕事合間に調べてはいるんだが…」
「ありがとね、助かるよ」
持つべきは友好的な同僚だなぁとしみじみ思う。
神奈たちが属する『特異対策庁』は主に異能を持つ家系で構成されているため、御家事情が複雑に絡み合って同じ部署内でも不仲で非協力的だったり…などと、何かと人間関係が複雑だったりする。
そんな中でも、この熊蜂(熊代・蜂須賀)バディは七里や神奈に友好的に接してくれるため、とても有り難い存在だ。
「先輩が元に戻ったら、みんなで焼肉行こうね」
もちろん七里先輩の全奢りで
「ははっ…楽しみにしてるよ」
こうして部下たちの休憩は穏やかに過ぎていった。