前編
昼間の雨は、夜になっても降り続いていた。
時計の振り子の、時を刻む音が聞こえてくる。カチカチと揺れるその音は、まるで否が応でも進んでいく時を私に見せつけているようで酷く耳障りだった。
私は、目の前の老人に目をやった。
その白髪の老人は、歳にしては体格のいいがっしりとした男性で、その大きな身体をベッドに横たわらせて静かに目を瞑っていた。
辛うじて、息はしているようだった。
たったそれだけのことに私は安堵する。
しかし上下する胸や、その息は弱々しく、その顔にも深い死相が見えていた。
「サルワーティオ。聞こえてる?」
私は言った。
すると彼、サルワーティオと呼ばれた老人は私の声が聞こえたようで、目を瞑ったまま呼びかけに応えてくれる。
「どうした」
森の雨音に消えいってしまいそうなほど、彼の声は微かだった。
「ねえ、貴方はどうして、私なんかを育ててくれたの? ただ偶然に魔女の集会で見つけただけの私を、不釣り合いな大金で買い取ってまで」
そう私は問いかける。なるべく普段の調子で、声が震えるのを彼に悟らせないように。
彼にした質問。それは何十年にわたって彼へと問いかけてきたものだった。
もう何度この質問をしたのかさえ覚えていなかった。だからこの質問に、彼が答えないことも私はよく知っていた。
しかし、もしかしたら今日こそは答えてくれるかもしれないと思って、私はまた、その問いを口にしたのだった。
「何度も言ったはずだ。答えは変わらない」
果たして彼はそう言う。
以前から何回も彼にしてきた、その問いかけ。いつしか彼はまともに答えてすらくれなくなって、いつも結局私が代わりに答えるのだ。
それは、挨拶のようなものだった。
度々暇なときに、思い出したかのように彼へと問いかける私の存在意義だった。
「若いころから築き上げてきた自分の財を、そのまま腐らせるのが惜しくなった、でしょう。そうね、貴方はいつだってそう言う。《強欲》と呼ばれた貴方が、何で魔術の世界へ足を踏み入れて、何でその財を私に押し付ける気になったかが、私は知りたいっていうのにね」
「お前は、ちょうど良かった。それだけの事だ。呪いによって、決して老いて死なないお前ならば、俺の財を使い潰せるだろうと思っただけだ」
老いて死なない。
彼の言ったそれが悔しくて、私はベッドのシーツをぎっと握った。
元々彼、サルワーティオは、剛腕の商売人であったらしい。
それは、あの手この手で商売相手を出し抜き、潰し、ひたすらに金を稼いできた強欲の商売人。真っ当ではない、非道な手で強引に進めてきた商売も多かったそうだ。
かつて商人だった頃の話を彼は自ら進んで語ろうとはしなかったが、それは時折、様々な形となって私の耳に囁かれた。
金の為なら何でもする。そして、目的の為なら何でもする。
そんな彼が、そうしてまで必死に辿り着こうとした先は、魔法の世界だったと私は知った。
魔法。魔女。魔術。魔術師。
呼称はたくさんあって、定義も何も人によって大きく変わる。
人から隠れて、世の中の神秘を掘り起こし、使う研究家たち。
それが、私と彼の生きる世界だった。
「そうだ。お前を育てたのは、金を腐らせるのが口惜しかった。それだけのことだ」
何が目的だったのか、彼はその金に物を言わせて《沼地の魔女》と呼ばれる若い魔女の弟子となる。
それは本来なら、才能を持って生まれてようやく踏み入れることの出来る世界のはずだった。しかし、それを踏みにじるように、魔女の弟子と言う立場を彼は金で買った。
そんな彼を、魔女たちは蔑み、《強欲》と呼んだ。
《強欲の魔術師》、サルワーティオ。それが彼と言う人間だった。
そこで彼は、私と言う後継者を買う。
不老の呪いを背負った私を。
ただ、財産を託す。それだけの為だと彼は言った。
「この魔法の世界に何を求めたのか、貴方はやっぱり、教えてはくれないのね」
「俺が魔術師になった理由も、お前が気に掛けることではない。それは、お前には重荷にしかならないものだ」
頑なに、彼は言う。
何故、彼は魔術の世界を目指したのか。
何故、そこで私を買ったのか。
彼の遺志を継いで、私は何をすればいいのか。
私はそれを知り、出来る限りに報いたいだけだと言うのに。
「重荷を背負うには、まだお前の人生は長すぎる」
彼の答えは、どうしたって変わらなかった。
「貴方がこうして死に掛けているというのに、最後かも知れないというのに、結局教えてはくれないのね」
「どう答えたって、呪いを受けたこの身体が快復するわけではない」
「そう」
彼の身体を蝕む病は、他の魔女が放った呪いによるものだった。
それは長年にわたって私と彼に向けられてきたはずの呪い。彼がずっと、才の無い魔術で退け続けてきてくれたものだった。
凡人、とも魔女から評される彼が、主に研究していた抗呪の魔術。
それに決して甘える事なく、早めに呪いの元を絶っておけばよかった、と、私は思った。
「……止めはしないが、復讐など、あまり気負うものではない。これは、大したことではないのだ」
「だって」
内心を見透かされたようで、私は頭を振る。
彼はそれを笑い、小さな声で言った。
「必然だ。遅かれ早かれ、人は死ぬ。俺は、ただ偶然に今まで生きていただけだ」
「私は死なないわ。この身体は老いることが無いんだもの。貴方がいなくなった後も、私は一人で生き続けなければいけない。だというのに、もう私を置いてくの?」
「お前にも、いつか死は訪れる。なに、それも決して悪いことばかりではない。お前も好きなように、その時の誰かに財を渡してやれ」
時間は過ぎてゆく。
カチカチと、振り子は揺れる。
しばらく訪れた沈黙を経て、彼は私に聞いた。
「俺は、善き魔術師で在れただろうか」
凡人と言われた彼は、決して優れた魔術師と言えるものではなかった。
しかし、私にとっては、間違いなく善き、何よりも尊き魔術師だった。
「ええ。最高の魔術師だったわ」
言うと、彼は笑う。
長い夜が明ける頃には、いつの間にか、降り続いていた雨は止んでいた。
初めて彼と会ったのは、わけの分からないままに連れて来られた魔女集会でのことだった。
私が生まれたのは、はるか東の地だった。
住んでいた地の名前も思い出せないほどに幼い頃、人質に入れられてしまった私は、西の商人に買い付けられて、見も知らぬ西の地へと連れて来られた。
長い長い旅路を経て。
ようやくたどり着いた檻の中で、私はある魔女の目に留まる。
「ほう、こいつは金になるね」
私を見つけた魔女は、私が呪いを背負っていることを一目で見抜いた。
その呪いとは、私が生まれ持ち蔑まれた異常のこと。その魔女が実際にどこまで見抜いていたのかは分からなかったが、私は金になるようで、その魔女に買い取られた。
後から知ったことなのだけれど、その魔女は人売りを長年やってきた魔女だそうだった。別の人売りの商品を見に足を運んで、魔的な価値がありそうだったら引き取って、魔女集会へと連れて売り捌く。
魔術。魔法。私の背負った呪いの所為なのか、それとも元々生来のものなのか、私には才能があったらしい。
そして、場所も定かではないどこか庭園のような場所で、私は魔女と言う存在たちを知った。
けれど、私は物を知らない商品だった。
ただ成り行きに身を任せ、結果を待つことしか出来なかった。
「おや、面白い小娘だね」
ふらりとやってきた魔女が言う。
「《渓谷の魔女》じゃないか。どうだい、面白いだろう」
その魔女は、《渓谷の魔女》と呼ばれていた。
意地悪そうな顔をした、初老の女性。その魔女は私の髪を掴み、顔を見る。
「この娘に掛けられた呪いは、恐ろしいほど強力だよ。呪いと言っていいのか分からないほど異質で、少なくともヒトの仕業じゃないだろうね」
人売り魔女の説明を聞いて、ほう、と《渓谷の魔女》は粘着質に笑う。
「よし、買おう。二百でどうだい」
「馬鹿言ってんじゃないよ。他の集会に持っていったら、三百は出す魔女だっているだろうさ」
「じゃあ二百と五十だ。使い潰すかもしれない娘に、そんなには出せないね」
「三百は譲らないよ」
人売り魔女は頭を振る。
そこで、ふと。
二人の初老の魔女たちが私の値の交渉をしていると、少し庭園の入口の方がざわついたのが感じられた。
何かあるのかと思って見ると、そこには壮年の男性と、同じ年頃の若い魔女が立っていた。
男性の方の、サルワーティオという名は、すぐに知ることとなる。
「ち、《強欲》が。《沼地》の弟子でなきゃ参加資格もないくせに」
「碌な呪いも扱えないのに、よく顔を出せたもんだ」
どこからか老婆の、そんな声が聞こえてくる。
値の交渉をしていた二人も、忌々しそうに《強欲》と呼ばれた男性を眺めていた。
やがて、その男は私のいる広場の片隅へと近付いてきた。
そして蹲っている私に気付いたようで、立ち止ると、そっと手をやって顔を覗き込んだ。目が合って逸らすことは出来ず、私はじっと彼の顔を眺める。
私は彼が、静かに笑ったような気がして、首を傾げた。
「この娘は売り物か」
《強欲》は、人売り魔女へと話しかける。
「そうさ、買うかい」
言ってニタアと笑う魔女。
しかし、先ほどまで値交渉をしていたもう一人の魔女がすぐに口を挿む。
「何言っているんだい。この娘は、私が先に買おうとしていたんだ。横取りするんじゃないよ」
「それは本当か」
問いかけた《強欲》に、人売り魔女は答える。
「ああ、そうだね。今ちょうど、三百で買うと話が付いたところさ」
「な」
「あんたがそれ以上出すんだったら、考えてやらんでもないよ、《強欲》」
思わず絶句する《渓谷の魔女》だったが、しかし、《強欲》と呼ばれた男は気にも留めずに口を開いた。
「一千だ」
は、と魔女たちはその金額に呆けた声を出してしまう。
「一千なら文句はないな」
もう一度確認をする彼。人売り魔女は、思いもよらなかったその金額に幾度か頷くと、やがて言葉を返した。
「ああ、そこまでの金額なら文句はないよ。この娘はお前のものだ。煮るなり焼くなり、好きに使いな」
「では、頂いていこう。悪いが金は後日、屋敷に取りに来てくれ。なに、違えることなく払う」
「あんたが金を持っているのは知っている。喜んで、それくらい取りに行こうじゃないか」
人売り魔女は笑う。
私は何が起きたのか、あまりよく理解していなかった。
売られてしまった私は、誰かに買われたことには変わりないのだから、あとは自分のちっぽけな力の及ぶ範囲ではないとだけ思っていた。しかし、男がそっと頬に手を当ててくれたことを考えると、まだ良かった方なのでは、とも私は思った。
だから私は、ひっそりと小さく息を吐いた。
「《強欲》」
「……なんだ、《渓谷の魔女》」
怒りに震える声で、彼を呼んだのは、《渓谷の魔女》だった。
《強欲》は特に興味も湧かないと言った様子で、魔女へと応じる。
「その娘は、お前の手に余るんじゃないのかい」
「そうだな。少なくとも俺のことは軽く超えるだろう」
「おや、育てる気なのかい。いつになるんだろうね」
「二十年もあれば、十分だろう」
《強欲》は私を育てるつもりだと言った。
魔女と言うものをよく知らなかったし、彼のような、魔術師のことも私はよく知らなかった。だから、私は何をさせられるのだろうと、細やかながらに不安があったのをよく覚えている。
「そうかい。それだけの大金叩いて買った小娘、病でも患ってあっさり死なないよう、精々気を付けることだね」
まるで呪詛を吐き捨てるように、《渓谷の魔女》は言った。
魔女集会の後、私が連れて来られたのは、森の中に佇む立派な屋敷だった。
サルワーティオ、と名乗った彼は言う。
「今日からお前はここに住むんだ。魔術を覚えろ、研究しろ。あの世界の中で生きていく術を身に付け、さっさと俺を超えろ」
「私が?」
買われて来た、何かの目的の為に連れられてきた、と言う認識はあった。しかし、それからどうしたらいいのか何一つとして想像出来ていなかった私は、思わず彼へと問い返した。
「そうだ。お前より俺は先に死ぬ。まして、お前は決して老いで死ぬことは無い。子や、孫の代よりもお前は長く生きるだろう」
「分かるの?」
「これでも魔術師の端くれだ。お前に刻まれた呪いくらいは分かっている」
私に刻まれた呪いについては、人売りの魔女から多少は聞かされていた。その魔女は、何か面白い呪いが刻まれている、程度にしか認識していないようだったが、サルワーティオはその内容を知っているようだった。
「だから、あの《渓谷の魔女》もお前を欲しがったのだろう」
彼は言うが、私は首を傾げる。
しかし、私は不意にあの魔女の言葉を思い出すと、まだ私たちに何かしてくるのでは、という懸念に駆られてしまった。
私は不安を感じて、サルワーティオの服の袖を小さく握った。
「でも、あの人――」
「俺は、魔術師としての立場を金で買った《強欲》と呼ばれているが、抗呪だけには時間を掛けてきた。お前くらいなら守ることが出来るだろう」
抗呪。
掛けられた呪いを跳ね除けるだけの術。
まだそれが何のことであるのか分からなかったが、私は彼の横で、頷いて見せる。
「何も心配することは無い。いつかその時、誰かを守ることの出来るような、善き魔術師を目指せ」
彼は言った。