イラン紀行~「ペルシア帝国」を訪ねて~
私はかつてペルシア語文化圏であるイラン・イスラム共和国を訪ねたことがあります。どうして「ペルシア語文化圏であるイラン・イスラム共和国」と言うのか。それは「ローマ」がイタリアだけのものではないように「ペルシア」もまたイランだけのものではないからです。
「西ローマ帝国」はラテン語やゲルマン語派の文化圏が継ぎ、「東ローマ帝国」はギリシア語やスラヴ語派の文化圏が継ぎました。「ペルシア帝国」もペルシア語の文化圏が継ぎました。ペルシア語はかつてイラン高原や中央アジア、インド亜大陸、アナトリア半島などで用いられており、そこに一つの文化圏を築いていました。
そのようなところにかつては属した国の一つとして私はイランを訪ねました。それにはパスポートだけでなくてビザも要りました。お金はアメリカ合衆国と仲が悪いためにトラベラーズ・チェックが使えなくてクレジット・カードも限られたところでしか通じず、それでいてアメリカのドルは使えましたので、郵便局において円をドルに両替してもらいました。
服は白いシャツを薦められてそれに従いました。暇を潰さなければならない時のためにフェルドウスィー『王書』を持っていくことにしました。ペルシア帝国の遺跡などを写したくてデジタル・カメラも携えましたが、プラグなどの関係で充電には別に器具が必要でした。
一日目
まずはアラブ首長国連邦のドバイ国際空港に飛びました。女性乗務員さんが被っている帽子は、ヴェールのようなものが垂れており、中央アジアの被り物を思わせました。アイ・マスクや歯ブラシの入ったポーチを渡されましたが、それには民芸のような紋が描かれてありました。
二日目
ドバイ国際空港があるドバイ市は、アラブ首長国連邦に属するドバイ首長国の都で、空の上から見た街は、夜の灯りで煌びやかでした。ドバイ国際空港も華やかなデパートのようで、ドバイはイスラム教の国ですが、女性が肌を晒しても咎められず、洋酒どころか日本酒や竹鶴も売られていました。駱駝の乳を使ったチョコレートというものもあり、イスラエル国の企業が作ったチョコがそこだけで扱われてもいました。
ドバイから乗り継いでテヘラン市のイマーム・ホメイニ国際空港に飛び、テヘランに行く道すがら、女性のお客さんたちはスカーフを被って肌を晒さないようにしました。客室乗務員さんもスカーフを被っていました。イラン・イスラム共和国へはお酒を携えてもなりませんでした。
イマーム・ホメイニ国際空港はドバイ国際空港よりも鄙びていました。ホメイニ師とハメネイ師の肖像が掲げられてあり、イランにやってきたという気がしました。暑くはありましたけれども思っていたよりも乾いてはなかったです。
イランの都に着きますと、イラン人のガイドさんおよび運転手さんと合いました。ガイドさんは大きくて太った人で、暇があれば何か食べており、日本語で色々と解説をしてくれましたが、ローマ字で書かれた和文は大丈夫なのですけれど、漢字や平仮名・片仮名は無理でした。運転手さんは背が高くてサングラスを掛け、よくメロンを切っておやつに下さいました。
イラン・イスラム共和国の道路は停電に備え、ロータリーが多くて信号は少なかったです。歩行者の人々は自己の判断で道路を渡り、手を上げて車に止まってもらうこともありました。複数人が乗った自転車やバイクも見受けられました。
通りは誇りっぽくて瓦礫や廃墟もあり、イラン・イラク戦争で戦死した兵隊さんたちの遺影も街路や役所に飾られてありました。壁にペルシア神話が描かれているかと思えば、イスラム教の礼拝堂には説教をする法学者さんの看板が派手に掲げられ、寺院から出てきたところを記念撮影に応じてくれた法学者さんもいました。女性には美女が多くて子供には愛らしい子が少なくありませんでした。
女性はスカーフを被り、肌を晒してはいませんでした。しかし、服装の規制が緩くなっているらしく、後ろ髪は出す人もいれば、前髪を出してそこだけ染める人もいました。また、ぴったりした長袖の服やスリム・パンツを着用して肌は晒さなくても体の線がはっきり分かる人も見られました。
道を行く人からは中国人と思われ、どうやらあちらでは平たい顔が珍しいらしく、「チーン!」や「アチョー!」と声を掛けられました。そうして最初にゴレスタン宮殿を観光しました。カージャール朝が使用していた宮殿で、近代化を諸外国にアピールするため、洋風のデザインを取り入れていますが、アルサケス朝から続く伝統に則って壁面や天井がガラス細工でぎらぎらと輝いており、同じく欧化していた日本の陶磁器が所蔵されておりました。
シーア派の幽隠した十二代導師の誕生日が近いそうで、辺りではライブが催されるなどしており、造花の薔薇と鳩の塑像を無料で頂きました。昼食は羊肉や芋が入った煮込みのスープであるアーブ・グーシュトをナンと一緒に食べました。イランのナンは薄くてぱさっとしていました。
イラン料理はバターを混ぜたぱらぱらなお米のピラフ、ケバブ、どろっとしたスープ、胡瓜やトマトといった野菜、西瓜やメロンなどの果物、棗椰子、かなり甘いお菓子などが多かったです。癖はそんなに強くありませんでしたけれども油っぽく、濡れティッシュを使うことが少なくありませんでした。水が貴重であるため、便所の水洗は水力が弱く、トイレット・ペーパーをごみ箱に捨てなければならなかったり紙がなくて手と備え付けのシャワーで拭わなければなかったりしたので、水に溶けるティッシュもよく用いました。
便器は和式のようなものが多く、洋式でも便座に靴跡が見られることもあり、扉を開けたら大量の蠅が出てきたこともあったので、出来るだけ少ない回数で用を足しました。それゆえ、水分はなるべく取らないようにしました。飲酒が禁止されたイラン・イスラム共和国ではビールと言えばノン・アルコールで、トロピカル・フルーツの味もありました。飲み物は紅茶が多くて棒状の飴を溶かしながら飲みました。
食後はイラン考古博物館で少し歴史に触れました。そこは数千年の歴史を有するイラン史の原始から古代を扱い、スカーフを被った女子小学生さんたちが社会見学に来ていましたが、引率の先生もスカーフ姿でした。博物館にはギリシア人の彫刻やローマ人のモザイク画、塩漬けの木乃伊、ササン朝のコミカルなイラストがあり、展示によればもしかしたら、エラム文明は世界で最古の文明化も知れないらしく、お土産に展示品をプリントした栞を買いました。
見学後はペルシア建国二千五百年を記念したアーザーディー・タワーを撮影してスーパーでお買い物をしました。売り物の食材は一つ一つ量が多く、量り売りのものもありました。ドルを幾らかリアルに換えましたが、ドルが基本であってリアルは桁が大きくて換算が難しかったです。
メヘラーバード国際空港で牛肉のケバブと西瓜の夕食を取りました。そして、国内線でシーラーズ市へと移動してホテルに泊まりました。時差や緊張で酷く疲れて気分が悪くなり、家に帰りたいと願ってしまいました。
三日目
一眠りしたことで元気を取り戻してローズ・モスクを観光しました。ステンドグラスを通して色付きで差し込む朝日により自分をライトアップする観光客さんが結構いました。屋内には大昔から使用されている広くて深い井戸もあり、格子の蓋に立って青く仄かに光る底を覗きますと、腰が抜けそうになりました。屋外ではスカーフを被っていない女の子を見掛け、初潮が来る前は女性と見なされず、親御さんは目一杯おめかしをさせ、特にアメリカ合衆国のファッションが好まれるそうです。
続いてシーラーズ市の郊外に位置するペルセポリス遺跡へ向かいました。シーラーズの市場には果物が一杯あり、乾燥した地帯でも沢山の作物が穫れるのだなと感心しました。ペルセポリスはアレクサンドロス三世に侵略されたせいでダレイオス三世の宮殿が途中で放置されてあったり労働者の住宅街が復元されたりしており、本物の遺跡を利用して宮殿を再現した区画も存在しました。お土産の店で現存する遺跡と往時の再現が比較できる本を買わなかったのは今更ながら残念です。
もっとも、帰国してから暫くの後、インターネットの通販で購入できました。ただし、本当に同じものなのかは断言できません。旅が始まって直ぐ高額の出費をするのに二の足を踏んだのですが、やはり現地にて購入した方が良かったです。
現地で買ったお土産はナッツやヌガーといったお菓子、薔薇の香りがする蜂蜜のような薔薇味のジャムなどで、楔形文字で名前を書いてくれるサービスもありました。キュロス二世や遺跡の人面有翼獣神像を再現したフィギュアもあり、偶像崇拝に当たらないのか訝しみました。ペルセポリス遺跡に近い噴水と木陰が涼しいカフェで食事した後、アケメネス朝の王墓とササン朝のレリーフがあるナクシェ・ロスタム遺跡に行きました。
ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教の神殿は、写真で想像していたより大きく、図書館や遺体処理に利用されたそうです。ペルセポリスにおいてもそうでしたが、ナクシェ・ロスタム遺跡にも修復のために足場が組み立てられてありました。王墓やレリーフは巨大であって神殿も深く掘られた穴から高く聳えているのですが、磨り減ったり崩れてあったりしていました。
その次はクルアーン門を撮ってアリー・エブネハム廟を拝観しました。神聖とされる緑色のガラス細工によってぴかぴかで、女性は入り口で花柄のチャドルを着なければなりませんでした。それから、パフラヴィー朝も所有していた「楽園の庭」エラム・ガーデンへと移動しました。
そこはシーラーズ大学に付属するペルシア式庭園で、博物館には恋物語の細密画が描かれており、庭に日本の枇杷が植えられているのを見付けました。帰りには牢獄にも使用されていたキャリーム・ハーン城塞を撮りました。夕ご飯は魚のケバブを食べ、ツアーからはぐれたマレーシア人の観光客さんと出会し、その人は困っていましたが、後で無事に同行の人々と合流できました。
四日目
キュロス二世の王墓があるパサルガダエ遺跡に詣で、ミニのシャトル・バスにてお参りしました。キュロス大帝のお墓も写真で想像するより遙かに大きく、エラム・ガーデンの水路はパサルガダエの庭園を真似たそうですけれども今は川が涸れ、荒れ野に高山植物のポピーが咲いており、諸行無常という感じでした。大帝の浮き彫りもあったのですが、ペルシア帝国が統治するエラム地方の服装やエジプトの髪型をしており、地上ばかりか空や海も支配していることも示すため、牛の脚や鳥の翼、魚の尻尾などをくっつけられて凄まじかったです。
お昼ご飯はスープやセロリの煮込み、石榴のソースを掛けた鶏肉などで、食後にはかつて氷が保管されていた氷室に立ち寄り、これまた巨大な内部の空間を見てからヤズド市の「沈黙の塔」に行きました。ゾロアスター教徒が風葬を執り行った「沈黙の塔」は、今は階段が取り付けられて登りやすかったのですが、途中で砂嵐に遭い、風葬の執り行われた理由が身に染みて分かりました。頂上の墓穴には骨があり、誰かが人を驚かすために獣の骨か何かを投げ込んでいました。
遺族の方々が泊まった宿にも入りました。昔は風葬を執り行う人々が住んでおり、「沈黙の塔」から出ることを許されなかったそうですが、その人たちは天国に行くのが保証されていたとのことです。今は「沈黙の塔」が崩れて低くなり、禿鷲がご遺体の肉を啄んで外に持っていくかも知れないので、風葬は禁じられているそうです。
同じくヤズドにあるドウラト・アーバード庭園にも行きました。そこには王朝の末裔が今でも暮らしており、天然のクーラーである「風の塔」が備え付けられ、ガイドさんがティッシュを通気口に投げ入れましたら、上に昇っていきました。続いてアミール・チャグマーグ広場に移動しましたが、大きい水車のような御神輿が出ており、シーア派のお祭りにおいて使われるとのことでした。
金曜モスクでは慈善事業で豆のスープが配られていました。鍋を預かっている女の子を男の子がふざけて蹴飛ばす振りをし、別の子と取っ組み合いの喧嘩になりました。スープはどろっとして胃に溜まりそうでしたが、善意を無下にするわけにも行かなくて完食しました。
迷路のような旧市街ではペルシア絨毯のお店で買い物を楽しみました。店員さんは絨毯を床に何枚も重ね、商品を紹介してくださり、店内に飾られてある品々を拝見しますと、女性が胸を覗かせて官能的な古典の絵柄もあって大丈夫なのだろうかと思いました。輸出の制限など国家に保護されてはいますが、日本の伝統工芸と同じくペルシア絨毯も後継者が不足しているそうです。
店の屋上からライトアップされた旧市街を眺めました。金曜モスクも青く照らされて電球が幾つも吊されていました。そこでは日本人の留学生さんと出会って驚き、向こうも久し振りの日本語を懐かしがっていました。
五日目
ヤズド市にあるゾロアスター教の寺院アータシュキャデで千七百年以上も守られている聖火や博物館、庭園などを拝観してきました。ガイドさんによればゾロアスター教は現世を楽しんでお祭りが多く、正しい思考・行動・言葉だけで天国に迎えられるという簡潔な教えであるそうです。彼はゾロアスター教に好意的であってその教義を名刺に印刷するほどですが、イラン・イラク戦争を両国の独裁者によってそれぞれの国民が犠牲となった戦争であると言いました。
移動の途中にカナートを見ました。地下の水路と繋がる井戸には砂が入らぬようタイヤが置かれてありました。そこには過去に隊商が利用していたキャラバン・サライもあり、暖房設備が今も残っておりました。
宿舎には現在も駱駝や羊がおり、糞もあって多少は臭く、チップを出せば遊牧民のお爺さんがガイドしてくれました。イラン・イスラム共和国の結婚はお見合いと恋愛結婚が半々らしく、遊牧民の人々は出会いが少なくて親戚とのお見合いが主流だそうです。また、男性は恰幅が良い方が好まれるとのことです。
牛肉と豆の煮込みやヨーグルト、鱒のグリルを堪能してから「イランの真珠」イスファハン市ではマスジェデ・ジャーメに参拝しました。元はゾロアスター教の神殿であったのがイスラム教の礼拝堂となり、長い歴史の中でニザーム・アルムルクやティムールなど有名人たちが改修を加え、歴史の厚みを感じさせられました。帰りにチャドルのお店を見掛けました。
他にもイスファハンにおいてはハージュ橋を歩き、サファヴィー朝のアッバース一世が建てさせたスィー・オ・セ橋の方にも行きましたが、雨が降っていたので、川に水があって良かったです。もっとも、薔薇の季節でありながらも気象異常でそちらは観賞できませんでした。晩餐はホテルの最上階にある回転式のレストランで風景を楽しみつつ、鶏肉のソテーなどを頂きました。
六日目
引き続き「世界の半分」イスファハン市を観光してヴァーンク教会を見学しました。そこはアルメニア正教の教会ですが、建物はイスラム教の様式が取り入れられ、壁画はイタリアの画家が描きました。イラン・イスラム共和国はシーア派が国教で、迫害を避けるためか、キリスト教の教会であるけれどもホメイニ師とハメネイ師の肖像が掲げられていました。
敷地内の博物館にはアルメニアの美術品や工芸品が陳列されており、『聖書』の言葉が書かれた髪の毛もありました。明治時代に日本へ来て和服を着たアルメニア人夫婦の写真も、何故か展示されていました。アルメニア人虐殺を取り上げた区画もあり、これが許可されているのは、反トルコであってイランには矛先が向かないからでしょうか。
中東においてマイノリティにまつわる問題ではクルド人問題が挙げられるでしょう。ガイドさんはクルド人の人々を評し、今は大人しくさせられているけれどもよく騒ぎを起こす民族であると言いました。また、クルド人の人たちはメディア人の子孫に当たるとのことです。
教会のお土産屋さんにて金属製である青色の水差しとお椀を買い、次にマスジェデ・シェイフ・ロトフォラへ移動しました。礼拝する場所が男女で分かれており、女性が礼拝する場所は、地下にあって男性のものよりも簡素でした。男性が礼拝する場所の床に格子があり、そこから女性の礼拝する場所が見えました。
それから、アッバース一世が造らせたアーリー・ガープ宮殿を訪れました。狭くて急な階段を上った宮殿のテラスは、アケメネス朝のものを模しており、衛所の柱はそれに向かって話し掛けましたら、声が斜向かいに届き、衛兵たちは持ち場を動かずに駄弁りながら暇を潰したそうです。ハージュ橋にも似たものがありました。
サファヴィー朝が建てた迎賓館であるチェヘル・ソトゥーン宮殿ではそこのチャイハネにてティータイムと洒落込みました。ミント・ティーにお茶請けはチュロッキーのようなお菓子でした。宮殿は当時の絵画が復元されており、「邪悪なまでに美しい」イスマーイール一世の姿もありました。
お昼はちょっと豪華なレストランで頂きました。食堂に温室やワイン・セラーがあり、壁には美人画が掛けられてありました。海老のケバブや鶉の丸焼き、ギャズというヌガーのようなお菓子などが供されました。
マスジェッド・セイエット・モスクでは礼拝堂が緑に彩られ、シャンデリアや聖者廟も緑色でした。ハシュト・ベヘシュト宮殿には機械で動く人工の滝があり、お客さんが来た時だけ見栄を張って機械を動かしたそうです。外のベンチでカップルがいちゃついてましたが、風紀の厳しいイラン・イスラム共和国においては「俺たちは古い道徳に縛られないぜ!」という意思表示であるとのことです。
イスファハンのバザールは商店街と歴史遺産を足して二で割ったような感じで、入り口には西欧人の使節を描いた近世の壁画がありました。宝石店ではトルコ石や中に虫の入った大きな琥珀を見せてもらい、判子と筆で布に絵を描くお店も見物しました。十七世紀から細密画を営むお店で駱駝の骨を使った青い小物入れをお土産に買いました。
細密画はササン朝の時代から描かれ、店主さんはお客さんたちの前で何も見ず、見本の絵を筆一本で素速く描き上げました。馬を引いている昔の人が黒い紙に白い絵の具で描かれ、お土産に持ち帰らせてくださりました。小物入れには蓋を開け閉めすることで描かれた人物の性別が変わるというものもありました。
晩はご飯を詰めたピーマンやクーフテという大きな肉団子でした。ホテルに帰ってきますと、ベッドに薔薇の花びらで「LOVE」と書かれてありました。テレビでは子供向けである日本のアニメが放映されていました。
七日目
穴場のスポットであるアビヤネ村を訪問しました。ササン朝の末裔とも言われる方々がパフラヴィー語を話しているそうで、赤茶けた土壁が特色であるその村には聖者廟や地下道があり、かつてはキュロス大帝の将軍に因んだゾロアスター教の神殿があったらしいです。村民の人たちは年配の男性たちがササン朝風のズボンを穿き、お婆さんたちは薔薇を刺繍したスカーフを被っていました。
丁度お祭りの準備が行われており、麺料理をお裾分けしていただきました。最近は人々も観光客に馴れているそうです。村の人を撮影させてもらいましたら、料金を請求されることもあると聞きました。
ランチは結婚式にも利用される宴会場で食べました。イラン・イスラム共和国は法律で飲酒を禁止していますが、結婚式ではお巡りさんに賄賂を渡せば、仲間内である限りお酒を飲んでも見逃してくれるそうです。ガイドさんも密造酒を所持していたら、検問があったため、泣く泣く排水路に捨てたとのことでした。
続いてカーシャーン市のフィン庭園に向かいました。アッバース一世の造らせた建築が残るペルシア式庭園で、アケメネス朝の時代から存在したペルシア式の庭園は、スペインからインドまで影響を与えたらしく、カージャール朝の時にも増築されたフィン庭園には水路のある木陰で喫茶するチャイハネも設けられていました。
また、中東のハンマームである公衆浴場もありました。カージャール朝の開明的な宰相が抵抗勢力によってここで暗殺されたそうです。それを再現した人形が展示されてもいました。
カーシャーンでの観光が終わりますと、帰国するためにテヘラン市へ移動しました。その途中、塩湖で不毛な土地が広がるのをバスの窓から眺め、トイレ休憩に立ち寄った現代的なショッピングモールでチャドルのご婦人がたと出会しました。原子力発電所も見掛けたのですけれどもガイドさんが言うには核開発の施設は地下にあるそうです。
イランで取った最後のディナーは、イマーム・ホメイニ国際空港のファーストフード店で出たピザやポテト、フライドチキンなどアメリカ的なもので、プチ・トマトを乗っけるのがイラン風であるとのことでした。空港では薔薇水とピスタチオを手に入れました。それから、またドバイ国際空港を経由し、日本への帰路に就きました。
八日目
日本には無事に帰れました。観光中、テロに遭うこともなく、旅行で最も困ったことと言えば、ホテルで誤ってクーラーを切ってしまい、英語での説明に苦労したくらいで、イラン・イスラム共和国ではフランス語の方が親しまれていました。ガイドさんによれば敵対的なアメリカ合衆国の宣伝でイランは実際よりも危険な印象を抱かれているそうです。
また、旅先ではロウハニ大統領の支持者による集会に出会しましたが、広場がシンボル・カラーの紫で染まっているかのように見えました。ロウハニ大統領は外国と協調する路線なので、観光地での支持は厚く、数少ない娯楽も兼ねてお祭り騒ぎでした。興奮の余り路上で喧嘩している人たちも見られました。
さて、イラン・イスラム共和国の「ペルシア帝国」を訪ねたくて観光したわけなのですが、結果としてどうであったか。サファヴィー朝の宮殿はアケメネス朝のテラスを模し、カージャール朝がアルサケス朝から続くガラス細工の伝統に則り、ゾロアスター教の神殿であったイスラム教の礼拝堂をセルジューク朝やティムール朝が増築し、パフラヴィー朝が滅びてもササン朝の末裔とも言われる方々の村が今もあります。歴史は何度も上塗りされ、イランの「ペルシア」も決して単色ではなく、時代や地域を超えてこそ帝国は普遍であるのだと思いました。
イランに幾らかでも興味を抱いてもらえればと思い、アケメネス朝とササン朝を題材にしたフィクションを以下に挙げさせていただきました。
『学研まんが 世界の歴史 2』
亀「ペルシアン狂詩曲」
篠原悠希『マッサゲタイの戦女王』
スワン「ヴァシチ」
ヒクメット『フェルハドとシリン』
プレストン「キャンバイシーズ」
ヘダーヤト「タフテ・アズナブール」
マアルーフ『光の庭』
ヤーン「サーサーン朝の王者」
山田正紀『エイダ』
ロバーツ『バビロン・ゲーム』