現代のゼウスが毎日をニート生活に費やしてる件
____これはまずいことになった.
右手でマウス、左手で長く白い頭髪をガシガシ搔きながら、彼の心はそんな一言を呟いていた。
キンキンに冷えたエアコンの稼働音が、真夏の蝉の騒音を打ち消さんとばかりに唸り声を上げている。
アスファルトに熱が溜まり、ムッとした暑さが籠る都会のとあるアパートの一室。
雷神ゼウスは目の前のパソコン画面に映る『アテナより』と書かれたメールを前に、うんざりしたようにため息をついた。
******************************
『雷神ゼウス』、ローマ神話では『ユピテル』と呼ばれている。
地球上に住むものならば、その名を知らない者はいない超ド級有名神だ。
右手に持つ雷槍「クラウノス」は宇宙を破壊する力を持ち、さらにその雷槍の一撃を防ぐほどの鉄壁の盾「アイギス」の持ち主。
かつてギリシア半島からローマ帝国にいたるまで無数の人間からの信仰をモノにしていた絶対神__だったのも昔の話。
「あーくっそ暑い。誰じゃこんなバカみたいに暑い世界作ったの……あぁ、そういやワシじゃった」
正午、休日の買い物客で賑わう商店街。
真っ白なTシャツと青い短パン姿で、そんな独り言をブツブツ口にしては「ぐふふ」と気持ちの悪い笑みをしている初老の男性。
すれ違う人々はなるべく目を合わせないように顔を伏せ、母親達は「こらっ見ちゃいけませんっ」と自身の子供を叱りつける。
その危険人物、彼こそがこの2017年のオリンポスを束ねる神、ゼウスの現代の姿である。
「貴方に言いたいことがあります、私のところに今すぐ来てください」というメールがゼウスのパソコンに届いた数十分後、彼は炎天下の中をフラフラしながら汗だくになって歩いていた。
メールの主『アテナ』はゼウスの頭から生まれたとされる智慧と戦術の女神だ。
古くは都市の守護者でもあり、古代ギリシャではゼウスの次に信仰され、また親しまれていた神だった__のだが、現代では、なにかとさぼり気味なゼウスを呼び出しては叱り飛ばす面倒見のよい姉のような存在になっていた。
配下の神だと侮るなかれ、彼女は無視されると雨の中、風の中問わず彼の家へ押しかけ、そのまま延々と不平不満と文句を並べ立てるとても厄介な部下だ。
いかんせん賢すぎるため、こっちが何か言い返してもすぐに論破される。有能な部下を持つのも考えものなのだ。
と、だらだら思考を重ねているうちにアテナの家に着いたことに気が付く。
二階建ての平凡な一軒家の扉の表札に『あてな』と書かれている光景はなかなかにシュールな光景だ。
下界で暮らす神々の中でも、そんな珍妙なことをしているのは生真面目な彼女だけである。
正直、これをみるたびに残念な気持ちになるのは内緒だ。
苦笑いをしながらその文字を見ていると、突然ドアが開き、アテナが端正な顔を覗かせる。
長い栗色の髪の毛を後ろに束ねた、シンプルな白一色のワンピースの飾らない出で立ち。それははかえって、彼女の凛々しい美しさを際立たせていた。
「ふーむ、やはり何度見ても眼福、眼福、さすが自慢の娘よのう」
「……なんですか、人のドアの前でニヤニヤ笑って、万物から変態につかさどる方向にジョブチェンジしたんですか」
「ちょっおぬし
久々の父親にその口はないんじゃないか!?昔のおぬしはもっと礼儀正しくていい子だったんだぞ」
「そうですね、昔のお父様はもっと威厳がありましたものね、でも今はないんです」
「威厳があろうとなかろうと、父親は敬うのが下界の道徳なんじゃぞ?わかったらその蛆虫を見るような視線でワシを睨むのを止めてくれ、今度雷槍貸してやるから」
「……ハァ、もういいです。とりあえず上がってください、駄目親父」
「言った!今絶対女神にあるまじきこと言った!ワシ今だいぶ傷ついた!」
「言ってません。毎日イヤホンでアニソン聞いてて難聴になったんじゃないですか?もう一度だけ言います、上がってください」
アテナは有無を言わさない顔で、扉を開けて入ってこいと合図をしてくる。
言いたいことはあったものの、これ以上外にいると本気で干上がりそうなので諦めてお邪魔することにした。
******************************
玄関先でくたびれた靴を脱ぎ、汗だらけの体でリビングルームのソファにどっかと座り込む。
清潔感溢れる整理された広間の様子は、家主の性格がよく表れていた。
グラスになみなみと注がれた麦茶が二つ、円いお盆の上にのって運ばれてくる。
アテナはお盆をソファの前のテーブルに置くと、その上に置かれた麦茶をひったくるようにして飲み始めるゼウスを呆れ顔で見やった。
そして隣に腰かけ、彼が飲み終わるのを待ってから口を切り出した。
「……ここ数年、下界で再び不穏な動きが出てきています、これを見てください」
そう言うとアテナは手元に持っていた一冊のノートを突き出してきた。
手にとって開いてみると、最近の重大ニュースが書かれたあらゆる記事がびっしりと几帳面に貼りつけてあった。ご丁寧に解説付き、しかも手書きで。
「……これ全部おぬし一人でやったのか?」
「はい、長年の引きこもりで脳みそが腐ったお父様でも理解できるようにと」
「…………」
実の娘の余りの口の悪さに絶句して顔を見るが、彼女は涼しげな表情のままだ。
その様子を見て、後で一つ父親としてお説教をしてやらねばと心に決めながら、ゼウスはとりあえず彼女のノートに目を通す。
そこには記事の内容についての解説だけでなく、今後の予測までこまごまと書き込まれていた。
遠い昔の古代ギリシャが栄えていたころ、毎日のようにアテナから送られてきた書類仕事の山を思い出させる一品だ。
彼が過去のデスクワークについての思い出でげんなりしていると、アテナが真剣な面持ちで話し始めた。
「現在、世界は再び悪い方向へ向かっています。かつて平和を守る正義だった超大国は今や没落し、その代わりに数々の大国が勝手な行動をとるようになってきています」
「そうじゃろうか?冷戦の時に比べれば、だいぶマシになったと思うが」
「今回はわけが違います。あの時代は神々は世界戦争を避けるため、裏でしっかり己の役割を果たしてくれました。神々が未然に防いだキューバ危機などが良い例です」
「しかし、今はほとんどの神々がお父様と同じように、身勝手な振舞いをしています!お父様は私以外のオリンポス十二神が何をしているか知っていますか!?」
ふむ、確かにワシは、ここ数年の部下達の様子をなにも知らんな……連絡とろうったってメルアド分からんし。
「ヘルメスは出演者に化けて『ぶらり途中下車の旅』のロケに毎日を費やし!」
「えっあれ全部旅行神だったの」
「デメテルは南米で農地拡張のため狂ったようにアマゾンの木々を伐採し!」
「豊穣神が体育会系ってのはありなのか……?」
「デイオ二ュソスは日々葡萄酒製造に全力をささげ!」
「あれ?酒の神はまともじゃないか」
「ヘパイストスは同じく日々汗水たらしてモノづくりに打ち込み!」
「ふむ、鍛治神もちゃんと仕事してるぞ?」
「ヘラはデイオニュソスが造った葡萄酒を右手に、ヘパイストスが作ったゼウスフィギュアを左手にして毎日高笑いがとまりません!」
「二人ともワシの妻に下僕にされてたァー!」
「アポロンは太陽の神秘についてケンブリッジ大学で研究に没頭し!」
「太陽神が太陽のこと調べてるのってなんかシュールじゃな」
「アルテミスは弓を片手にカモシカ狩りに夢中です!」
「狩猟神に狙い撃ちとか……カモシカが気の毒じゃのお」
「アフロディテはいかがわしい内容の本を買い込みに夏コミに出かけ!」
「美の女神として絶対にアウトな好みを知ってしまった気がする」
「ポセイドンはネス湖でネッシー探しに精をだし!」
「海神は海にまつわるロマンが大好きだからね、仕方なかろう」
「アレスはシリアで現代戦争を存分に堪能中です!」
「あの軍神のことだから米軍にミサイル撃たれてもむしろ有頂天じゃろうな」
「そして!その神々の頂点、絶対神ゼウス!お父様は部下に模範を示すどころか、部屋に引きこもりニート生活の真っ最中!自堕落の最前線を走っている!」
そう言ってアテナは興奮したように顔を紅潮させたまま父親を指さし、糾弾する。
しかしそんなアテナの全力を尽くした叫びも、彼には馬耳東風だったらしく、「ふーん、それは困ったのぉ」と耳をほじりながら話を聞いている。
「……今まで我らオリンポスの神々は遠巻きなれど、人間達が滅びぬように見守ってきました。自分たちの必要最低限の役割を果たし、下界の暴走を常にギリギリのところで食い止めてきた」
「しかしもはやそれすらも出来ていない!今はまだ無事かもしれません、ですが二十年後は?三十年後は?下界では刻々と終末時計が時を刻んでいるのですよ!」
アテナはいまだに事の重大さに気づいていない様子のゼウスに顔を近づけて迫る。
「もし核戦争が起これば今度こそ下界は滅び、冥界から入りきれなかった死者が地上に逆流してきます!」
「はぁ?死者の国は無限に拡張できたはずじゃが?」
「お忘れですか?現在の地球の総人口は約70億人。お父様が人口調整の仕事をさぼっているうちに手がつけられないほど増え、拡張に流入が追いつかなくなってしまったんです。冥王ハデスは今も二十四時間仕事中、月月火水木金金!毎日のように私のところに苦情が届いてきています!」
「……なぜ元凶のわしにはなにも言ってこないんじゃ?」
「お父様に言ってもなんの意味もないことを知っているからでしょう……さて、と」
アテナは一旦口を閉じると姿勢を正して座り直し、そしてゼウスに問いを投げかける。
「お父様はこの現状を知って、どうなされるおつもりですか?今、私に聞かせてください」
「どうするつもりって言ってものぉ……」
真剣なオーラを漂わせるアテナを尻目に、ゼウスはひとしきり腕を組んでうんうん唸って考え込み__
「……別にそのまんまでいいんじゃなかろうか?」
「今晩は寝かせませんよ」
「待った待った!夜中まで説教地獄はもう勘弁してくれ、ワシも歳なんじゃから」
「神に歳もヘチマもオリーブもありますか!真面目に考えてくれと言ってるんです!」
「そんなこと言われても分からないものは無理じゃて。おぬしを生む時に智慧も全部渡しちゃったんだもん」
「……では質問方法を変えましょう。わが父ゼウス、あなたは今後どうすべきだと思いますか?」
「全世界の人類の幸福と栄光を願い神聖なる我が神殿で科学技術の進歩についての研究に明け暮れる」
「部屋に閉じこもってネットいじりに明け暮れる、ということですか?」
「いやそんなことはないのじゃがなまあ捉え方によってはそうなっちゃうかもしれないんじゃが」
「要するにそういうことなんですね……いいですか、私はあなたに働いてほしいんです」
「うむ」
「具体的には人口調節の仕事です。今からでも遅くはありません、少しずつでも生まれる人間を減らしていくのです」
「ほぉ」
「さすれば冥界の情勢もいずれ安定していき、他の神々もお父様の仕事ぶりを見て本来の役割を再び果たすようになるでしょう」
「ふむ」
「もういっそのこと、人間達にその姿を知らしめてはいかがですか?お父様ほどの知名度となれば、一回二回の降臨をするだけで世界中の信仰を勝ち取れるでしょう」
「へぇ」
「本物の神が現れたとなれば、北国の裸の犬も西国の金髪の鶏もお父様を無視しないわけにはいきません」
「はぁ」
「もうあの古い約束に縛られずともよいはずです。さぁお父様、その存在を全人類に見せつけ今こそ古代ギリシャの威光を取り戻すのです!……って聞いてます?お父様」
アテナのせっかくの熱弁にも覇気のない返事しかしないゼウスを訝しみ、彼女が様子をチェックする。
確かにこちらを向いているゼウス、しかし彼女の話を聞いたその表情は冴えなかった。
そして深い溜息とともに、彼は娘に向かって言葉を紡ぎ出した。
「……アテナ、おぬしは古いと言うがな、『約束』は『約束』なんじゃ」
「あの時代から時すでに二千年、それでもまだ守り続けると言うのですか!?」
「どうやらおぬしは智慧はあっても道理が欠けてしまっているようじゃのぉ」
グラスに残っていた麦茶をゼウスは一気に最後まで飲み干す。
そして彼は納得がいかない様子のアテナを諭すように「いいか?」と前置きして語り出した。
「遥か昔、まだオリンポスと古代ギリシャが世界に絶大な力を持っていたころ、ワシらは数々のことを人間達にしてきた」
「ええ、私達は彼らギリシア人とその祖国を天から見守り続けました」
「そうじゃ、ワシらはギリシャ帝国の繁栄を助け、人々に富の恵みをもたらした。だがそんなワシらも、常に良いことばかりをしてきたわけではなかった……」
「……英雄、ですか?」
「そうじゃ、我ら神々は忠誠を誓う健気な英雄達をいたずら半分にあちこちへ冒険させた。世界に居座る怪物達の退治を、本来自分たちの仕事であったにも関わらずあやつらに押し付けた」
「更に哀れな勇者を弄ぶに飽き足らず、我らは人類に対し日増しに傲慢になっていった。その結果がトロイ戦争じゃ」
「分裂したオリンポスの神々は『持ち駒』などと称して、あろうことか守るべき人間を自分たちの代わりに戦わせた。そしてそれはワシも同じじゃった……」
「……」
「やがてついに人間達は我らの統治を拒否した。トロイ戦争で数々の試練を突破した名だたる英雄達が、終戦後にボロボロになった姿でワシに泣きながら懇願した……『人間を自由にしてくれ』とな」
「その時ワシは知ったんじゃよ、我らオリンポスの神々の傲慢さ、醜悪さを。どれだけの悲劇を振りまいてきたのかを。そして約束をしたのじゃ、『未来永劫、我らは必要最低限にしか人間達に関わらず、英雄も生み出さない』とな」
ゼウスが話し終わり、話し手の居なくなった部屋には静寂がおりる。
アテナは話を聞いてもなお、不満げな顔ではあったが、父の穏やかな表情を見て諦め顔になった。
父がその顔をした時は自分が何を言ってもいうことを聞かない事実を知っていたからだ。
そしてそれは彼の神としての信念を貫き通す時の表情だということも__
「……分かりました。過労死気味のハデスには『ウコンの力』を送っておくことにしましょう」
「おぉ、さすがワシの娘、話が分かるのぉ。じゃあそろそろワシを家へ帰して__」
「で・す・がお父様はこのままでは帰しません」
「ほぉ、なんじゃやはり朝まで説教コースか?」
「いいえ、お父様には『就活』してもらいます」
「……今なんと言った?」
「ですから、就活です。正直これからもずっと引きこもりニートのお父様を見続けるのは、神としてよりもまず親子として耐えられません」
「そっそんなこと言われても、ほっほらワシもう爺さんだし、いまどきこんなお年寄り誰も雇ってくれないし」
「その気になればいくらでも銀髪美青年に変身できるでしょう!ファミレスの定員でも道路工事のバイトでもなんでもいいですから、とにかく働いてください!」
「嫌じゃ!嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃぁ!たとえ神であろうとなかろうと、絶対に働きたくないでござるぅぅぅ!」
「あっこら逃げるな駄目親父ぃぃぃ!」
靴を履かないまま裸足で家を飛び出していく最高神ゼウスと、それを追いかける智慧と戦術の女神、アテナ。
今日も世界は平和です。