第八話 Prayer for the game.
迫りくる夜の闇が頭上の黒雲をさらに黒く染めていく。
少年の足取りはどこか覚束なかった。
それでも、周囲のプレイヤーから不審がられないように何とか足に力を入れて、少年は城下町をあてもなく彷徨った。
少年の視界は、何度も身体を回転させた直後のように大きく揺れていた。
目の前が黒くなり、そして次の瞬間には赤くなる。
気分の悪さによる吐き気と共に、体調不良による強制的なログアウトが自分に迫っているのを感じていた。
(違う――同じじゃない!)
『違わない』
(違う……)
『違わないよ』
(違う! 違う、違う、違う――! オレはアンタなんかと同じなんかじゃない……! 同じなんかじゃ……!)
まるで地面に落ちている円石を、“無意識のうちに足でひっくり返してしまった”かのように。
再び、自分の頭の中で抑え込もうとしていたはずの思考が自然に溢れ出てくる。
(いや――――そうなのかな。ひょっとして、本当にそうなの? )
走る速度がだんだんと落ちていく。
そうして少年を襲うのは、大きな石の下に蠢く大量の蟲を見てしまったかのような嫌悪感。
(『その感性が常識的か、非常識的かの違いしかない。本質的には同じなんだよ。やっぱり根っこのところで、キミとボクの在り方は似たもの同士。歪なのさ』)
ついに少年と“少年”の声が完全に重なり、頭の中で反響する。
(同じ? 同じなのかな? ……オレと、アンタが同じ?)
(『再び“掘り返そう”。そもそも、どうしてキミはそんなに必死になっているんだ?』)
(それは……それは――そっくりだったからだ。オレが助けられなかったあの人と、あの娘があんまりにも似ていたから……)
(『あらためて聞くけれど、なぜ重ねようとした? そもそもなぜ“あの人”を助けたいと思った? ――なぜ、年寄りではなくたった一人の少女に未だに執着ているんだい? 答えはボクと同じさ』)
これ以上考えてはいけないと感じていても、思考が抑えられない。
(『やはり、それは、きっと“女の子”だからだ。性的な欲求に根ざして、立場の弱い少女を助けるのはきっと気分が良いんだろうな。そうとも、君は心の底に歪んだ願望を持っている。同じだ。キミのやっていることの根っこはね。醜く汚い欲望があるんだよ』)
少年は魂が抜けてしまったかのように目を見開いて、雨の中足を止めた。
(『いい加減、理解したらどうだい? ――キミは“本当の意味で誰かを助けたいとは思っちゃいない”んだよ』)
「……………………………………………………………………………………そうか」
少年の身体から力が抜けていく。
まるで、雨によって自分の体がふやけて溶けていくようだった。
酷い錯覚だった。溶けた自分の体が冷たい地面に向かってゆっくりと沈んでいく。
深く深く、身体が地面に溶けて沈んでいく。
溶けて沈む全身に、泥のような。冷たく不快な絶望が混ざって纏わりついていく――
「はい! ブォオオーン!」
「――――うわっ! あっづづぁあ!?」
突然背後から、頭部に温かい何かが強く押し付けられて"レット"の錯覚が打ち消された。
驚いたレットは姿勢を崩して尻持ちをついたが、地面から装備品に雨が染みこんでくる感覚はしてこない。
気がつけばレットは空からも地面からも雨水の届かない――閉店したNPCの店の軒先の段差の上に座り込んでいた。
「――こんなところで、何しているんだ?」
大声で話しかけられて、レットが顔を上げる。
意地の悪そうな表情をしていたからか、松明を持った男の目線のような黒いフェイスペイントが雨の中歪んでいた。
「〔クリアさん――ど、どうして、ここに?〕」
クリアはレットの囁きに対して、自らの耳元を人差し指で軽く叩いて見せる。
その動作に『雨の音を下げろ』という意味が込められていることを理解して、レットはメニューを開いてSEの音量を弄る。
激しく鳴り響いていた雨音が、段々と小さくなっていった。
「――“お前の方から来た”んだよ。馬車やマウントを管理する厩舎の中で、ケッコさんと作業していたら人の気配がしてな」
クリアは親指で自らの背後を指す。
その先には扉の開かれた木製の厩舎が設置されていて、中で世話しなく誰かが動いているような気配があった。
「こんな辺鄙な厩舎に、一体誰だと思って外を見たら、見知った顔が棒立ちしていたから驚いてちょっかい出したんだよ。――どうしたどうした。表情暗いぞ?」
「いや、その……………………あの――――――」
レットは顔を伏せて、はぐらかすように逆にクリアに聞き返す。
「なんで、“囁こう”としなかったんです?」
「……さあ、どうしてだろうな? 遠目でお前を見ていたら、“きちんと面と向き合って話をした方が良い気がしてな”。――ここなら、周りに余計な耳もないし」
その含みのある物言いに、レットは地面を見つめたまま黙り込んだ。
クリアは松明だけを軒下に入れ、全身に雨を浴びたまま何も言わない。
次第に、レットの目前の水溜まりに映るクリアの表情が穏やかな物に変わっていった。
そして――
「レット。まず、顔を上げろよ」
「――――――――嫌です」
「じゃあ、“こっちで勝手にやる”ぞ」
何を? と聞く前に、クリアが身を屈める。
僅かに顔を上げたレットの眼前には、見慣れたアイテムがあった。
(これって――――――)
レットは近づいてくるその“頭装備”を強く拒絶しなかった。
だから――
「スモークのかかったゴーグルは便利なんだ。まず、頭に付ける装備として滅法恰好が良い!」
――ゴーグルはすんなりと装備されて、レットの両目を覆い隠した。
「……そして、辛い時でも強く抑えれば、人前でも涙を隠せる。……色眼鏡をかけて世の中を見れば、苦しい思いをしないで済む。……後ろめたい過去があっても、他人と直接目を合わせないで済む」
スモークのかかったゴーグルの視界はレットが思っていたよりも鮮明だった。
立ち上がり、こちらを見てくるオレンジの左目と青の右目。
クリアと視線を合わせてそこでレットは気づいた。
(クリアさん、オレを見るときはいつもこのゴーグル掛けてる……。外している時は、必ず目を反らしているから――オレが、この人と眼を合わせて話すの……“初めて”だ)
「――どうだ。ちょっとは気分が楽になったか?」
そう言ってレットに笑いかけてくる間にも、容赦なく雨粒はクリアの頭上に降り注いでいる。
雨曝しにしてしまっているのが申し訳なくなってきて、ついにレットが重い口を開いた。
「オレ…………“命令”――しちゃったんです」
「珍しいな。お前が、命令? ――誰に対してだ?」
「オレが、あの娘に――デモンに笑ってって“命令”してしまったんです。そしたら、デモンはオレの言う通りに笑って……理解したんです」
「――一体、何にだ」
「オレは……本当はデモンを一人の人間として見てなんかいなかったんだってこと……。オレはデモンに“助けるべき女の子”っていう……都合の良い役割を勝手に見つけて押しつけて、ただ自己満足しているだけだった……あの娘自身を見ようとしていなかったんだって!」
「…………………………」
「こんなオレが、偉そうに啖呵切っていたんですよ! アイツに……あの日戦ったエルフの少年に『その娘はそこに居るんだ』なんて偉そうに叫んで……。馬鹿みたいだ……」
頭を抱え込むように再びレットは蹲った。
「しかしなレット。元々、お前がデモンをきちんと助けたいと思った理由は――」
「オレが一番最初に“あの人”を助けたいって思った理由だって、結局同じです! きっと、苦しんでいるあの人が“女の子”だったからだ! オレが、あの人を助けるために最初に一人で突っ込んでいった理由だって――抱えていた想いなんて――憧れや願いなんて、オレの好きな物語の――ただの物真似だ! 根っこは、全部薄っぺらい自己満足のまやかしなんだ!」
「レット……自分の好きな物を、そんな乱暴な言葉で否定しちゃいけない」
「否定しているのはオレの好きな物語じゃない……ここにいる“オレ自身”です! 物語の主人公がカッコいいからって、それをただ上辺だけ真似して、気分良くなろうとしていたオレ自身だ! こんなの結局、自分の欲望であの娘“だけ”に執着していたアイツと同じじゃないか!」
「………………………………」
再び沈黙が続いた。
雨と同時に、嗚咽の音だけがその場に響いた。
「――確かに、お前の話を聞く限り。お前と件の少年はよく似てはいるかもな。そっくりかもしれない」
クリアの言葉で、レットは声を押し殺すように唇を強く噛む。
「お前の戦いの動機も些か不純かもしれない。最初に立ち上がった理由も、少し間違っていたかも。だけど――――お前はボロボロになって逃げ出さずに最後まで戦い抜いたじゃないか」
「いや……でも……結局根っこの部分で――」
「お前の憧れは置いておいてさ。想いの強さ自体は、正真正銘真っすぐで嘘偽りはないと俺は思うぜ。お前の清々しいを通り越して、馬鹿馬鹿しいまでの真っすぐさを気に入った人間はな――存外いるんだぞ?」
「そんなの……初めて聞きましたよ」
「お前が気づいていないだけだよ! ――それにな。お前とアイツは似た物同士に見えるけど、目指している方向は全然違うし、これから行きつく結果も全然違うじゃないか。お前が頑張ったから今現在、デモンを救えているわけで――」
「――――違う!」
顔を上げたレットの、突然の叫びにクリアは驚いた表情を見せた。
「救えているってクリアさんはいつもいつも言うけれど。オレは、まだ誰も救えていない! だって――だってわからないじゃないですか! オレが前に助けようとした“あの娘”が本当に現実で救われたかどうかなんて……。デモンの心が、今救われているかなんて……誰にもわからないじゃないですか! オレにだって、クリアさんにだって……わからないじゃないですか……」
レットの問いかけに、クリアは言葉を紡ぎ出そうと唇をわずかに動かす。
しかし、その言葉は空中で凍りつき、彼はすぐに口を閉ざした。
レットから視線をそらし、どこか遠くを見つめる。
静寂の中、クリアは重い息を一つ吐き出した後、まるで先のやり取りを消し去るように新たな質問を静かに口にした。
「……それで、お前はどうなりたいんだ? その悩みを抱えて、これからどうしたい?」
「もっともっと強くなれば良い!」
レットは片膝を立てて、今にも立ち上がりそうな姿勢でクリアに主張する。
「次からちゃんと……誰の助けもなく。色んな人を、迷うことなく自然に助けられるくらいに、クリアさんに教えてもらいたいんです! 守るだけじゃない! 悪い奴を――敵を簡単に倒す方法を! いちいち悩んだりすることなく相手を殺す方法を、もっともっともっともっと覚えなきゃいけないッ!」
そう――必死だった。
レットは焦っていて、必死だった。
自分自身に迷っていても結局、答えが見つからなかった。
だからこそ悩むことすら必要ないほどに――ひたすらに我武者羅に強くなろうとしていた。
しかし――そんなレットの必死の訴えに、クリアは渋い顔をした。
「……落ち着けよレット。焦るな。お前はもう十分なくらい活躍してる。むしろ、無理しすぎているくらいだ。そろそろ休んで、現実に目を向ける頃合いだ」
「まだ、全然足りない……オレ自身が全然納得できない! オレがもっともっとこの世界で本当に強くなればいちいち悩んだり、足掻いたり、苦しんだりすることもなくなるはずなんです!」
今度はクリアが顔を伏せた。
まるで、レットにこれから伝えようとしている言葉を吟味しているようだった。
「レット。聞きづらいことなんだがな…………………………お前、もしかして――――
――――最近、学校休んでいるんじゃないか?」
そのクリアの言葉の後に聞こえてくるのはしばらくの間、雨が地面に落ちる音だけだった。
「……………………………………………………どうして、わかったんですか?」
「お前の話を聞いて確信した。最近、お前は今回の事件を通じて、自分自身を相当追い詰めていたから――もしかしてと思ってな。実際、ここ数日はずっと平日なのにログインの時間が急激に増えていただろう?」
レットは、観念したように軽く笑った。
「両親と、旅行に行くって名目で休んじゃいました。実際に出かけたのは両親だけで、オレだけが家に残ってます。やっぱり――怒りますか?」
「……いいや、怒らない。そのことについて、俺は何も言わない。“何も言えない”、“言える資格がない”っていう方が正しい。ただな――お前は学校に行くべきだと思う。勉強は苦手そうだが、だからといって拗ねたり、クラスメイトや教員と揉めているわけでもないだろ。逆に、レールを外れて自分から何かやれるほど破天荒ってわけでもない。でもな、“それで良い”んだよ」
「それは、そうですけど……」
「お前はいい意味で"普通"なんだよ。だから、自分を必要以上に追い込んで、みすみす自分の人生を台無しにする必要はないんだぞ? まあ、今回はもう過ぎた話かもしれないが……」
レットは何も言おうとしない。
クリアは片膝をついてレットの肩に、手をかけた。
「なあ、レット――事態は良くなってきているはずだ! 兆候は確かにあったけど……まさか、お前自身がそこまで追い詰められているなんて思いもしなかった! 一体、お前の身に何が起こっているんだ!?」
「戦いのあったあの日の夜から……夢に……見るようになったんです」
「――夢?」
体育座りの姿勢のまま、恐怖から身を守るように――レットは自分の体を抱き抱えて縮こまった。
「洞窟の中で“アイツ”が……オレにずっと話しかけて、襲ってくる夢を見るようになったんです。いつもそうだ。何もできないまま地面にひっくり返って、刺されたところで目が覚める……」
クリアは何も言わない。
今はただ、黙ってレットの話を聞いていた。
「――オレ、このゲームを始めた時。女の子ってずっと憧れの対象でした。ドキドキしてました。物語の中でもヒロインが可愛くて憧れてた。だけど――今じゃ動悸が止まらないんです。……アイツの顔が何度もチラついて――――女の子のことを想像したり、妄想すること自体が恐ろしくなってしまって――」
レットが体育座りの姿勢で縮こまる。
「――気分悪くて、胸が痛くて――オレ……起きてから何度か、洗面所で――ゲロ吐いちゃって……」
クリアの両目が、大きく見開かれる。
「オレやっぱり……強がっていただけで……あの日の夜を……乗り越えられたと思っていただけだったみたいなんです。どうすれば良いかわからない……」
レットは自分の両膝に顔を埋めて再びクリアから目を背ける。
「フォルゲンスの一件で、英雄になりたいって願望は間違っていたんだと思うようになったんです。そして、この前の戦いで――女の子だから助けようっていう考えも狂っているって否定されて、わかったんです。オレには……もう無理だ。“何のために戦うことが許されるのか――オレにはもう分からないッ!”」
ゴーグルから、降っている雨よりも激しく。滝のように涙が溢れ始めた。
「わからないんです……。わからなくて――怖いんです。あの戦いで……オレの胸に突き刺さったナイフが…………いつまでたっても抜けない………………」
レットは耐えきれず顔を伏せて、片手で強くゴーグルを抑える。
顔はくしゃくしゃになっていたが、そうすることで涙は流れないで済んだ。
「クリアさん。オレのことはもう、放っておいてください。もう、オレは……ヒーローになろうって意地を…………張れなくなっちゃいました……」
自分の手の平によって視界が真っ暗になったレットに、かけられる言葉はしばらくの間無かった。
その耳元に聞こえたのは、自分自身が嗚咽する音と、炎が弾ける音だけだった。
「そうか。お前は……ずっと――戦っていたんだな」
そう呟いて、クリアは納得するように頷く。
「俺は――――お前には……“ゲームを遊んでほしい”と願っていた」
その言葉の意味を理解できず、レットはクリアから目を反らした状態で首を傾げた。
「遊んでいるって……何言っているんですか!? 今、まさに遊んでいるじゃないですか……」
「……全然違う。遊ぶっていうのは、物事を楽しむってことだ。俺は、お前にゲームを“ゲームとして遊んでほしい”と思っている。だから色んなことをした。お前の願望や選択を遮るようなことはしなかったが、無茶なことをしようとしていたお前に身も蓋もないアドバイスを沢山した。何もかも、お前が“ゲームをゲームだと割り切った上で楽しんでほしい”と思っていたからだ。そして、お前が大人になった時に、楽しい思い出だったと後から振り返れるように――遊んでほしいと思っていたからなんだ」
「クリアさん……………………」
「だけどな……。だけど、お前の周囲を取り巻く環境が――お前が生きる現実が――それをいつまで経っても許しちゃくれないみたいなんだ。いつもいつも、お前を傷つけて、お前の望む冒険の邪魔をしてくるんだ。……一体、どうしてなんだろうな?」
「そうねえ~。……世の中に、“年を取っただけの大きな子ども”が増えたからかしらね~」
突然放たれた第三者の言葉に、クリアは膝をついたまま俯く。
雨足が強くなり、その頭に今まで以上に容赦なく雨粒が降り注いだ。
クリアの背後の厩舎の中に立っていたのはケッコで、悲しげな笑みを浮かべてレット達を見つめていた。
「これは、自嘲の笑みよ。――私、自重、130キロあるから♪」
「あ……えっとケッコ……さん。……その……オレ……」
「ごめんなさいね、少年。厩舎の中からずっと聞いちゃってた。SEの音量、下げてて良かったわ。私、雨が降る音聞くの嫌いなんだ~」
ケッコは厩舎の中から出ようとせず、雨粒の跳ねる地面を見据えて話を続ける。
「それでね。今回はもう過ぎた話だけど。少年――こんなところで燻ってないで、ちゃんと学校には行きなさい。あなたは現実の見てくれが醜いわけでもなければ、誰かに趣味や生き方を迫害されていたりするわけじゃないんでしょ? それで丸く収まるんだからあなたにとっては、それが一番なのよ」
「……………………………………」
「あなたがあの娘以外に“誰のこと”を話していたのか私にはわからない。だけど、あなたが怖くて暗くて醜い物に触れて、自分自身を見つめなおしたいとか、他を顧みずに済むって理由で一心不乱に強くなろうって考えに至る気持ちもわからなくはないわ。……確かに、ゲームの中で強くなれたら良いことづくめかも」
ケッコはレットに対して、おどけたように肩をすくめた。
「気に入らないやつをぶちのめせるようになるし。廃人の知り合いが何十人もできるかも――ちょっとだけ、気分は良くなるかもね」
「――オレ、そんなつもりで強くなりたいわけじゃないです」
「わかっているさレット。だけどな、ケッコさんの言う通り、強さで得られる物なんてこのゲームじゃ“その程度”だ。“強くなることそのもの”に、大した価値はないし、強さなんてものは、目的を達成するための手段に過ぎない。ゲームに入れ込みすぎると、お前の現実が取り返しのつかないことになりかねない」
「そうよ。どんどん現実投げ捨てていって、精神を持っていかれたら――それこそ“妖精さん”になっちゃうわよ。――――――――どっかの誰かさんみたいにね」
ケッコが再び悲しげな――おそらく自嘲の笑みを浮かべてそう呟く。
「――結局ね。今、必死になって足掻いても、あなたの生きている現実が直接良くなるわけじゃないんだから、無理しても良いことなんて何もないのよ」
クリアは草臥れた表情で、両目を抑えた。
「そうですね……全くもって――その通りだ。よくわかったろ、レット。とにかく今は無理をするな」
「二人が言いたいことは、オレにもわかりますよ。でも……悩んでいる今が怖くて……このままじゃオレ、そのうちアイツと……何もかも同じになってしまいそうで――それが怖くて……」
厩舎の中でケッコがやれやれと首を振った。
「自分を攻めすぎ考えすぎ! それ言ったら、私の戦いの動機なんてほとんど自己満足よ! 自己満!」
「でも、ケッコさんだって『大事に巻き込まれるかもしれない』ってリスクを負ってまで、戦ってくれたじゃないですか!」
「あんなのは口だけよ。実際は、大事になんて……なりっこないって思っていたんだもの。少年の強い想いに便乗しただけ。現に今この瞬間、私は現実とは決して向き合わず――チームの家にも行かないで――厩舎の中で馬と戯れてる」
レットの死角に馬が立っているのだろうか? 毛の生えた尻尾が、立っているケッコの顔に一瞬覆いかぶさる。
ケッコがくすぐったそうに軽く笑って、直後に表情が暗い物に変わる。
「私は、年寄と向き合うつもりなんて最初から無いし――女の子の方だってそうよ。要は、無責任な“デカイ餓鬼”なの。ただゲームの中でプレイヤーとして戦っただけで――本当の意味で自分の意志で……覚悟を持って……だれかを救おうとしていたわけじゃないわ。それをや・る・の・は――私なんかよりも立派な“ちゃんとした大人たち”の仕事だって割り切ってるんだから!」
ケッコの言葉の意味がいまいち理解できず、レットは首を傾げた。
「……それって、具体的には誰なんです?」
「まず、現実の大人たちでしょ? それと私的には、年寄りの隣にずーっと居るワサビさんやタナカさんかな~。あの二人が天使だとすると、やっぱり私は堕天使ってとこよね♪ えっと……それで、クリアさんは――」
クリアは、ケッコの話に対して首を横に振ってからレットに向き直る。
「――“俺だってケッコさんと同じ”だぞレット。あっちこっち行ったり来たりしているだけで、直接は人質の誰とも向き合おうとしているわけじゃない。俺のやっていることなんて、ゲームの延長さ。大層な理由なんてない」
そのクリアの自己否定の言葉にどう答えて良いのか、レットは逡巡し顔を反らした。
「それに、もしもお前があの“少年”と同じで残酷な人間なら、真正面から事態と向き合って、ここまで深く悩んだりゲロ吐いたりはしないだろ。――とっくのとうに……逃げ出してる。お前は邪悪な大人に翻弄されて、自分を過度に責めすぎているだけだ」
「――だそうよ。心配しないで少年。ちゃんとした大人たちはね。私たちなんかより遥かに暖かくて優しいの。皆で力を合わせて、きっとあの娘を助け出してくれるわよ。少年が、そこまで自分を追い詰める必要なんかないのよ」
「その言葉――オレ、信じて良いんですかね? ………………安心しちゃって――良いんですかね?」
「私が保障するわよ。……………………世の中そんなに……冷たくないない♪ 作業も終わったし、ひとまずチームの家に戻りましょ?」
そう言ってケッコは軽く飛び跳ねる。
レット達のいる場所に向かおうとしたが、厩舎から出ようとしたが天を見て足を止めた。
「やっぱり――雨が止むまで。私、中で待つわ」
「しかしなあ……ケッコさん。もう荷馬車の調整と整備は終わりましたが……」
「クリアさんは先に帰ってて。あとは――そうね。もしも少年が眠れないなら、私が厩舎の中で添い寝してあげるわ♪ 現実でもゲームでも、抱き枕としては優秀だと思うけど?」
「……冗談――きついですよォ……」
「その落ち込み方は、こっちが落ち込むわね……」
そう呟いてから軽く自嘲気味に笑って、ケッコは厩舎の中に消えていった。
「冷たくない……。世の中……冷たく――ない?」
ケッコの言葉が果たして正しいのか。考え込み、小声で呟くレットの顔に――
「……孤独っていうのは常々、自分をむしばむ毒なんだな」
――クリアが再び松明を近づけレットは小声で囁いた。
「俺は正義のヒーローじゃない。真っ直ぐな人間じゃあない。だから結局、お前を本当に救えるのはお前自身の言葉だ。思い返せ。あの戦いが終わった夜に『皆がいてくれた。だからできたことだ』と、お前は俺に言ったじゃないか。――お前は一人じゃない。だから、なんでもかんでも一人で背負おうとするな。今度から悩んだら、もっと周囲に早めに相談しろ」
逡巡し、視線が泳ぐ。
自分の心の中で答えは出ないまま、レットはクリアに対して頷いた。
「――――――わかりました」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
改めてベージュのフードを被り、クリアに追従してレットは城下町をゆっくりと歩く。
来た時と違って、街路のランタンに灯された魔法の光が歩く二人を囲んでいる。
レットの足取りはしっかりしたものだったが、やや重いものだった。
「物は、考え方さ――」
レットの心情を察したのかクリアが再び口を開く。
「“女の子だのなんだの”っても、あんまり深く悩むなよ。もしも折り合いがつかないなら、今から変えればいいんじゃないか?」
「今から――変える……?」
「そう! お前の抱えている憧れは、今度こそ確かに粉々に砕かれたかもしれない。それなら、自分の新しい憧れというか――目的とか――理想を見つけてみるのも良いんじゃないか?」
「よくわからないけど――それって例えば何ですか?」
「……残念だけど。俺にはその道を示す力は無い。立派な講釈を垂れるほど、真っ当な人間じゃないからな」
(オレの理想……新しい理想……か)
「クリアさんには、あるんですよね。……戦い続ける目的が」
「――どうしてそう思う?」
「だってそうでしょ。確かにクリアさんは真正面からあの人たちに向き合っていないかもだけど、色々裏でやってくれてるじゃないですか」
「そうだな。真正面に立てない俺にも、ちゃんと目的はある。助けたい人間がいる。だけどそれは、あの少女でもなければ年寄りの誰でもない」
クリアは前を向いたまま歩みを止めた。
「“そいつ”は、弱くて、情けなくて、いつもバカをやるけど――まっすぐで、辛くても前向いて決して諦めない。“そいつ”は、俺よりも遙かに若いのに、誰よりも必死になって、逃げ出さずに、今まさに悩んで目の前の苦難に対してもがき続けている。俺は、他の誰よりも“そいつ”を助けたいと思っている。――――だから、俺はここにいる」
「あの――その――――――」
レットは言葉に詰まって、ゴーグルを強く抑えた。
「おっと、そうだ。レット。そのゴーグル返してくれ。やっぱりその装備は、お前には似合わない」
「……今は無理です」
「おや――どうしてだ?」
「今は嫌なんですって! 意地悪なんだから……もう!」
レットの言葉にクリアは、決して後ろを振り向かずに大きな笑い声をあげる。
再び二人は歩き始めた。
「何にせよ。お前の今回の役割は今のままで良いんだよ。お年寄りたちに関してはチームのメンバーが適材適所でやれているんだからな。"今回は"、あの娘の傍にいるのがお前の役目だ。もちろん、体調の問題がある。お前が辛くて辞めたいなら無理にとは――」
「それは辞めませんよ。――辞めるわけないじゃないですか」
レットの返答の早さに、クリアが納得するように頷いた。
「――だろうな。お前にかかっている負担を考えると辞めさせたいが、お前はいつもそうだ。途中で逃げたりしない。お前の決意自体は最初からブレてない。タナカさんから聞かされていた通りだな」
「タナカさんが、クリアさんに一体何を言ったんです?」
「『様子は変だったが“必ず戻る”と言っていた』ってさ。……タナカさんとはお前がここに来る前にちょっと――話し合わないといけないことが――あってな。――とにかく、どんなに悩んでいても最初からお前の中で、答えは決まっているんだよ。今はちょっと躓いているだけだ。きっと立ち直れる。――そうだ!」
クリアがレットの背後に周りこみ足を止め、その両肩に勢いよく両手を乗せる。
レットの頬に、クリアが持つ松明の火の温かさが伝わってきた。
「レット――お前の良いところをまた一つ見つけたぞ?」
「……参考までに聞いておきます。――期待はしてませんけど」
「それはズバリ――――心の芯の強さだな!」
クリアのおどけたような声色と、いつも通りの腑に落ちない長所に、レットはため息をついて項垂れた。
「その強さって、この世界で使い道があるのかな……」
「……今一番必要なことだ。他の人質達と同じように、俺にはデモンの周囲を取り巻く現実がどんな状態になっているのかはわからない。お前を父親だと思っているってことは、家族は居るんだろうが――おそらくロクでもないんだろう」
「ロクでもないって……例えばお年寄達と同じように……ぞんざいな扱いを受けているってことですよね」
「確証はないが、そうかもしれない。今はまだ実感がないが、あの娘が記憶を取り戻した時――自分の境遇を思い出したら、きっと傷つくだろうな。その時に備えて、この世界の中だけでもお前は決してめげずに隣にいてあげてくれ。あの娘はきっとお前に感謝するさ。――親に見捨てられた子どもっていうのは、寂しいものだからな」
「……………………………………」
「レット……あんまり落ち込むなよ。今は“お前に何も言えない”。だけどな、そのうち知ることになる。お前がやってきたことは無駄じゃなかったんだって――お前の行動は間違いなく誰かを救っている」
「えぇ!? それってどういう――」
「――さぁて! 俺はまだやらないといけないことがあるからな。今日はここでお別れだな。今度こそ、ゴーグル返せよ!」
レットが潜在的に同意を示していたからか、背後にいるクリアの手によってゴーグルが外される。
離れていく足音が聞こえて、レットは目を擦って振り返った。
「あ、あの――――――――クリアさん」
クリアは振り返らぬまま足を止めた。
「前に、約束してくれましたよね。『オレがピンチの時に、オレがヒーローになることから逃げ出さなかったら――クリアさんは困っているオレを必ず助ける』って。でも――さっきも言ったけど、オレはもう戦う理由もわからなくなっちゃったから……クリアさんが――その約束を守る義理はもうないと思うんです」
クリアは黙って、ゴーグルを雨に晒す。
レットの涙を洗い流してから、自分の両眼に装着した。
「――なのに、どうしてあなたは未だに、オレを助けようとしてくれているんですか?」
クリアはレットに振り返って、腕を軽く上げて何かを言おうとしたが――結局、軽く笑っただけだった。
そして、暖かい松明の火を消して――幻想の灯の中をゆっくりと歩き去っていった。
(オレの新しい理想……オレの目指す姿……オレのなりたい姿――)
クリアの背中を見つめながら、レット――少年は考えていた。
その姿が見えなくなってもしばらくその場に立って考えて――その後も歩きながら、ずっとずっと考えていた。
(オレの憧れは今――“二人いる”。もちろん全部が全部尊敬できるわけじゃないけれど……一人はやっぱり“あの人”だ……。そして、もう一人は――)
少年の中に新しい決意が固まっていく。
気がつけば、自分の思考を遮るような邪なノイズは聞こえてこない。
少年が頭の中で思い返すは、先ほどの厩舎でのやり取りだった。
『私はただゲームの中で戦っただけで本当の意味で救えたわけじゃないわ。それをや・る・の・は、私なんかよりも立派な“ちゃんとした大人たち”の仕事だって割り切ってるんだから!』
気がつけば、少年は住宅街まで戻っていた。
チームの家の入口に誰かが立っていることに気づいて、少年はその人物を落ち着いた表情で見据える。
小さなケパトゥルス族の中年男性は、細かな言及を決してしなかった。
ただ、穏やかな表情でレットを迎え入れた。
「レットさん。おかえりなさい」
「うん――――ただいま」
【魔法幻燈】
町や国の照明の役割を果たす、魔法の光。
松明と違って、触れても温かさは一切感じられず、それ故に幻想的。
この冷たく明るい光は現実には存在しえない。
故に、この世界が『現実から隔絶された仮想空間である』という認識をプレイヤーに与えることがある。
「灯りなら松明が一番好きかな。だっていつも、優しく燃えているから。心が、温かくなるから」




