第十話 ――――潜む鬼
誰もそのプレイヤーの名前を公で呼ぶようなことはしない。
これは、遙か昔の、アスフォーのリニューアル前の……さらに前――全く別の、フルダイブ以前の“VRゲーム黎明期”の中で起きた話だ。
発端は、本当に小さな衝突だった。
ある時、ある一人の男性プレイヤー(後に現実でも男性であるということが判明してしまった)と、“とある人物が操作するキャラクターの肩”が軽くぶつかった。
ぶつかると言っても触れた程度だ。
本来なら、片方が軽く謝れば丸く収まる話だった。
しかし、その時ぶつかった男性プレイヤーの虫の居所はすこぶる悪かったようで、ぶつかった人物に対して苛立ちの感情をぶつけてしまった。
ぶつかった人物というのが、先程お前が出会った人物だ。
あれを、果たして人といってよいのか怪しいが、以降“例のアイツ”と呼ばせてもらう。
話を戻そう。
肩をぶつけられた“例のアイツ”は今までの人生の中でため込んでいた悍ましい感情を、いきなり全て男に全て叩きつけた。
“例のアイツ”が顕わにさせた男に対する溜め込まれた理由の無い憎悪の感情は、完全に常軌を逸していた異常な物だったが――ぶつかった男性側に、そんなことが分かるはずも無い。
いきなり、外部の掲示板で『晒し行為』をしながら暴れ始めた“例のアイツ”に対して、『頭のおかしい野郎だ!』と憎悪を憎悪で返し始めるようになった。
そして、面白い玩具を見つけて暴れる“例のアイツ”を煽り散らそうと同じサーバーの人間が続々と掲示板の晒しスレッドに集まって監視を始めた。
実際“例のアイツ”の妄言とも言える狂った発言の数々は、無様で常に醜態を晒していた。
全員で“アイツ”の粗を探して、失態を探して、掲示板で嘲笑し続ける。
ゲーム内でも徹底的なPKを行い続けた。所謂いわゆる、粘着行為というやつだ。
ここまで話題となって祭り上げられしまえば、普通のプレイヤーなら無様を晒したということで、とっくにゲームから引退しているだろう。
だけど、“例のアイツ”は本当の本当に例外だった。
さらにさらに憎悪を膨らませて、周囲の全てに憎悪をまき散らし続けて自分から次々と敵を増やしていった。
恐るべき意志の強さとエネルギーで、周囲を憎んで恨んでゲーム外――匿名の世界で延々と罵倒し人の心にナイフを突き立て続けた。
閉鎖されたコミュニティで煽り煽られ、煽り返す。この流れがしばらくの間ずっとずっとずっと続いた。
長い時間が経った。
“例のアイツ”を取り囲み罵倒する連中は、終わらない罵倒や揚げ足取りを続ける内に、段々と精神に異常を来すようになった。
深淵を見つめて楽しんでいた“取り巻き”達は深淵に飲み込まれ、次第に過激な行いをするようになった。
そのゲームのサーバーの風評と治安全体が悪化していった。
悪目立ちをし続けた結果、次々と他のサーバーから爪弾きにされた本物の異常者達がそのサーバーにどんどんどんどん引き寄せられてくる。
そして、ゲーム内外でぶつかりあう。
その様はまるで蟲毒の壷のようで、そのサーバーは次第に“魔窟”と呼ばれて誰もが敬遠するようになった。
ちなみに、最初に運悪く因縁を吹っかけてしまった男は周辺人物ごと騒ぎに翻弄された。
疑心暗鬼に陥って、知人と互いに憎しみあった結果、人間関係を滅茶苦茶にされてゲームを引退することとなった。
とはいえ、ゲーム内で完結できたプレイヤーはまだ幸せな方だ。
男の取り巻きの中には“個人情報が公開されてしまったプレイヤーがいた”。
精神に異常をきたして人間不信に陥って、自らの命を本当に断ってしまったり、信じられないかもしれないが、友人同士での殺し合いに発展して刑事事件になった案件がいくつも起きた。
しかし、“例のアイツ”は環境を作り出した大元の元凶ではあるが――どの事件にも直接的には関与していない。
この存在のタチが悪かったところとして、ゲーム内で直接的に永久停止処分をされるような行為までは決してしなかったという点が上げられる。
だから、いつまで経ってもサーバーの元凶は何の罪にも問われることなくゲームにずっと残り続ける。
“例のアイツ”単体ならば、身を隠しやすいこのゲームでは何とか逃げおおせるかもしれないな。
しかし、集まってきている“取り巻き”の監視の目が多すぎる。
今やイカレた彼らは玩具を求めている――“例のアイツ”にぶつけて楽しむ為の玩具を。
実際は自分達が既に他の誰よりも狂っていて、罪深い悪事を行っているということに気づいていないのだ。
“例のアイツ”と、その周囲の人間たちの存在は最早、ただ存在するだけで多くの人々を死に至らしめる一つの現象と化しつつある。
そのゲームがサービスを終了しても憎悪は無限に膨らみ続けた。
最悪なことに、“例のアイツ”の次の移住先が『アスフォーの無印』だったんだ。
――“例のアイツ”が自らゲームを始めて、自らプレイヤー名を明かした結果、“取り巻き”がそのまま大量についてくることとなった。
この現象の話は既に有名になっていたから、このゲームを遊んでいた当時のプレイヤー達にとって衝撃的なニュースだった。
アスフォーの外部掲示板でその存在が確認されたとき、サーバー移転を決断したプレイヤーが大量に出たほどだ。
そしてアスフォーの中で“例のアイツ”に変化が起きた。
変化というべきか、進化というべきか、変異したというべきか……。
アイツはついにゲームを遊ぶことすら辞めて、キャラクターの完全に育成を止めてしまったんだ。
“アレ”のそれまでの人生に何があったのかはわからない。
年齢すらも性別すらも、職業すらも、経歴すらも、――おそらく存在するであろう病歴すらも。
無印の頃は、その悪意と憎悪には何か理由があるのだろうと親身に語りかけてしまったプレイヤーもいたようだが全く無意味だった。
“例のアイツ”と直接的に関わって“取り巻き”の玩具にされてしまった。
接触したプレイヤーの全員のほとんどが何らかの形で漏れなく破滅してしまっている。
そこまで来て善良な人々はようやく学んだ。
“絶対に近づいてはならない者がいる”。
目を合わせてはいけない。触れてはいけない。関わってはならない。公の場で名前も言ってはいけない。
事情を知っているプレイヤーに対して“その話題”を出したら、慌てて今日の天気の話をしてくるに違いない。
このゲームにおいて、誰も触れたくない禁忌となっている。
神殿跡地にいた“あのキャラクター”をゲーム上で倒すのは簡単だ。
おそらく無抵抗でパッシブの設定も“意図的にオフにしてある”だろう。殴ればどんなプレイヤーでも簡単に倒せる。
不審な動きを咎めたり、不遜な態度だと指摘して文句を言ったりすること自体も自由だ。
だが、その憎悪を買って、一度目をつけられたらそこから無差別に執拗な追跡が始まる。そうなったらもう助からない。
ゲーム内では人間の生活範囲の限界を超えて追従してくるし、逃げたとしても外部サイトやSNSで狂ったように暴れて新しい仮想敵を作り続けて可能な限り精神と現実生活を壊そうとしてくる。
完全に手に負えない上に、サーバーを移動しても常軌を逸した執念で未来永劫追走してくる。
そうなったらもう逃れられない――キャラクターを何回殺害しようが、関係ないし意味が無いし、“取り巻き”達の監視対象にもなってしまう。
噂になったらもう二度と沈静化はしない。最低でもゲームを引退することになる。
住所が割れたら、現実でも、精神を病むか、精神が壊れた取り巻き達の手によって犯罪に巻き込まれるのどっちかだ。
最悪現実世界での命の保障もない。
警察のお世話になる頃には、既に何らかの事件に巻き込まれた後だろう。
世の中には、絶対に治らない狂気を抱えた“人間達”がいる。関わらないことだ。
俺が説明を終えると、レットは酷く青ざめていた。
コイツの性格を勘定に入れずに、説明不足のままログアウトをしたことを謝った。
“例のアイツ”と、“取り巻き達”がリニューアル後に行方不明になってから、俺はそいつらを危険視してマークしていたのだということも伝えた。
このサーバーの【光の神殿跡】で発見されてしまったという情報が外部掲示板に入ってきたのがつい“先程”だったということも。
尾行に警戒しながら周辺を調べて、神殿の中を恐る恐る覗いたらレット達を見つけて――心臓が飛び出そうになったということも。
そして、できればゲームを純粋に楽しむべき初心者達にこんな話をしたくなかったと言うことも正直に伝えた。
最後に、隔離されている掲示板の当該スレッドを絶対に覗かないようにと強く強く警告した。
レットのような純粋無垢な子どもが見てしまえば、おそらく人間という生き物に対する価値観が変わってしまうからだ。……それほどにあの場所は酷く――惨い場所だ。
何故あの場に二人がいたのかと俺が質問をすると、タナカさんが詳しい事情を話してくれた。
「――――――――――ああ。そういうことだったのか! その娘のお兄さんは、神殿跡の前で見かけたぞ。特徴も容姿もぴったりだし間違いないな。ハイダニアに戻っていったみたいだから、多分無事に合流できたんじゃないか?」
俺のその言葉を聞いて、レットは少しだけ安心したようだった。
さめざめと泣いていたという妖精族の少女は間違いなく“例のアイツ”の取り巻きの一人だ。
あえて大声で泣き叫ばずに、見捨てられない人情のある無知な初心者プレイヤーを狙い撃ちして、神殿に誘導して陥れようとしたのだ。
連中は――そういう残酷なことを平気でやれてしまう。
レット達は気づいていなかったようだが、広大な神殿の中には“例のアイツ”以外の“取り巻き達”の多数の気配があった。
疑うことを知らないレットは再び、騙されてしまったということだ。
現在、外部掲示板の隔離された当該スレッドでは“例のアイツ”に『死別した妹がいたのではないか』という根拠のない噂が流れている。
だから、取り巻きどもはその真偽が知りたかったんだろう。
レットに『妹が待っている』という言葉を、本来の意味と婉曲させた表現で“あのキャラクター”に伝えさせることが目的だったのだ。
それが事実ならば、もし最後まで話を終えていたら“アイツ”の標的はレットになっていた可能性が高い。
そして取り巻きは、それをネタにしてさらに“アイツ”を匿名で煽り、弄り倒すつもりだったに違いない。
“純真無垢な少女のフリをした何か”――この話をレットに伝えたら、間違いなく人間不信に陥る。
だから、この推理は残りの帰路で、大人であるタナカさんに対して囁くだけに留まった。
タナカさんは黙って何かをずっと考え込んでいた。
ひょっとすると、“今回の件に関わるような人間が、現実でどのような存在なのか”想像を働かせていたのかもしれない。
ハイダニアに戻ってから、レットは心配そうに少女を探し始めた。
城下町の入り口の石造りのベンチの近くに、例の少女は居たのだと言う。
レットは少女が見つからないことを不安に思っていたようだが、『俺が責任を持って探しておく』と伝えてタナカさんとレットにチーム所有の家の住所を教えてから自然な流れで別れる。
チームのリーダーには、この場所ではなく。家で待機してもらうように連絡を入れることにした。
もちろん、その“少女”と接触するつもりなど毛頭無い。
タナカさんと裏で話し合ってから少女の細かい容姿を教えてもらって、後で『無事に合流できていた』という作り話をレットにすることに決めたのだ。流石に今回は嘘も方便だ。きっと安心するだろう。
しばらくすれば“アイツ”の情報がサーバー内に出回る。連中が大っぴらに初心者を毒牙にかけるようなこともしなくなるに違いない。周囲に怪しまれゲーム内で自らのキャラクター名を特定される可能性が出てくるからだ。
今回は本当に、レットの運が悪すぎた。
改めて周囲を警戒する。
今後の安全なゲームプレイの為に、自分達を監視している人間が居ないか何度も安全を確認する必要があった。
「……………………………………………………………………………………」
自分達を見つめているような気配は感じられない。
――どうやら、心配は要らないようだ。
玩具になりそこねたレットに対して、もう興味を無くしたのだろう。
無くならないものがあるとすれば“それ”の底なしの憎悪だ。
それは未だに、他人を巻き込んで膨れ続けている。
どういう経緯であんな存在が光の神殿跡に居ついたのかはわからない。
実はおかしくなる前は『信心深く、何かの宗教の敬虔な教徒だった』という噂がある。
長い年月を経てさらにおかしくなって、一周回ってまともだった頃の人間性が表質したのだろうか?
ならばあえて祈ろう。
未来永劫、誰も来ないそのダンジョンに“例のアイツ”が居続けてくれることを俺は祈る。
恐らく、アイツは次の憎しみの対象を――そこで蜘蛛の巣を張るようにずっとずっと待ち続けるに違いない。
――とあるゲームの最初の小さな衝突から…………もう、20余年が経っている。




