第四十二話 世界の見え方
四人兄弟の末っ子として生を受けてから、私、田中誠の人生はこれまで苦難と不運の連続でした。
しかし、最初は“運”を自分の人生の言い訳にしたくは無かったのです。
覆らない不運など、不幸などはありはしないと心の底から信じていました。
どんな不運でも不幸でも、苦難でも貧困の中でも、努力をしつつ可能な限り知恵を働かせて人の為に尽くせば、どんな苦境でも誰かが自分を認めてくれると信じて、ずっとずっとずっと――地道に生きていきました。
しかし、どう客観的に見ても、氷のように――氷河の中のように……冷たい冷たい時代の中で、私の人生が不運と絶望に塗れ続けていたというのは、事実と言わざるを得ないかもしれません。
私が生まれた時に亡くなったという厳格な父。
その父から厳しいしつけを受けて育った、他の兄弟達に冷遇をされていたのを皮切りに――私という人間は、何度も何度も、理不尽と言わざるを得ない世の中の暴力と知る限りのありとあらゆる挫折を味わってきました。
しかし――そんな人生でも……何度も職を失っても、『地道さと、他者に対する誠実さ』だけが自分の取り柄だとずっと信じて私は一人で生きていました。
そうして、ようやく一人の人間として歩き始めた直後に、女手一人で私を育ててくれた母が――あの“お年寄り達”と同じように――自身の記憶を欠落するようになってしまったのです。
私は、実に愚かでした。
自分の人生に必死で、自分のことを大切に育ててくれた実の母親のことを気に掛けてあげることができていなかった。
症状が進んでいて、徘徊をするようになって、私が気が付いた時にはもう警察の厄介になるようになっていたのです。
その時、兄弟たちは私と同じように自分の人生を優先していました。
出世をして、会社の重役になった兄弟も居たほどです。
だから、最低限の援助は受けられたとはいえ……それでも母は独りぼっちで貧しさに苦しんでいました。
見捨てることなど出来るわけがない。
私は責任を感じて、母の介護をするために仕事を辞めることに決めたのです。
よりにもよって、私の身体に治りようのない病があったということが明らかになったのは――母の面倒を見ながら、介護の勉強をしていた直後のことでした。
結局私は、“母の隣にいる”という自らの定めた役割をほとんど果たせず終いでした。
自分の身体が動けなくなって病院に入院していた私は、すぐさま母の実家に移されて……そのまま看護されるようになりました。
同時に、母は兄弟たちによってそのまま施設に移されてしまったのです。
私の病は、身体が徐々に動かなくなるものでした。最終的には、呼吸が止まり死に至ります。
そして私の場合、運悪く“喉”から症状が出てしまいました。だから、口の筋肉から真っ先に動かなくなっていき現実世界で全く喋れなくなってしまったのです。
それは、とても恐ろしいことでした。
コミュニケーションというものは対等にやり取りすることができないと、多くの人はうんざりとするものです。
段々と、私に接してくれる人の数は減っていきました。
次第に、誰とも会話ができない日々が続きました。
看護をしてくれていた方も、次第に自分に対して何も言わなくなりました。
見舞いに来た兄弟達からは『お前にはまともに母親の面倒も見れないのか』『無駄な手間をかけさせるな』という、侮蔑の視線だけがありました。
そんな失意の中、そのまま母は亡くなりました。
私はその死に目にすら、立ち会うこともできなかった。
私の代わりに、母の世話をしてくれた方々に感謝の言葉を綴ることもできず。
その悲しみに対して、最早うめき声すら零すことができなくなってしまった。
そうして、介護を担当していた人間からついにゲームを勧められるようになったのです。
それは治療の為ではありません。
つきっきりで私を介護していた方の“精神的な疲労から来た提案”でした。
『お前の面倒は見きれない』『相手をしたくもない』『顔も合わせたくない』。
そういった負の感情が、装着されたゴーグルからひしひしと私の身体に伝わってきました。
ずっとずっと耐え忍んできた私も流石に堪えました。
今度ばかりは、自分自身の不運を呪いました。
その時は最早、この世界に何の希望も、私の存在する意味も無いように思えたものです。
だから、自身の面倒を見てくれている方へ感謝の言葉を述べてから私はこの世界に自ら身を投じることに決めたのです。
打ちひしがれていた私は、その時最も醜い外見の種族を選びました。
その時は、それが今の自分にぴったりだと思いました。
恐らく、自棄を起こしていたのでしょうね。
ゲームを始めた後は、『何もできなかった自分の人生とは一体何だったのだろう』とずっと悔いて、ただただ死人のように歩き回って。
他者に倒されるままに倒されて、周囲の人間から罵倒されるがままに罵倒されて一人でフラフラと放浪を続けていました。
最早気力など沸き上がりません。
『ここが自分の人生の定位置であり、終着点なのだ』と信じて疑わなかったのです。
そんな時に、『あの人』に私は出会ったのです。
周囲に石を投げつけられていた挙句に、モンスターまでけしかけられていた私に、手を差し伸べてくれた人が居たのです。
――といっても、私と一緒に倒されてしまったのですが。
それでも、その人は一緒に笑ってくれました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『うわ~っはっはっはっは! まんまと二人ともぶっ倒されてしまったのう!』
その方の名前はとても奇妙で、とても良く笑い、とっても奇妙な――どこかワザとらしい話し方をされる方でした。
何故、私のような人間を助けたのか質問をすると――
『そうじゃなあ……お前さんが……ワシがこの世界で出会った友達と、同じ目をしていたからかな?』
――そう、仰るんです。
『お前さんの“何もかも、どうでも良いとやけっぱちになってる真っ暗な目”を見てな。自分は弱っちいけど、弱っちいなりに――放っておけんかったんじゃ!』
そうして、私の顔を見て楽しそうに笑うのです。
『こう言うと、ワシの友達も“今のお前さんみたい”に困ったような顔をしていたもんだ――いやはや、懐かしいもんじゃな!』
そうして再び大きな声で笑うのです。
目の前の彼に、自棄になっていた私は“自分を助ける価値などない”と言う伝えると――
『知るかいそんなもん! 目の前でお前さんが困ってて、ワシがただ助けたいと思ったから自分の意志で助けたのっ!』
――と、一蹴されて堂々と、まるで子どものように駄々をこねて居直られてしまうのです。
私は半ば強引に、その方に誘われて、僅かな時間ながらも二人で一緒にこの世界を冒険しました。
短いながらも、とっても楽しい二人旅でした。
その方に詳しくお話を聞かせていただくとどうやら、とても珍しいご高齢のプレイヤーさんだということでした。
彼について知り得たのはせいぜいその程度で、旅の途中に話していたのは専ら私でした。
彼は私の現実世界での悩みや、世の中に対する苦悩をずっと隣に寄り添って、聞いてくれたのです。
その方に現実世界の自分自身の悩みを聞いて貰えるだけで、不思議と心が軽くなりました。
しかし、とある日のことでした。
その方は――今の私と全く同じように、突然動かなくなってしまったのです。
自分の末路を予め知っていた私は、まさに今のレットさんと同じように――その方の余命が、残り少ないのではないかということに気づいてしまった。
『――――――おや? 気づかれてしまったかの!? すまんのお………………隠そうと思ったんだが、昔から隠し事は下手なもんでな――わ~っはっはっはっは!』
そこで気づきました。
目の前のお年寄りが自分と同じように、身寄りが無く、寝たきりで、行く宛ても無くゲームを遊んでいたということに。
私と全く同じ境遇にありながら、残された時間を全て費やしてまで、人の為に生きようと冒険をしていたのだということに。
私はそれはもう驚きました。
自分の死が迫っているというのに、その方は実に満足そうに笑っていたのです。
怖くないのかと、彼に質問をすると――
『何も怖くない。怖くはない!! ――が……。ただ、これが消えて無くなるのだけは、心残りなんじゃよ』
――そう言ってその方は、小さな盾を取り出したのです。
『これは、この世界でできた友達から貸して貰った大切な品なんじゃ。ワシは持ち物を、何度も奪われたし、何度も倒されたり、自分の死体をさんざ踏みつけられたりしたもんだが、そいつだけはしっかりと手元に残った。友達に返す約束をしていたんだが――』
私は決めました。その方に“盾を渡し”に行くと。
だから、お友達の名前を伺おうとしたのです。
しかし――
『………………名前なんぞ――忘れちまったよ! いや……冗談。知る機会が、終ぞ来なかっただけじゃ。お前さんがそんなことをする必要はない。ただ――このままワシが居なくなると、このアイテムもこの世界から消えてしまう。出来る事なら――消えずにこの世界のどこかの――――人の目につく場所に置きっぱなしにしておいてくれればそれで良い。ただ……それだけで良い。ありがとう………………短い間だが、お前さんの隣に居られて……一緒に遊べて――本当に楽しかったよ………………』
私の顔を見つめたままそう呟いて、あの方は笑いながらこの世界から居なくなりました。
その方は、自分の命が尽きる最期の時でも、最期までただ虐げられていた――私のような人間の傍に最期まで寄り添ってくれたのです。
その優しさが私、うれしくて、うれしくて――
そして、自分の身を挺して、私の為に最期の時間を費やして去っていった彼を見て思い立ったのです。
こんな私にも――人生で、何も成せなかった私にも。
まだ、自分の意志で成し得ることはあるはずだと。
今までずっと――成せなかったとしても人のために生きようとしてきたのだから、自分の在り方を最後の最後まで守ってみようと立ち直ったのです。
死ぬ前に、最期に一度でいい……一度で良いから身を切ってでも、心の底から人に寄り添って、人の役に――立ってみたいと願うようになったのです。
最早、自分の人生に目標を立てたところで……夢を描くことは叶いません。
それでもまだ、希望はありました。
何故なら、ゲームの世界でなら私には残された時間があったからです。
脳に……夢を見る機能さえあれば……少なくとも……私はこの世界でまだ動くことができる。
肉体は離れた場所にあっても、心は隣に寄り添える。
――優しさに他者に分け与えることができる。
幸運にも、私はその事実をこの世界の中で、知ることができたのだから。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「だから、その人の優しさにどうしても報いたくて………………私はその人と同じように、人に寄り添い、“誰かのために力になろう”と誓ったのです。せめて、最期にその方の真似事でもできさえすれば――――――と。残された時間で――この世界の内外で――盾の持ち主を探しながら、その役割を果たせる機会をずっとずっと待っていたのですよ。……そして…………だからこそイートロさんには、トヴさんのことを――蔑ろにしないで貰いたかった。その思いがイートロさんに伝わった時――私とっても嬉しかったです」
目を開いて、タナカが宙を見上げる。
レットとは、目線が合っていなかった。
「最も……自分しか知り得ないはずの辛い体験や気持ちを私が自分のことのように詳細にお話しした時。イートロさんには、とても――驚かれてましたけどね。………………お恥ずかしい話……………………私の身の上を聞いたら、“逆に同情をされてしまった”くらいです」
タナカが笑みを浮かべてから、虚空を見つめて語り掛ける。
「………………レットさん。デモンさんを助けたあの日に、平原でお話した時のことを――――――覚えていますか?」
「うん……。――うん。……覚えているよ」
レットはかつての記憶――メレム平原の夕日が思い起こされる。
それは、デモンと初めて出会った時の日でもあった。
「あの時にお話しした内容は――私のことを救ってくださった方のお話でもあったのです。その後に、私の目の前で、レットさんが困っている人々に手を差し伸べようと決意してくれた時……私は――……とっても嬉しかったんですよ。あの時のレットさんは、私を助けてくれた“あの人”とそっくりだった。懐かしかった……。現実で追い詰められて……ゲームの中で絶望していた私を救おうとしてくれたあの人と同じことを――レットさんがしようとしてくれたことが、私……何よりも嬉しかった………………」
「で…………でも……結局あの時のオレの動機は邪だった……それからもずっと迷っていたよ……………………」
「確かに、貴方はずっと迷っていましたね。しかし、それでも結局、迷った挙句にレットさんが出した結論も“その人と同じ”でした――。貴方がようやく見出した想いと願いが、消えずに済んで――――――本当に良かったと思います。――――――クリアさん。まだ、この場にいらっしゃいますか?」
その言葉でレットは、気づいた。
タナカの目が“もう見えなくなっている”ということに。
「ああ――俺はレットの隣に居る」
「これを、貴方に預かって頂きたいのです……」
タナカが持っていた小さな盾を、両手で何もない空間に向かって差し出した。
持ち手には、チームのエンブレムが刻まれていた。
クリアが咄嗟にそれを受け取る。
「結局、あの方のお友達にお会いすることは叶いませんでした。しかしこのまま、この盾が消えてしまうのは忍びない。なので――貴方に預けます。どこか――人の目につく場所に置いておいてほしいのです」
「――人の見える場所か。わかった。置いておこう。可能な限り、このゲームの――サービスが終わるその日までな」
「――ありがとうございます」
「ねぇ――タナカさん」
涙を流しながら、レットが縋るようにタナカに語りかける。
「オレが……オレが“探す”よ。オレが……盾の持ち主を――タナカさんの代わりに………………探すよ……だから……タナカさんを助けてくれた……その人の名前を教えてよ――」
タナカは目を瞑って、それから僅かに頷いて笑みを浮かべた。
「いいえ――探す必要はありません。この世界のどこかに……“本当に心の優しい方がいたのだ”ということだけを――憶えていて頂ければ……私は………………それで良いのです……」
「でも、だって――タナカさんにずっと助けてもらったのに……オレ……何にもお返しできてないのに……このまま何もできないままお別れなんて……そんなの……………………だって……だって約束――――」
視線を落としたレットの視界に、タナカの開かれた右拳が見えた。
それまでずっと持っていたのだろうか? 列車の切符が地面に落ちていた。
耐えきれずに、それを拾い握りしめてレットは叫んだ。
「――――――“約束した”じゃないか!! ケッコさんに………………デモンに『必ず戻ってくる』って――――――『皆で、どこかに旅行に行こう』って! オレ、タナカさんと一緒に……まだまだ行きたい場所が………………沢山あるのに……」
「叶えられないことは………………わかっていましたから――私は……結局一度も、『お約束するとはお答えできませんでした』よ」
そう言って、タナカが穏やかな笑みを浮かべた。
「それよりも……………………レットさんには――お願いが一つだけあります」
タナカの言葉を聞き逃さないように、レットは涙を流したままタナカに顔を近づけた。
「これ以上………………悲しまないでくださいね。レットさんが悲しむと――私も……………………悲しくなってしまいますから」
レットの呼吸が荒くなり、それは嗚咽になりつつあった。
空気が口から零れ出そうになるのを、歯を喰いしばって堪えようとする。
それでも涙が止まらない。
そこで――不意に、背後から誰かが歩み寄ってくる音がした。
「オイ………………ずっと――聞いてたぜクリア。“タナカの最期の話”ってヤツをよ」
「…………“聞かせていたんだベルシー”。全ての話をな。お前が――ここに“辿り着く”んじゃないかと思ってな」
背後に居る人物が明らかになっても、レットは顔を上げなかった。
そんなことをする余裕は、今のレットには無かった。
レットの耳に、大きな舌打ちの音が聞こえてくる。
「ふざけやがってよ…………。おい、タナカ! お前は……本当にどうかしているぜ! ――隣でテメエの仕事っぷりを見ていたからオレには分かる。テメエには何をやるにせよきちんと能力があったはずだ! きっと現実でも、名ばかりの役職押し付けられて、低い報酬で他人の責任だけ負わされていたんだろ!? 他人の手伝いや、尻拭いばっかりさせられていたんだろ!? そうやって現実世界で潰れていった人間を、オレは何人も見ているし知ってるんだよ!」
タナカは何も答えなかった。
「オイ――――――テメエの“場所”教えろや」
ぽつりと背後のベルシーが呟く。
「ふッざけんじゃねえよ…………舐め腐りやがって……オレとの契約はまだ終わってねえぞ!!」
叫ぶベルシーが、勢いよくタナカに歩み寄ろうとしてクリアに制される。
「――このまま…………終わらせてたまるかってんだ! 劣徒の約束なんか知らねえが………………お前は――『オレと契約した』じゃねえかよ! 途中で投げ出したりせずに、最後まで………………やることをちゃんとやれよ!」
クリアに抑えられながら、ベルシーが肩越しにタナカに対して怒鳴り散らす。
「放ッせよクリア! 納得できるか、こんな終わり方!! 直接オレがお前の家に出向いて――激を飛ばしてキッチリ“請求”してやるから――テメエの住所を、さっさと教えろよ! 教えろッ!!」
「私の……“場所”……………………ですか――――――」
タナカは、ぼうっとした表情で天を見上げる。
「私の場所は――――――――――“この世界にありました”」
「テメエ――答えになってねえぞ! しっかりしろよ――オイ!」
「素晴らしい人との出会いに………………素晴らしい仲間たちを……………………見つけられた………………こんなに……とっても――――――素晴らしい場所を……。こんな私でも……………………この世界で希望を得られて……――最後の最後で願いがかなった…………。最後まで………………諦めないで良かった………………本当に……………………」
タナカの視線は、既に覚束なくなっていた。
その身体からどんどん力が抜けていっていることにレットは気づいた。
タナカの両目が、ゆっくりと閉じていく。
「ああ――――――――――雨が………………降っていますね」
「う…………う…………あ……あ――――――」
レットの涙がタナカの顔にぽたぽたと落ちる。
口から言葉が出ない。
嗚咽を堪えようとして身体が痙攣していた。
混乱した頭の中で、タナカの最後の願いである――“悲しまないで欲しい”という言葉だけがずっと反響していた。
「だ…………大丈夫だよ…………タナカさん――――だ………………大丈夫………………」
震える声を必死に抑えながら、レットはタナカに呟いた。
「――――――――明日には、きっと晴れる………………から…………………………だから――」
そうして――
――『ぶつん』とコードが切れるような音がして――レットの前で、タナカのキャラクターが消滅した。
レットが今まで一度も見たことの無いような消滅の仕方だった。
まるで、家電製品のコードをいきなり、力づくで乱暴に引き抜いたかのように――タナカマコトは、その場から完全に消滅した。
クリアの息を飲む音が聞こえた。
ベルシーの悪態と怒号がぴたりと止まった。
しばらくの間、その場に居た人間は誰も――何も言おうとしなかった。
「ねぇ………………………………………………クリアさん」
レットが、か細い声で呟く。
「………………………………………………どうして――――――――“どうしてタナカさんなんですか?”」
その問いかけに、答えは返ってこない。
「なんでッ………………なんでもよりにもよって――――――タナカさんなんですか!? どうして――――どうしてタナカが、死ななきゃいけないんですか!?」
その叫びにも、答えは返ってこない。
ただ、ゴーグルを強く抑える小さな音だけが聞こえた。
代わりに――
「クソ――――――――くだらねえな……。こんな……こんな馬鹿野郎は……“死んで当然”じゃねえか…………」
信じられないような言葉が、レットの耳に聞こえてきた。
「なん――だって……」
レットが座った状態のまま首だけを振り向かせる。
「…………聞こえなかったなら、もう一度言ってやるよ。タナカは…………クソみたいな待遇で他人に利用されて、使い潰されて――見殺しにされて、そのままボロボロになって死んでいっただけの“ただの馬鹿野郎だ”って言ったんだ! こういう…………優しいだけの――人が良いだけの運の無い馬鹿が……社会の――世の中の食い物にされる! “ただ、当たり前のことが起きた”だけじゃねえかよクソッタレが!!」
ベルシーが、苛立った様子で地面を蹴とばした。
「あ……当たり前――――――――――だって? ずっと人の為に頑張っていたタナカさんが……死んでいくのが………………当たり前――だって?」
「ああそうさ! ――その挙句がこのザマだ! 他人に優しくするなんてのは――今の世の中“馬鹿のやること”なんだよ!! 結局、世の中一番重要なことは――『どれだけ人に冷たくなれるか、どれだけ他人に無関心でいられるか』だ!」
「な、なんで……」
悲しみでレットの身体が痙攣していた。
再び嗚咽が混ざり始める。
「なんで――――どうしてそんなひどいこと言えるんだよ……やめてよ……………………オレの前で………………タナカさんのことを………………酷く言わないでよ………………侮辱………………しないでよォ……」
ベルシーが自身を抑えるクリアの腕を乱暴に振り払う。
「侮辱なんかじゃねえ! これはな――事実なんだ!! 結局のところ、世の中は弱肉強食ってことさ!」
つかつかと歩み寄ってくるベルシーに首根っこを掴まれて、レットの身体が乱暴に持ち上がった。
「間抜けなテメェに教えてやるよ……。お前の生きている社会ってのは結局“こういう物”なんだよ! 今の時代……オレみたいに……タナカの兄弟みたいに……他人を利用して犠牲にして――金を稼いだり――搾取するヤツが勝者なんだ! そういう考え方を持っている人間が――――いつもいつも世の中の頂点に立つ! そして、そういう連中は――地を這ったまま死んでいく連中の苦しみや――末路なんてものはいちいち気にしやしねえんだよ! 見ても知らんぷりで……………………笑いものにして、すぐに忘れる! それが、“正しい世の中の在り方”ってもんなんだ!」
「ち、違うよ……そんなの間違っているよ……それが本当なら………………残酷すぎる……」
「残酷なんかじゃねえ! "それが本当の姿"だ! お前みたいな……現実を見ていないガキの頭が――ひたすらお花畑なだけなんだよ! ――いいか? テメエが日頃、学校で学んでいるような薄っぺらい道徳なんてものはな――――――糞以下の、くだらねえ幻想なんだ! これが現実さ! タナカは、ただ奪われた続けただけだった! コイツの人生には………………“意味なんかなかった”ッ!」
「違う……違う…………」
レットは胸倉を掴まれて、涙を流しながらベルシーの目を睨みつけた。
「無意味なんかじゃない………………タナカさんのやったことは――――――――無駄なんかじゃない!」
レットが震える右手でベルシーを突き飛ばす。
覚束ない足取りで、二人のやり取りを見ていたクリアに対して倒れ込むように寄りかかる。
そしてレットはクリアが持っていた盾にしがみ付いた。
「だって……オレは――――――絶対忘れないからッ!」
「――止せ、レット!」
制止するクリアから半ば強引に両手で盾を奪って、何度も倒れそうになりながらもレットはベルシ―に向き直った。
「オレが――オレが無駄にしないからッ!!」
そう叫んだ直後――レットはベルシ―に顔面を殴りつけられた。
何の補正もかかっていないレベル差によって、レットは情けなく地面にひっくり返る。
「………………ふざけやがって――ふざけやがってよ!」
ベルシーが、倒れ込んだレットに駆け寄って蹴りを入れる。
馬乗りになって、さらに殴り続ける。
無防備のまま殴られ続けるレットの体力が、瞬く間に減っていく。
殴られながらも、レットは涙を流しながら――小さな盾を守るように必死に抱きしめ続けていた。
「世の中のことを…………何も知らねえ弱っちいだけのガキのくせに――、偉そうに……一丁前に………………オレの前に立つんじゃねえッ!!!!!!!!」
絶叫と共にベルシーの、とどめの拳が振り上げられ――
――拳に、石で出来たナイフが深々と突き刺さった。
「――――――――退け」
ベルシーが、驚いた表情でクリアに対して振り返る。
「おいおい、まさか嘘だろ? お前なら、わかっているはずだ! なぁ――クリア"くん"。一体どうして――!」
「ベルシー――もういい加減にしろ。“お前の生き方や、やり方を良く知っている俺でも”こんな状況は許容できない! 限界だ! ――――さっさとここから失せろ!」
「――クソッタレが…………」
ベルシーは酷く動揺した様子で石のナイフが突き刺さった右手を左手で庇うように掴んだまま、背を向けてよろよろと走り去っていく。
「う――うう…………………………」
「――レット」
クリアが震えながらも差し伸ばした手を、泣きながらレットが叩き落した。
「ウ――ワアアアアアァァァアァァァァァァァァアァ!!」
小さな盾を抱えたままレットは慟哭した。
嗚咽交じりの悲鳴のような絶叫が、夕日の丘にずっとずっと鳴り響いていた。