第二十四話 其ノ世界 其ノ者
レットの肩に乗せられていた両手がゆっくりと浮き上がって、その指が背中をなぞる。
背後の何者かが鼻歌を吹きながら、自分の背中をまるでピアノの鍵盤に見立てているかのようにゆっくりと叩き始めた。
雨の中なのに、その音が不思議と鮮明に聞こえてきた。
背中で演奏されている曲は聞き覚えのあった。
だからそれが有名な曲だということは辛うじて理解できたが、少年には具体的な曲の名前まではわからなかった。
(………………………………………………………………………………………………………………)
突然行われた“予想外の襲撃”に、レットは身動きが取れない。
困惑している間に、背後の人物は満足したのか演奏を止めてレットの真後ろから囁いてくる。
「――原因不明の、異常気象が年々増えているらしい」
壮年の男性を感じさせる穏やかな声がレットの耳に聞こえてくる。
レットは、手紙を持っている右拳を強く握りしめた。
(オレの持っている手紙。これは……プレイヤーに対する運営からのアンケートなんかじゃない!)
「――狂ったように雨が降り、降り注ぐ紫外線は昔よりも強くなっているような気がする」
(これはオレ宛てのメッセージだったんだ……どうして気づかなかったんだ! 雪山で送られてきた手紙と……“字体が同じ”だ! じゃあやっぱり、今オレの真後ろに居るのは――)
遠くの黒雲から、不吉な振動音が響いてくる。
冷たい大雨の中、自分が吐いた荒い吐息が白くなって宙を舞う。
「最初に……一つ話を聞いてもらおう。これはこの国に、はっきりと四つの季節を感じられていた昔の話だ。今と違って、半袖で夏場に出かけても火傷にもならなかったあの頃の話だ」
背後の声は段々と大きくなってきているが、その吐息は一切感じられない。
「君にとっては可笑しな話だろうが、その頃は、学校の屋外にプールがあった。昔、ある一人の子どもが、季節のはずれに学校の汚れたプールから一匹の水蠆を拾い上げた。子どもは喜んで、教室で一生懸命に育てた。毎日欠かさず様子を見て、餌をやった。そうして水蠆は蜻蛉になって、覚束ないなりに空に飛び立っていった」
意図の読めない話を聞きながらも、レットはこれからどうするべきかを思案する。
その身を襲う不気味で奇妙な感覚には思い当たる節があった。
(岩窟で戦ったアイツに雰囲気が似ている……。いや、それと比べ物にならないくらい“ひどい”………………)
両肩から、激毒のような濃い臭いがしたような気がした。
レットは、“背後の何か”に対して抱えたイメージが自分自身の五感を狂わせているのだろうと推測した。
「ある日の昼休みのことだ。校庭の水飲み場にとても綺麗な虫が羽を休めていた。その子どもは好奇心から反射的に手を伸ばした。羽化したばかりの柔らかい腹が潰れて少年の指にこびりついた。愚かなことに、少年が自らの手で誤って叩き潰したのは自分が大切に育てたあの蜻蛉だった」
(――今は、焦っちゃダメだ……。背後の敵に悟られないように……すぐにでもクリアさんに連絡を取らなきゃ――)
緊張から、自らの唇を反射的に舐める。
背後の人物の話を聞き洩らさないようにしつつ、レットは仲間に“囁こう”とした。
「例えば――もしも今、君が誰かに連絡をしたとしよう。君はその子どもと似たような悲しい想いをすることになる。この場で助けを求めてみると良い。あの少女は身動きも取れぬまま飢えて――――――君が原因で“確実に死ぬ”」
背後の声は、始終穏やかなままだった。
レットは口が開いたまま、突然心臓を握りつぶされたかのようにぴたりと動けなくなる。
「多くの人間は“人生に於いて、自らの死こそが最も恐ろしい出来事だと考えている”が――それは多くの場合“人生に於いて、最も大きな勘違い”となりうる。実際は“自分が守りたかった物を、自分が原因で永久に失う”ことの方が何百倍も恐ろしい。後悔を抱えながら抜け殻のように続く生こそが、死より恐ろしいということを――このままでは君に知ってもらうことになる。――――――――いい加減、返事をして貰って良いかな?」
「や……めろ……」
その場から一歩も動くことはできない。
搾りだすように声を出すのが精いっぱいだった。
少年は慣れていたつもりだった。
後ろ暗い人間の心の闇に触れてそれでも尚、少年は今の今まで決してめげなかった。
しかし、窮地を脱してきた今の少年には、経験故に一つの予感があった。
この背後の“何か”の対処を自分が間違えたら――その瞬間、あの少女は確実に“死ぬ“。
その重すぎる事実が少年の腹部を深く突き刺した。
内臓に穴が空いて、そこから不快感という名の液体がじわじわと染み出しているような気分だった。
「必要以上に怯えないことだ。今日『私』がここに来たのは、君個人と話がしたかったからだ。……君は雪山で――あの“二人組”との楽しい時間を過ごせたかな?」
「あ…………………………あの“二人組”を送ったのは……その――アンタなのか?」
自分の言葉に気を付けながら、レットは背後の人物におずおずと問いかける。
「いや、あれはただの偶然だよ。君たちとあの二人が出会うのはある意味で予想外の出来事だった。――だからこそ、これから作る『ゲーム』の役に立つ」
『ゲーム』という言葉の意味がいまいち理解できず、レットは眉を顰める。
「………………………『ゲーム』って一体…………何のことだ…………」
暫くの沈黙の後――
――両肩に置かれている手に不意に力が入り、レットの身体に対して姿勢を崩してしまいそうな程の重圧がかかった。
(――――――……………………ぐうっ!)
「……………………とある日に、君はこの城下町であの少女にこう言っていたね。『お別れするのはさみしいけれど、それは喜ぶべきことなんだ』――と」
「な、なんで――――――――――――――」
『なんでそんなことを知っているんだ』
レットはそう問いかけたかった。
しかし、段々と重くなっていく両肩の重みを堪えようとした結果、息が続かなくなってしまう。
「不思議かい? ……私は何事も“近くで見るのが好き”でね。――喜ぶと良い。このままだと、君のその言葉は直に現実となる。あの少女とはお別れだ。二度と会えなくなるだろう。何故なら――どの世界からも、完全に居なくなるからだ。『私』は今、彼女の生殺与奪を間接的に管理している。しかし、『私』には彼女をどうこうする意思がない。ただただ、今の彼女はあるがままだ。志半ばに斃れた“ゲームの主人公”の意思だけが残されたまま―――存命の体制が漫然と続いているというだけのこと」
レットは精神的に追い詰められながらも、その言葉の意味を必死に考える。
『志半ばに斃れた“ゲームの主人公”が果たして誰なのか』
そうして気づいてしまった。
未だに少女がログインを続けていて、その身に危機が迫っている理由について――
(そんな………………じゃあつまり、オレが――)
「要するに――“君のせい”なのだ。君が半端な覚悟で踏み込んではいけない領域に足を踏み入れたからだ。君が横入りして、『私』の作った『ゲーム』を台無しにするようなことさえしなければ、少女は少なくとも『あの少年』の管理下で確実に生き永らえることが出来ていたはずだった。何も知らないまま安寧な環境で夢を見れていた。…………現実で“時間切れ”になって一人で放置されることも無ければ……今この瞬間、生命の危機が訪れずに済んでいたはずだった」
「――――――――――――っ!!」
レットはその言葉に心を折られそうになる。強烈な吐き気がレットを襲った。
そう――何も言い返せなかった。
例え、デモンがこの世界で幸せでも何の意味も無いことだった。
現実での死が迫っているような危機的な状況下に追いやってしまった時点で、レットには――もう何の言い訳もできなかった。
「い、一体………………何が――……何が目的だ」
視界が滲んでいる理由は雨か、それとも涙か。
「…………もう、あの娘にこれ以上……………………酷いこと――酷いことしないでよォ……オレ……オレ……………………本当に何だってするから………………」
虚勢を張っていたはずの強気な口調もいつの間にか元に戻っている。
レットが膝から地面に倒れ込むのも、時間の問題だった。
「……それならば――君には、『私』の提示する『ゲーム』に身を投じて貰いたい。『私』が『ゲーム』の途中で提示する条件を君達が満たすことができれば、彼女の延命を確約しよう。君の握っているその手紙も“参考”にさせてもらう。『私』の持っているこの封筒と――交換をしてもらって良いかな?」
“意思確認”の質問をされて、レットは慌てて手紙を握っていた拳を解く。
両肩に乗っていた手が不意に離された。
拘束を解かれたことで重圧から解放され、レットは反射的に振り返る。
しかし――そこには誰もいない。
自分の右手を見つめる。
先程まで握っていた手紙が、気が付けば全く別の真新しい封筒にすり替わっていた。
同時に――何かが自分の身体を通り抜けたような感覚が自分の身体に残っていた。
(まさか…………嘘――――だろ)
再び振り返ると、自分の身体を“通り抜けたモノの正体”がレットを見つめていた。
立っていたのは、“空間”だった。
人の形をした空間が蠢いていた。反対側の景色は透けている。
そこには風に流されて今にも消えてしまいそうな透き通った陽炎のような輪郭だけが揺らめいていた。
しかし、“人の形”が視える。
視覚には映っていないはずなのに、朧げな輪郭しか映っていないのに――それが長身の男性だということが不思議とレットの頭で理解できた。
視えているはずがないのに、空間を人物として認識しているという脳内の違和感がレットを混乱させた。
視覚情報の無い、あやふやな空間を見つめているだけで――
――その人物がスーツを着ていることも。
――頭部に帽子のような物を着けていることも。
――こちらを見て『笑顔を作っている』ことも。
不思議と頭で理解できた。
「世の中の人々の心は、すっかり現実に打ちのめされ草臥れ落ちぶれている」
陽炎は“ゆらりとした表情“でレットに話しかけてくる。
「『私』はね。――そんな彼らを救いたい。疲れ切っていたり、先が無い人々の、望みを叶えてあげたいのだよ」
空から降り注ぐ雨は、人形を模ることなく淡々と地面に落ちていく。
地面に、その不気味な存在の足跡だけが象られる。
「しかし、ただ願いを叶えるだけでは意味が無い。何事も、達成感が必要だろう? 敵の無い願いなど――人生など、つまらない。簡単に得た快楽では彼らの心は救われない」
レットが感じていたのは、“世界そのもの”が一つの生き物の形を作って、意思を持って自分自身を見つめているような不気味さだった。
「条件を課した『ゲーム』を『私』が作る。乗り越えられた者を優遇し、望みを叶えて、最高の逃げ道を与える。それが『私』の行動理念であり、ルールであり、世界の意志であり――『私』が考える世界の在り方だ」
ある日何の気なしに部屋の壁を見つめて――そこに小さな毛細血管が通っていることに偶然気づいてしまったような――そんな不気味な嫌悪感があった。
「そして、それこそが『私』の存在理由であり――『私』は信念そのものであり――心だ。『私』に直接、可視化できる表情は必要ない。だから『私』という存在に背景も必要ない。否――私自身が、草臥れた人々に各々の“背景”を与え背景そのものとなるのだ。……かつてオンラインゲームという広大な世界が、個々のプレイヤーに夢と希望と、目的を与えていったのと同じように……………………」
揺らぎが、自らの帽子の鍔に手を遣ってからレットを見つめた。
「そんな中で、君たちは、想定外な存在だった。今の『私』にとって、君たちは邪魔者となっているわけだ。邪魔者は邪魔者らしく――きっちりと足掻いてもらう。少なくとも――君を招待したその『ゲーム』が終わるまでの間はね」
突きつけられた要求に対して、レットは何も言えない。無言の肯定しかできない。
今の少年には食い下がるような選択肢も無ければ、断るなどという選択肢など取れるわけもなかった。
「――心配しなくて良い。君に一つ、役に立つ雑学を授けよう。人が栄養を失って餓死する時に、最後まで機能する人体の器官は“脳と眼球”だ。この二つは、人体の中でも栄養が最期まで最優先に集まる場所だ。だから――彼女は最後の最期まで夢を見られる。つまり――もし、君が『私』の招待した『ゲーム』の中で敗北したとしても、地獄の苦痛を味わい死んでいく彼女を囲んで、別れを惜しむ時間は十分にあるというわけだ。だから――“心配しなくて良い”」
穏やかな口調でレットに投げかけられる言葉。
それは今後、彼は辿りうる可能性の一つ。残酷な敗北の末路だった。
レットに圧倒的な無力感と絶望が襲い掛かる。
それらは真っ暗な感情となって瞬く間に少年の身体の中を暴れ回った。
「〔――レットさん! 聞こえますか、レットさん!〕」
チームメンバーの声が聞こえてくる。
追い詰められた精神状況で自分の身に降りかかった緊急事態に、レットは混乱したまま返事をすることができなかった。
それはレットが『外部に対して連絡を取ることを未だに禁じられている』という事実を、混乱する頭の隅でかろうじて認識していたからでもあった。
しかしレットに残されていた最後の思考能力も――
「〔……デモンさんが――デモンさんが倒れられました! すぐに、チームの家に戻ってきてください! レットさん。返事をしてください!!〕」
――そのメンバーの言葉によって、完全に機能しなくなる。
最早、レットの精神状態は真っ当な思考ができないほどの極限状態にあった。
精神的に追い詰められて圧縮されていく時間の最中。
揺らぎは背を向け、レットの前から歩き去ろうとして――
「最後に一つ。言い忘れていたが―――」
――ぴたりと足を止めて、振り向かぬまま人差し指を立てる。
「―――――その中には、君自身の現況調査に答えてくれた“礼”が一枚入っている」
死んだような目で、レットは自分の右手の封筒を見つめて――そこでようやく自分の全身が震えていることに気づく。
まるでこうなることを予期していたかのように持っている封筒に封はされておらず、開きっぱなしのままだった。
封筒の中から、重力に従って【アイテムの交換券】が地面に落ちた。
「君は、彼女に――“好きな物を、何でも食べさせてあげると良い”」
その身体が揺らめき、炸裂する雷の白光と共に消滅する。
チームメンバー達の呼ぶ声がレットの身体の中で反響する。
「ぐ………………う…………うう……………………………………」
必死に身体を動かそうとして、足に力が入らずにその場に蹲る。
足元に落ちていた交換券を右手で握り潰しながら足に力を入れる。
「うあ……ああああ……あ……………………」
嗚咽と雷が重なって、何度も姿勢を崩しながらも必死になって立ち上がる。
白光と同時に、自分の頭がフラッシュバックを起こす。
『レットは私にとって――暖かい太陽なのよ……。朝になって……夢から覚める時に……私を照らしてくれる優しいお日様みたいな……安心できる……とっても大切な人なの』
『わかることは一つだけ――レットとは………………きっとお別れになる。我儘だけど………………レットとは、ずっと一緒に居たい』
【あなたが助けたいと思っている少女が まもなく餓死すると知った時の あなたの気持ちは次のうちどれ?】
『とっても不思議なの……どれだけ食べても――お腹いっぱいにならない……』
泣いているのは、空なのか、自分なのか。
叫んでいるのは、空なのか、自分なのか。
しかし、それでも――
「――――――――うおおおおおわぁぁああああああぁぁああああああぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
――自らの心を抉りかねないような絶叫と共に、少年は向かうべき目的地へと駆け出した。
https://youtu.be/TlfPxh8O6TU