序章 ジョエル=オレアン
埃の付いたような食器ではお客には出せない。しかし汚れというものはどう頑張ったとしても発生してしまうもの。日課として毎朝すべての食器を清潔な布で磨くようになったのはそのためだ。結構な時間をひつようとするけれど早起きは昔からの習慣であったので苦ではなかった。
とはいえ七十もの年月を生きてくると体にもガタがくるもので、長い間立って仕事をすることも難しくなってきた。午前中だけなら大丈夫なのだけれど午後にもなると合間合間に休憩を入れなければ、腰が。若いころに体幹を鍛えておいたために腰は曲がっていない、でも体の痛みはどうにもならない。老化には逆らえないよう。
色々と変わっていくのを眺めているだけの人生だった。それで十分楽しめた。それに、残りは少ないとしてもこれからも変化を見ることはできる、感じられる。
世界中を飛び回っていた若い頃に比べればささやかではあるけど。
髪や髭が白くなっていったのはびっくりした。はげると思っていた。父も祖父もレーザー光線を発射できるレベルだったから。現在もふさふさの白髪でちょっと嬉しい。
子供たちがそれぞれの道を歩んで私の元から去って行ったときは複雑だった。何とも言えない、これは親にしかわからない感情だろう。遠くに行ってしまったためにそうそう会えないが、たまには連絡をくれるいい子たちだ。
子供たちが独り立ちしたあと、ああ、うん、そう、退職した後は妻の出身国で暮らしたいと思っていた。私の国では差別というものはほぼ形骸化したといっていい。それでも白人以外の人種に対しては少しばかり冷たい対応になってしまう。妻は東洋人ながら英語は堪能……しかし残念なことにその性格のためか人当たりが強く近所でも孤立していた。
ゆえにこちらに移り住んで、ちょっとでも妻が気楽に過ごせる環境を作ってあげたかった。そして喫茶店を開きたかった。数人が入る程度の大きさでよかったし、一等地になくてもよかった。茶色を基調としたクラシックな雰囲気にして、中高年のお客さんがたまに来てくれるだけでよかった。時には妻が喫茶店を手伝ってくれたりして、残った人生、妻と一緒に過ごせれば、よかったのだ。
「私はやってみたいことがたくさんあるの。世界は平和だし、あなたも私を守らなくても大丈夫よ、つーか貴方とろいし、足手まとい」
と言って出て行ったのは何年前だっただろうか。それ以来音信不通である。私よりも世渡りの上手い女性だから実はもうどこかで死んでいるなんてことはないだろう。それに私に愛想をつかしたというわけでもないらしい。籍は抜けてないし、おそらく。彼女の本質的は旅烏ということ、わかっていたから。長い間よく一緒にいてくれたと言うべきなんだ。