04 獅子王の支度係のお使い
その日、香枝は頼んでいた材料を受け取るために資材庫に来ていた。
「――頼まれていたのは、バラの花と、椿の葉だったな?」
「ジル、私が頼んだのは椿の葉じゃなくて椿油だったと思うんだけど……」
ジルがカウンターの上に材料が入った袋を並べていくのを見て、香枝は首を傾げる。
「そうだったか?……しかし、困ったな。次に仕入れても届くのは来週になるんだ」
「そうなの。でも、困ったわ。椿油はもうほとんどないのよね」
「もう無くなりそうなのか?それは悪いことをしたなぁ」
香枝はほとんど空き瓶になってしまった椿油の瓶を思い浮かべながら呟く。仕入れが来ないのであれば買いに行ければ良いのだが。そこまで考えて、はっと顔を上げた。
「――ねぇ!私が城下に買いに行ったらいけないの?」
「……お前が?」
「いいじゃない。私も大分こっちに慣れたと思うの。それに必要なものだし!」
眉を寄せて香枝を見るジルに畳み掛けるように理由を続けた。
実際、こちらの言葉にも困っていないし、常識なども大分分かるようになったと思う。お金の単位なども教えてもらっているし、そろそろ城下に下りてみても問題ない頃合だと思うのだ。
「そりゃあ、カエも大分慣れただろうよ。でもお前一人で外に出すなんて、王が許すと思うか?」
「う……それは」
「俺が付いて行ければいいんだが、俺は城を離れられないしなぁ」
ジルの言うことは尤もだった。確かに、香枝が一人で城下に下りることをクロードが知ったら許さないだろう。はっきり聞いたことがあるわけではないがジルは城を離れられない役目があるそうだし、一緒に付いて来てもらうには厳しい。しかしそうなると、一緒に行ける人がいない。
「――今日のおやつなにー?」
「お、ニーナがいたじゃねぇか」
そこへ飛び込んできたのは一人の女性の声。資材庫の扉を開けてこちらにやって来たニーナに向かって、ジルはにやりと笑った。まさに飛んで火に入るなんとやらだ。
「え、ニーナに悪いよ」
「へ?あたし?」
「なーに、悪いことなんてあるか。ニーナ、お前暇だろ?暇だよな?」
きょとんとこちらを見るニーナに向かってジルは畳み掛けるように言って詰め寄った。
そして二人は城下に降りてきていた。侍女服の上に薄手のローブを羽織って、二人で並んで歩く。ほとんど初めて見る城下の景色はどれも新鮮で目新しい。城が石造りの建物であるために、こちらの世界ではそのような建築様式なのかと思っていたが、そうとも言い切れないようだ。石造りの建物もあれば、塗り壁調の建物もある。建てられた年代によって違うのかもしれない。
「――ニーナ、ごめんね。付いて来てくれてありがとう」
「んーん。別にいいよ。はい、カエも食べてみる?おいしいよ」
ニーナはそう言って、先ほど出店で買ったお菓子を香枝の前に差し出した。
「いいの?じゃあ、一つもらうね」
「こういう揚げ菓子ってお城じゃ食べられないからねぇ。やっぱ城下に来ての醍醐味だよね」
ニーナは嬉しそうに笑って、それを味わっている。確かに調理長の好意でお菓子をもらったりしているが、どれも上品で繊細な味のものばかりだ。それはそれでとても美味しいのだが、こういう簡単なお菓子もやはり美味しい。生まれが貴族でも何でもないからなのかもしれないが。
「あれ、ニーナって貴族様じゃないの?」
それはぽつりと沸いた疑問だった。王城で働く人は例外も当然いるが、貴族の子女やその親戚などが圧倒的に多い。特にニーナは王に近い、執務室の清掃を担当にしている侍女だ。当然ながら貴族であるのだと思っていた。
「ううん、あたしは違うよ。貴族どころか親の顔も知らない孤児なの。この通り魔力はそこそこだしで売られそうになっていたところを、特殊能力があったおかげで王様に拾ってもらえたんだー」
「え、それは、その」
ニーナはあっけらかんとした顔で自身の容姿を指しながら笑って言っているが、その内容は結構重い。確かにニーナの容姿はこちらの世界の考えでいくと、魔力の大きさは多くもなく少なくもない中程度を示す耳と尻尾のみの獣性だ。綺麗なオッドアイの猫目は珍しい気がするが、こちらの世界でどの程度珍しいものなのかは香枝には検討もつかない。
香枝は困ったようにどんな顔をしていいのかと考えあぐねていると、ニーナはぷっと笑いを溢した。
「ふふっ!そんな顔しないで?あたしは全然悲しくないんだよ。むしろ、ラッキーって感じだし?――あ、来た来た。あたしの役目はここまでだね」
ニーナはにっと笑うと、そのオッドアイの瞳を細めて道の先の一点を見つめた。そしてそのまま香枝を連れて人気の少ない店の影に立つ一人の男の前に行くと、後ろにすっと下がった。
「クロエ様をお連れ致しました」
香枝の目の前に立つのは、見覚えのない背の高い逞しい男性。頭の上に丸い耳が付いていて、薄いブラウンの瞳と猫科の動物の系統であることが一目で分かる容姿。金髪の長めの髪は一つに纏められているが、細くて長い柔らかい髪であるというのに全く痛んでいる様子のない綺麗な髪だ。着ている服は大変質の良いもので、ボタンにまで細かい意匠が施されていて明らかに貴族であるということが分かる。だが、その彼をじっと見ているとどこか見覚えがあるように思えた。
「え?え?……あれ?クロード?」
「おお、よく分かったな。カエ」
男は嬉しそうに頬を緩めると、香枝の頭をゆるく撫でた。その手はいつものような肉球が付いているそれではなく、腕にも金色の体毛も見当たらない。
「え?でも?どういうことですか?」
「詳しいことの説明はここでは何だから、とりあえず行くぞ。ニーナは下がって良い」
「はい。近くにおりますので、何かありましたら声をかけて下さいませ」
状況を理解できずに疑問符を頭に浮かべてばかりいる香枝にクロードはそう言うとニーナを下がらせてしまう。ニーナは言葉通り居なくなったが、すぐに姿が人混みに紛れて見えなくなってしまった。
クロードは香枝の手を取ると、迷う素振りも見せずにまっすぐに道を歩いて行く。
「クロード?どこへ行くのですか?」
「どこって、カエが必要なものがあるのだろう?ジルが言うのは、薬屋に行けばほとんど揃うらしいな」
そう言いながら歩くクロードの足には迷いがない。香枝は導かれるままにクロードに付いていくのみだ。
クロードの手はしっかりと香枝の手を握っていて、こんな風に二人で並んで歩くのも実は初めてのことだと気付く。そう気付いてしまうと香枝の頬は段々と緩んでしまうのが自分でも分かる。その気持ちをクロードにも伝えたくなってクロードを見るが、その姿かたちは全然知らない人のようだ。確かに雰囲気は一緒で、声も同じ。それなのに見た目が人の姿へと変わったクロードは香枝にとっては見知らぬ人のように思えて寂しかった。
「……はい。そう、ですね」
「カエ?」
「いえ。何でもありません。行きましょう?」
香枝はどうにか笑みを浮かべてクロードの横を歩く。せっかくの二人で外を歩く機会なのだ。一人で落ち込んでいるのも勿体ない。次にこうして二人で手を繋いで歩く機会なんていつやってくるか分からないのだから。
「うむ。そうか?」
そして買い物を終えるとクロードは一軒のお店の前までまっすぐやって来て、香枝に説明もなくその中に入って行った。
「――アリー婆さん、俺だ。入るぞ」
「……おやおや、誰かと思ったらクロード坊ちゃん!久しぶりに来たと思ったらこんな可愛らしい子を連れて……!もちろんばあやに紹介してくれるんだね?」
お店の中は仕立て屋のように見える。たくさんの色とりどりの布と綺麗なボタン、そして鮮やかな糸。それらが整然と並べられた中に居るのは一人のトラ模様の尻尾の老婆だ。彼女はゆらゆらと尻尾を揺らしながら作業をしていた手を止めて顔を上げた。そしてとびきり嬉しそうに顔をくしゃりと皺だらけにして笑って、クロードと香枝の前に立った。
「彼女はカエ。城で俺の身の回りの世話をしてもらっている」
「は、初めまして!黒田香枝です。クロエと呼んで下さい」
クロードに紹介されて、カエは慌てて挨拶をした。
「城?ということは侍女さんなんだね。そうかい、そうかい。クロード坊ちゃんにいい人を紹介してもらえるなんて、長生きはするもんだね。――初めまして、クロエ。あたしはアリー。この通り、仕立て屋をやってる婆さんだ」
「だから、坊ちゃんは止せって言ってるだろうが」
クロードは苦々しいものを見るような目でアリーを見て、はぁとため息を吐いた。どうやらもう何度か言っていることらしいが、アリーは聞く耳を持っている様子はない。
「何、あたしはクロード坊ちゃんが生まれた時から乳母をやって世話してるんだよ。坊ちゃんはいつになったって坊ちゃんじゃないか」
「クロードの!それは、いつもクロードにはお世話になっております!」
アリーは目を細めて笑うと、カエの手のひらを握った。
「はっはっは。そう畏まることはないよ。――うん、良い手だね。さぁ、こんなところで立ち話もなんだ。中にお入りよ。店はもう閉めてしまうから」
そしてカエはアリーとクロードに促されるまま、店の奥の住居スペースにあるソファに腰掛けた。アリーがお茶の準備にと行ってしまったので、おのずとクロードと二人きりでそこに残されることになる。カエはクロードの顔をまじまじと眺めながら、考えていた疑問を口に出した。
「……あの、このお姿はどうなさったんですか?」
「ん?ああ、これか?これは、この指輪だ」
クロードはそう言うと、左手の小指に嵌めた指輪を見せた。石は何も付いていない、金色の細いシンプルな指輪だ。香枝は言われるままにそれに視線をやったが、それが何を意味するかは香枝には当然分からない。
「指輪ですか?あれ?そんな指輪持ってました?」
「ああ。これは特別な指輪でな、カエにはまだ見せたことがなかったな。我は我を守ろうとする力が強い故に魔法に掛かりにくい。それをこの指輪で魔力の流れを止めている。それによって一時的に魔法に掛かりやすい状態にして、自身に幻術をかけている。こうして幻術のことを明かせば、分かるようになるはずだ」
「幻術?……あれ、肉球がある!」
クロードに言われてクロードの手のひらを触ってみると、明らかに人の手であるのにそこにはふにふにと肉球があって香枝は目を丸くしてそれを見た。見た目は香枝の手と大差ない、大きな男の人の手にしか見えない。それなのにそこにはないはずの肉球の感触が確かにあるのだ。
「相手の視覚と触感を歪めるだけで、我の姿は変えられんのだ。……残念ながらな」
「いいえ、良かったです。クロードがクロードのままで安心しました。クロードの鬣が消えてしまったら私泣くだけじゃ済みません。それに何だかクロードがクロードじゃなくなったみたいで、正直少し寂しくて」
よく触ってみれば、肉球の感触だけでなく肌の部分には毛の感触がちゃんとある。正直、このままの姿のクロードは見慣れなくて落ち着かない。それ以上にふわふわな毛並みのクロードに二度と会えなかったらと考えただけでこの世の終わりのような気すらする。先ほどまでのあんなにも寂しかったほ気持ちはもう初めからなかったかのように消えてしまっている。香枝がほっと胸を撫で下ろしながら言うと、クロードはふわりと笑って香枝の頭の天辺に唇を落とした。
「それで様子がおかしかったのか。すまない。……やはり、カエは我にとって唯一無二だな」
「クロード……」
「――さて、お二人さん。お茶が入ったよ。もうこのばあやが入っても大丈夫かね?」
そこにアリーが咳払いをしながらソファの横に立っている。香枝は顔を真っ赤に染めて慌てて立ち上がりアリーの傍に寄ろうとしたが、クロードがし香枝の腰にしっかりと回していた手によって阻まれてしまい立ち上がろうとした反動そのままにソファに落ちた。
「アリーさん!あ、ええと、すみません!お手伝いもせずに座ったままで」
「いーや、別にいいんだよ。坊ちゃんが離す気はないみたいだしねぇ。それにあたしも婆さんとは言え、まだまだ元気だから大丈夫だよ」
アリーはそう言って楽しげににやりと笑うと、香枝たちの前にティーカップを並べ自身もティーカップを取ってお茶を啜っているのであった。
アリーにからかわれながらのティータイムを終えて、香枝はクロードと一緒に王城に向かう馬車に乗っていた。香枝はくつくつと笑いながらアリーのことを思い出す。明るくて朗らかでとても楽しい人だった。
「とても楽しい方ですね。アリーさん」
「まぁな。あれだけ陽気でもなければ乳母は務まらなかったんだろう。王族の傍系の中でも外れの、庶民と大して暮らしの変わらない名前だけの王族だったからな。おかげで産んだ女は欲の強い女になった」
「なった?」
クロードが何でもない顔で淡々と話し始めたのは自らの出生についてだ。香枝はそれをただじっと黙って聞いた。
「当代の王が亡くなれば、王の血筋に時代の王が生まれる。しかしそれにも実は生まれやすい血統があるのだ。我の生家は生まれる可能性がほとんどないくらいに限り無く王の血が薄い家だ。そして物心が付く頃に金と引き換えに城に引き取られた。それに唯一着いてきてくれたのがアリーだった」
前にも聞いたことのある話だ。当代の王の子どもが次代の王となるとは限らないと。王の血が少しでも入っている血筋であれば、そこにも生まれる可能性はあるという話だった。だがそれにも血の濃い、薄いがあるらしい。クロードのように血が薄くても生まれることはあるが、それも可能性としてはかなり低いこと。本来であれば血の濃い場所に生まれやすいのだと言う。
「そもそも、この姿で産まれて母には抱き上げられたこともない。世話を焼いてくれたのはアリーだけだ。まぁ、こんな姿で生まれてきた赤子が恐ろしかったのだろうよ。自分は獣を産んでしまったのか、とな」
「そんな……」
クロードが何でもないように語る話に香枝は言葉を失くしていた。確かにクロードはこちらの人ともまた違う容姿のように思えるが、香枝にとっては唯一無二の愛しい男だ。見た目がまるで獅子のようであろうとも、それが香枝にとってのクロードその人なのだ。
「そう泣きそうな顔をしないでくれ。我は平気だから案ずるな」
「アリーさんが居てくれて良かった。クロードがお一人じゃなくて本当に良かったです」
香枝は泣きそうな顔で精一杯笑ってクロードを見る。だが、その瞳の端からは今にも雫が落ちてしまいそうだ。クロードは困ったように笑って、その広い胸に香枝を抱える。
「今はカエもいる。真に僥倖なことよ」
優しく香枝の背を撫でながら言うその声色はどこまでも優しく甘い。
ゆびわ【指輪、指環】
手や足の指に装着する、環状の装飾品のこと。他にも指嵌めなどとも言う。
純粋に装飾品としてだけでなく、はめる指によって効果は異なる。
特に右と左で意味が異なり、魔力の循環は右から左に流れていくので右の小指に付けると魔力を止めて弱める効果がある。
魔力が多く上手く扱いきれない幼少の子供などの魔力を抑えるのに特に効果的である。
――クロスゼン医学辞典P.127より出典。