03 獅子王の支度係と王さまの婚約者
「そこの侍女、止まりなさい」
「はい?」
突然呼び止められた声に振り返り、声の発せられた方を見れば一人の貴族と思われる女性が立っていた。香枝は何の用だろうと思いながら、彼女と目を合わせないように顔を俯かせて屈む。
「顔を上げなさい。――丸い耳に、黒い髪、美しい毛皮も持たず、髭も無い……貴女がクロエね?」
顔を俯かせていた香枝の顎を持ってた閉じた扇子の先で上げさせる。自ずと目が合ってしまうことになった彼女は、やはりこの国の貴族で間違いないらしい。頭部より下は香枝とほとんど変わらないが、魔力の強い証に顔のほとんどは豹の頭部に瓜二つだ。金色のウェーブがかかった髪を片方に緩やかに流して、首元には大きな赤い石の付いたネックレスをしている。強い肉食獣である姿こそが貴族の証とも言い換えられるので、豹である彼女は貴族で間違いないだろう。
だが、彼女の顔は間違いなく初めて見る顔だった。普段クロードの身の回りの支度しかしていない香枝は貴族に目を付けられるようなことをしたはずはないだろう。そもそもクロード以外の前にはほとんど姿を見せないのだから。
「はい。私がクロエですが――」
どの様なご用件でしょうか、と言い掛けた声はクロエの頬を張り叩く音によって途中で止められることとなった。
「――頬を叩かれると結構腫れるんだねぇ。見て、口これだけしか開かないの」
頬に冷シップを貼り付け、指二本分も開かない口を指差してジルを見るも、彼は苦々しい顔で見るだけだ。
「笑ってる場合か?全く、それ痛くないのか?」
「痛いよ。だけど、正直驚きすぎて笑えてくるみたいな感じ?……っ、痛っ」
香枝はそう言って開かない口で小さく笑ったが、笑ったことによってまた頬が引き攣って痛い。それでもそれすら今の香枝には笑えるのだ。別に楽しくも可笑しくもないのだが、ここまで意味の分からないことが起こると笑えるのだということが分かった。
「……で、相手は誰だったんだ?」
「んー?初めて見た人だったから名前は分からない」
ジルの言葉を聞いて、思い返してみてもさっぱり心当たりが無かった。いくら獣人ばかりのこの世界とは言え、豹のタイプの人は初めてだ。それに女性であんなに魔力が強い人を見たのも初めてだった。だから、仮に今までその姿を見ていたとしたら忘れるはずがない。
香枝が出会う身分の高い人はほとんどが男性だ。それはクロードの周りの人にしか会わないということが理由で、つまりはクロードの周りにいる女性は侍従と親族だけなのだ。
「はぁ?初めて見たヤツに殴られたのか?クロエが知らずに何かしでかしたとかはないのか?心当たりは?」
ジルは呆れた顔で香枝に向かって質問を重ねる。その質問を受けて、香枝自身も心の中で自問自答してみるがやはり分からない。王宮内で生活しているとは言え、香枝が面識があるのはクロードの部屋の清掃担当、厨房の料理人たち、そしてジルとニーナ、宰相のテオドール、そしてクロードである。
「それがさっぱり。私の交友関係がかなり狭いのはジルもよく知ってるでしょ?」
「それじゃあ、相手はどんな容姿だったんだ?」
「頭は豹の姿をしていて、ウェーブかかった金髪の綺麗な人。これは参考になるか分からないけど、花の形の赤い石の付いたネックレスをしてたよ」
「……あー、それはまた厄介な……」
香枝がさきほどの女性を思い浮かべながら特徴を述べていると、ジルは一際大きなため息を吐いて遠くを見た。
「何?ジルの知ってる人?」
「知ってるも何も……」
「歯切れが悪いけど、誰?言い難い人?」
ジルの言葉は歯切れが悪い。ひたすら言い難そうに口元を開閉させて目線も彷徨わせている。
「……者」
「え?」
「王の婚約者候補だった人だ。豹と言えばオードラン家。それに赤い石の花のネックレスはオードラン家の令嬢が代々身に付けるお守りだからな」
そしてようやくジルが言葉にしたのは、香枝の想像もしていない言葉だった。その言葉は香枝に衝撃を与えるには十分すぎる言葉だった。
だが、ジルが教えてくれたおかげですとんとすぐに納得することができた。確かに婚約者候補からしてみれば、ぽっと出てきた香枝は憎いことだろうと思ったからだ。
この国の王制は世襲制ではない。そのため、香枝のような身分のない人間であっても法律上は王との婚姻が可能だ。だが、世襲制でなくても次の王が生まれる可能性が高いのは王の血筋であることは間違いない。獅子の遺伝子を持っていなければ、獅子の血を持つ子は生まれないからだ。だから仮に次代の王の生母となれなくても、当代の王の伴侶になるメリットは大いにあるのである。次代の王が産めずとも、自分の孫やひ孫が王になる可能性が高い。その時までに自分の生家の家名が残っていれば良いのだ。
「……私……」
「――カエ!怪我は!?」
呆然としていた香枝に飛び込んで来たのはクロードの声だった。資材室の扉を壊すほど大きな音を立てて部屋に入って来たのは、どう見てもこの部屋に似つかわしくない姿。この国を統べる王だった。
クロードは鬣を靡かせ、焦っているかのような顔はいつもの堂々とした姿からは想像もつかない。
「……クロード様、何故こちらに?執務はどうなされたのですか?」
「今は政務など良い!カエが怪我をしたと聞いた。……頬をどうした!ああ、可哀そうに。そんなに腫らして痛いだろう?」
クロードはそのままの勢いで香枝の傍に寄ると、そっと香枝の頬に恐々と手を伸ばす。震える手は僅かに香枝の頬に当たるが、不思議とぽかぽかと温かくて決して痛くはない。恐らくクロードが魔法を使っているのだろうと思った。
「私のために魔法なんて大丈夫です。しばらくすれば治りますから」
「しかし、痛いのだろう?お前が辛いと我も辛いのだ」
クロードはそのまま香枝の頬に手を翳したまま、心配そうに香枝を見た。
「もう十分でございます。クロード様の魔法を必要としている人は他にもいます。私のことはお気になさらずに。お気持ちだけで嬉しいのですから――……!」
香枝は引き攣る頬で精一杯微笑んで、毛に覆われたクロードの手をそっと握った。クロードの手は人間の手と同じような形で五本の指がある。だが、人間のそれと違うのは獣のように金の毛に覆われていることと、鋭い爪があることだろう。この鋭い爪は己の意思によって出し入れ可能で今はチクリともしない。そして人間の手のひらに当たる部分には人間を堕落させる兵器肉球がある。
「カエ、我の肉球が好きなのは分かるが、顔と言葉が一致していないぞ」
「……うう、すみません……」
呆れたようにはぁとため息を吐いたクロードに香枝は恥ずかしさで顔を赤に染めて謝った。香枝はこの肉球の触り心地が好きで、クロードの手を触るとついついそれを触ってしまうのだ。
「まぁ、それは良いのだ。……それで、この頬はどうした?」
「滑って転んでぶつけました」
香枝は意識してクロードの瞳を見て言った。嘘を吐く時は視線を合わせにくい、それは後ろめたい気持ちがあるからだ。今の香枝もそれに間違いなかったが、クロードに迷惑をかけることはもっと嫌だった。
「それで?どこにぶつけたらあのような頬になるのだ?」
すっかり腫れが引いた香枝の頬に視線を遣りながら言うクロードの声は幼子に声を掛けるように優しい。
「そういえば、転んだ拍子に扉の取っ手に顔をぶつけたのです」
「……香枝」
「クロード、私の言うことが信じられないのですか?」
さらに問おうとするクロードに香枝は心持視線を下げて言った。そして二人きりの時にしか呼ばない、呼び捨てで名を呼ぶとクロードは小さくため息を吐いた。
「――卑怯だ、香枝。そんなに可愛い顔で言うなんて、これじゃあ問いただせないじゃないか」
「では、聞かないで下さい。私の言葉の通りですから」
「君が言いたくないなら聞かない。しかし、我が心配していること忘れないでもらいたい」
クロードは香枝の頬に再び手を添えて、香枝の瞳を見た。その顔は紛れも無く獅子であるのに、まるで心配という文字が書いてあるかのような表情だ。
「はい。……さぁ、クロード様はご政務にお戻りいただかなくては!私はこの通り、クロード様のおかげですっかり元の顔に戻りましたもの」
「しかし――」
にっこりと笑う香枝に対して、クロードはまだ心配そうな表情で香枝の様子を伺っている。
「いけません。テオドール様もお待ちでございますわ」
「そうです。陛下、そろそろご政務にお戻りいただかなくては!」
香枝の言葉に反応するようにして現れたのは宰相のテオドールだった。テオドールは扉を開けて、クロードの傍に詰め寄る。
「お前、なぜここに!」
「陛下がどちらに向かわれたかなんてこの城の者なら全て存じ上げておりますよ。クロエ殿のご様子も分かったことですし、そろそろご政務にお戻り下さいませ。北のティグリースで作物の不作で困窮しているとの窮状が届いております。それとティアーゼの泉の様子がおかしいとの報告も届いております」
テオドールはクロードの前でばさりと書類を広げて、概要をつらつらと読み上げる。
「まぁ、それは大変です。クロード様、私のことはもう大丈夫ですのでそちらにお力をお貸しいただけませんか?」
「……うむ、そうだな。では、参ろう。――カエ、また後ほど」
「はい。いってらっしゃいませ」
香枝は精一杯笑顔を作ってクロードの背中を見送った。クロードのおかげで傷は癒えたので、すっかり顔は元通りだ。クロードを見送った姿勢のまま、よしと小さく呟く。
「――さて、私も仕事に戻らなくちゃ」
「おいおい、今日くらい休んだらどうだ?」
「だってもう体はどこも悪くないし。あたしはクロード様の支度係だから」
そう、香枝は王の支度係だ。それが自分与えられた仕事で、今では誇りでもある。
確かに香枝は身分のない人間で、クロードとの出会いが無ければこうして王宮で働くこともなかっただろう。クロードはこの国の王で、香枝は彼に仕える支度係。それは変えられない事実で、香枝自身も大それた望みはない。今こうやってクロードの傍に居られることだけで幸せなのだ。
「――香枝、どうした?まだ頬が痛むか?」
「いいえ。最近鬣が以前にも増して艶が出てきたので、ついまじまじと見てしまいました」
その夜、いつものように鬣に櫛を通しながらながらクロードににこりと微笑む。
「そうか。うむ、我もそうだと思っておったのだ。良い鬣だろう?」
「ええ、とても。雄々しくていらっしゃいます」
ふわりと笑う香枝の手をクロードの手が掴んだ。クロードはその手をそっと自分の方へと引き寄せて、香枝を自身の膝の上に乗せた。クロードの体は大きく、がっしりとしていてまるで包み込まれるかのように安定している。先ほどまで丁寧に櫛を入れていた、豊かな鬣が香枝の顔に触れている。クロードは香枝を膝の上に乗せたまま、体を横抱きにして香枝をじっと見ている。
「あの、クロード様?」
「二人きりの時はクロードで良いと言ってあるだろう」
クロードは香枝の頬を優しく撫でる。その瞳はひたすら優しく、甘い。
「……あの、クロード。どうかなさいましたか?」
「滑って転んだとカエが言うならそれを問い詰めるつもりはない。香枝は賢いから、自分の言葉一つが人に与えてしまう影響をよく理解しているのだろう。それでも、我の愛しい者を傷付けられて、我が怒る気持ちも分かって欲しい。――お前の頬を打ったのはオードランの令嬢なのだろう?」
「……それは、その」
「カエ」
何て応えたら良いのかと視線を彷徨わせる香枝に、強い視線が絡む。
「……はい。確かに彼女の特徴を持った方だったと思います。でも、私はオードラン家の令嬢を存じ上げておりませんので、その方なのかは明言できません」
少し悩んだ後、香枝はそう答えることにした。ジルにはオードラン家の令嬢だと言われたが、香枝自身は彼女との面識はないのではっきりとした答えは言えない。
「そうか。分かった。――どちらにせよ、カエには一度説明せねばなるまいと思っていたところだ。ジルに聞いたのだろう?我とオードラン家の令嬢との間には確かに婚約の話が持ち上がっていた」
クロードはそう言って忌々しげに小さくため息を吐いた。
「そう、ですか……」
「だが、その話はもう無くなった。カエは堂々としておれば良いのだ」
「……私はクロードのものです。だからこそ、クロードのモノに手を上げたということがどのようなことなのかはよく理解できます」
「そうだな。オードラン家が王家に、国に歯向かったという捉え方もできるだろう」
彼女が手を上げたのは香枝だ。だが、現在の彼女は支度係として仕えているだけでなく、王の想い人という立場でもある。その彼女に手を上げるということは王家に仇をなしたと言われても過言ではないのだ。
「クロード様、どうか寛大な処置をお願い致します」
「……はぁ。お前の心は我だけにでなく、自分を傷付けた者にまで傾けられるのだな」
「いえ、違います。……私はそんなに出来た人ではございません」
「まぁ、良い。香枝の願いならそうしよう」
目を細めて優しく微笑むクロードに対して、香枝は複雑な笑顔を浮かべていた。
いつものようにクロードの支度を終えて、次の仕事に掛からなければいけない。とりあえず、クロードが着なかった服をクローゼットに仕舞い、飾りも片付ける。それが終わったら今度は夜のトリートメントに供えていくつかオイルを用意しなければならない。香枝は資材室に向かうために部屋を出て、廊下をしばらく歩いているといつかのように後ろから声を掛けられた。
「――クロエ、ですわね」
「貴女は……!」
その声に振り返り、声の主を見た途端に香枝の顔には驚きの表情が広がった。
「フローリア・オードランですわ。顔に傷は……残っていないようですわね」
「はい。王様が治してくださいましたので」
フローリアの視線は香枝の頬に刺さる。それを遮るように無意識に頬に手を添えると、フローリアは憎憎しげにそれを見た。
「貴女がお口添えしてくださったそうですわね。おかげでオードラン家はお咎めなしですわ。……本当に、あの方に愛されていらっしゃるのね」
「いえ、そんな……」
「自分を傷付けた者を庇うなんて、貴女って清廉潔白でいらっしゃるのね」
その口調は優しげなのに、フローリアの視線は香枝を蔑んでいる。
「――違います。私は私のためにクロード様が人を傷付けることを見たくなかっただけです。私の精神衛生のために行っただけで、貴女のためではありませんので」
「……なっ!」
フローリアは言葉を無くしたように表情を固めて、香枝を見た。
しかし、それは香枝の本心だった。いい子ぶりっ子をしてフローリアを庇ったわけではなく、ただ自分のために誰かがどうにかなる責任を負いたくなかっただけだ。幸いにも今回は事を知っているのはかなり限られた人で、すぐに血が出たわけでも傷が残ったわけでもなかった。だからこそ誤魔化すというよりも、無かったことにするのは容易いことだった。だが、それ以上に――。
「それに今回は叩かれただけで傷が残ったわけでもありませんし、私に手を上げた女性の顔と名前が一致していませんでしたから。……それに私みたいにぽっと出てきた女に好きな人を奪われた女性の気持ちを少しは分かるつもりです」
「……何なのよ、もう」
「だから、今回限りです。私がどんな立場であろうとも、私はあの方をお慕いしています。この気持ちは譲るつもりはありません」
「――もう、いいわ。……その、ごめんなさい。傷が残らなくて良かった」
フローリアはふっと表情を緩めて、思わずと言った調子で小さく笑った。そして少しだけ俯いて申し訳無さそうに謝った。
今回は幸いにも無かったことにすることができたが、次はないだろう。王の権威にも関わるし、今回無かったことにしたこともかなり無理を言った形なのだ。それ以上に、自分も王の想いを受け止めると決めたからには彼の気持ちをないがしろにするつもりはない。だからこそ、彼女の暴挙を許すことはできないと思う。
「フローリア様」
「これで失礼するわ。仕事中に引き止めて悪かったわね」
フローリアはそう言うとバツの悪そうな顔をして、くるりと踵を返して歩いていった。その背筋はピンと伸ばして自信が姿に表れているようだった。
香枝には魔力はないし、この世界に住む人よりも優れていると思える部分は正直かなり少ない。容姿だってこちらの女性とはかなり違うので、美醜の観念もかなり違うはずだ。それでも香枝がクロードを慕う気持ちは間違いなく本物で、誰にも譲れる想いではなかった。
「――さて、仕事に戻らなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟いて、香枝は次の仕事に取り掛かるために廊下を急ぐ。王の身の回りの世話を一手に引き受けているので、実は結構忙しいのだ。