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<丙のケース>
丙はごく普通の人間だと自分を評価していた。
16歳にして彼女はいたことはなく、中肉中背、身長は171センチ、体重は61キログラム。視力は両目とも1.0、特に体に不自由はない。両親ともに働くごく普通の一般家庭に生まれ、公立高校に通っている。運動はそこそこ、サッカーは得意だが、水泳は全くできない。数学と語学は得意だけれども、歴史学は苦手。だからといってオリンピックにでれるほど頭もよくはないし、落第する程できないわけでもない。所属しているサッカー部では、レギュラーとベンチ外を行ったり来たり。
母親が去年から始めたハイキング、高尾山などの山々に登ったりした。特に大きな山でもなく、ただそれでも登り終えたとき、まぁ舗装された道を歩いただけだが。それでも、すごく達成感があった。丙はそれに魅了され、よく母親と一緒に山登りをした。去年の夏には男体山を。生まれて初めてしかりとした山に登り、随分と体に来たものだが、それも頂上からの眺めに一瞬で癒された。
そんな彼はこの夏、家族で新潟県の志賀高原にハイキングに来ていた。ノストラダムスの予言も外れてから13年あまり、結局マヤの予言さえもなんともない。ジョン・タイターの予言は当たらないし、巷にはまたふざけた預言者が現れるであろう頃。
彼は志賀の山々のハイキングを楽しんでいた。流石に、父親と妹が来ている以上、山登りをするわけにはいかない。ホテルに泊まり、簡単なトレッキングをして、帰ってくる。そんなことをしていた。志賀の山々は冬場スキー場になる、そのゲレンデを歩く。なんと美しいことか。人間の手が加わっていても、それでも尚美しさを残すこの山が丙に好感を持たせた。
トレッキングの何が好きか。まず体を動かせることが好きだ。山登りは全身の筋肉を使う。舗装された道だけならば、散歩の要領で歩けばいいものだが、山はそうはいかない。ごろごろとした岩が転がっていたり、大きな根っこを避けて歩いたり。倒木を跨いだりすることもあるし、手で木々をどけるときもある。足だけではない、腕や、背や、体中の様々な場所を使うことが非常に気持ちがいい。
次に自然に同化できることがいい。あのビルの乱立した無機質な場所、丙はそれを嫌悪した。ビルの窓ガラスに反射する太陽光のように、人間の嫌な感情が乱反射されたようですごく嫌いだった。時間に追い立てられ、効率を求め、列に嵌り、そして出る杭は打たれる、そんな都会が嫌いだった。自然にも確かにルールはある、ただそれは都会のような無理矢理なものではない。そんな中でゆったりと、そして自分の好きなことを考えながら活動できる。
最後に、自分の限界を見ることができるのがいい。山に登り、自然に触れると何かわかることがある。この自然の中での自分の立ち位置。自分は生態系の頂点だと傲り高ぶる常日頃の人々がどれだけちっぽけな存在たりえるのかをまざまざと見せつけてくる。
丙は今日も山に登る。明日には帰る、妹は少しうれしそうだ。彼女は自然の美しさを無視する程間抜けではないようだが、それがどれだけ素晴らしい物なのかを理解しようとはしないらしい。勿体無いことだと思う、ただ、それもそれでいいだろう。もしかしたら、自分のほうが間抜けなのかもしれないのだから。母親は山が好き、しかしもう体力的にしっかりとした山は辛そうに見える。父親もそう。だから、この程度が一番いいのかもしれない。
ジャイアントスキー場、冬はそう呼ばれるこのゲレンデを登る。視界の右端にはリフトが立ち並んでいて。確かこの奥からほかのゲレンデにも行けたはず、名前を何と言ったか。ゲレンデの跡地は歩くのに適している。足元は草原となり、視界も確保されている。足を引っかける様な木の音はないし、なによりも風が気持ちいい。山の中、木々をかき分け、しっかりと登ることは大好きだが、家族とこうやって軽く登るのも嫌いではない。もしかしたら、此方のほうが好きかもしれない。そう思うほど自分の足取りは軽かった。
頂上、リフトの降り場の横で昼食を。簡単な弁当、ビニールシートの上に座って食べる。午後はどうしようか、父親と妹は降りて散策をするらしい。母親はこのまま横になり、夏の柔らかな日差しの中ゆっくりと読書をするそうだ。それもいいのかもしれない、そう思い母親と共に過ごすことを決めた。
母親から本を借りる。
ビニールシートに横になり、日傘でできた日陰の下で本を読む。時折感じるそよ風が心地よい。喉を緑茶で潤しつつも、1時間ほどで1冊読み終える。
伸びを1回、大きく深呼吸をし、空気を全身に取り込む。明日にはコンクリートジャングルへ、恐らくしばらくはこの空気は吸えないことだろう。もう1度大きく深呼吸を。全身にこの澄み渡った空気を行きわたらせ、そして汚れた空気を排出したい。
ふと足元に目が行く。小さな花、一体何という名前だろうか。一眼レフを借り受け、写真を1枚。日差しを浴びて燦々と輝くその花に、これからの気力を貰ったような気がした。
あの都会の中でも生きていける、そんな気がした。




