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その後、1ヵ月は矢の如く。かなり宿の生活にも慣れてきて、もう既に先輩がいなくても仕事はこなせる。先輩たちとは日にちごとに分担して買い出し、採集などの様々な作業を行い、働いては眠る、働いては眠る、繰り返し。給金は1週毎、故にもうすでに手元には4週間分の給金がたまっていて、週給銀貨3枚と大銅貨50枚。そのうち、初めての給料はもう、病院に。受け取ることを固辞していたレーヌ、でも、俺は彼女の厚意に報いたい、故に説得を続け。最終的には、その光景を見て察した医者が彼女を説得してくれた。その後も、週に1度はレーヌのもとへ。口では、忙しいんだから無理をしないで、など様々なことをいってくるが、顔を見れば喜んでいるのがわかる。それを見ると、俺は体の疲労がなくなる気がして。2か月ほど、ただそれだけの関係だが、本当の姉弟のように。あくまで俺が勝手に思っているだけだが。
そんな日々を、繰り返すだけ。でもそんな毎日が楽しい。記憶は未だ戻る気配もないが、別に戻らなくていいのでは?と思うまでになってきた。前の俺がどんな人生を送っていたかはわからないが、今を生きている、それが俺にとっては申し分のない日々のように思えて。
ただ、この胸の奥に未だ残っている、何かを求めるような、飢餓感。ほのかに、時折何かが欲しくなる、何かはわからないが。何か俺を構成するうえで、何か、何か大切なものが忘れ去られているような。記憶を失う前の大切なものだろうか、故郷にでも、いやどこかに伴侶が居たのだろうか、それとも自分を待つ友がいるのか。答えは依然闇の中。
そんな、自分とは裏腹に都市は悪化の一歩をたどっていて。2月しかいない自分がいうのだ、わかりやすい変化というものだろう。色々、話を聞いてみると、領主は高名な貴族らしく、故に自己顕示欲、いや全ての欲望が強いらしい。財を欲し、女を欲し、娯楽を欲す。重税にあえぎ、ついには怒りをあらわにした1人の市民が立ち上がったのはつい先日、1週間も前ではない。彼は、領主に直談判をする、そう吐き捨て城に向かい、生きて戻ってくることはなかった。2日後、安否を心配する家族の下に届いたのは、苦痛と、悔恨に顔をゆがませる彼の頭で。家族は泣き叫ぶまもなく反逆罪で逮捕。彼の家族がどうなったのか、しらないが、彼の妹は領主のいい玩具になっているという話、彼女の悲痛な叫び声が夜城から時折聞こえてくるらしい。
そんな残虐な領主に対し、わが身大事な市民は何も行動を起こせずに。水面下では反抗心が高まっているとも、裏通りにすむ乞食達が声をかわしていた。乞食なんて半年、いや1年前まではいなかったらしい。それなのになぜ、それだけ治安が悪化しているということ。客足や通行量はあまり変わっていないように見受けられるが、それも時間の問題だろうか。確実に治安が悪化している都市、市民の活気がない都市、死んだ都市、灰色の都市。灰色、この都市には灰色があふれている。裏通りに住む鼠の色、市民の心に広がる雲の色、清掃する暇もないため汚れた市民の家の床、領主の城から帰ってきた彼の顔の色。そんな都市に人々はいつまでも来るのだろうか、壊れ、歯が合わなくなった歯車、崩壊と荒廃の足音はもう都市のすぐそこまで。
そんな中、丁度この宿屋で働き始めてから1か月と1日。俺はいつも通りの時間に、夜明け前、起きだす。水を浴び、体を清める。そして、服を洗濯する。最初は手間取っていたこの作業も、今では楽々と、もともとレーヌから習った技術だが。そういえば、彼女たちの立場もだんだん変わってきているという。この都市の市民のよりどころは、教会と病院だけ。大陸全土に勢力を伸ばすオルケー教の教会、そして命を司る、決して捨て去ることのできない病院、アジール的な空間。流石の領主も手を出せないらしく、市民たちは何かと頼るようになってきていて、領主は快く思っていないそう。
食事の準備をして、自分たちの食事をとる。そして、手早く片付け、宿泊客の食事の世話を。今日宿泊しているのは25人、ほぼ満員、今までの中でもトップクラスに多い日だろう。行商人の1団が宿泊しているから。故に金払いも良く、宿屋としては嬉しい限り。彼らの世話をして、ちゃっちゃと片付ける。今日は俺が買い出しの日。奥さんに買うもののリストをもらい、先輩に後を任せ出かける。
買うものは、今日の夕食と、明日の朝の食材の買い出し。卵、青菜、兎肉、様々な種類、結構な量。できるだけ安く済ませてこいというのだから、無茶すぎだろう。そのために、俺らは結構な数の店を回り、市場を回る必要がある。故に、午前中いっぱいはかかってしまうほど。
それを終わらせ、宿屋に戻る。午後の予定は、昨日に引き続きない、故に今日は、全く使っていなかった給金を使って、何かを買おうと思う。一体何がいいだろうか、市場で見て決めるのでもいいかもしれない。歩き出す、決して無駄にはできない時間、無限にあるわけではない。
市場は、都市の外にある。税金がかからない場所、市民の小さな抵抗、領主は気にも留めていない。今はまだ金がるのだろう、市民から巻き上げた金が、それを使って豪遊している間はそれが見咎められることもないだろう。そんな市場を歩く、様々なものが並び、ここは数少ない活気がある場所。市民たちは、この瞬間だけ生き生きと商売をしていて。
色々、見て回る。一応、俺は今回自分のものを買おうとしていた。私物なんてものは、ない。全くと言っていいほど。服はあるが、レーヌからもらった数着、今は亡きルート、その私物。だから、今日は、完全な自分の私物を購入しようと。ただ、服は今あるので必要はないだろう。そして、アクセサリー、これらは高価かつ豚に真珠。そうなってくると、買うとしたら、日常雑貨か。たとえば、裁縫道具を買えば服の補修はすぐできるだろうし、ナイフを買えば都市の外にいったとき、他にも様々な場面で使えるだろう。ランタンを買えば夜の活動は楽になるだろうし、蝋燭でも構わない。もしくは、趣味のもの。毛糸玉と棒針を買えば、何か手織物を作れるだろう。筆記具とノートを買って日記を書くのでもいい。金の使い道は様々、そこまで金があるわけでもないが。
市場の価格は、相場より少し安い程度。相場、市民が普通に使うものは非常に安い、ただ冒険者や貴族が使うものだと、一気に高くなる、当然だろう、貴族が使うものは希少価値が高い物ばかりだから。冒険者に関しては、性能の良い物は高い、ということと、足元を見られているという点があるだろうか。金稼ぎがいいんだから、当然払えるよね、というわけ。
悩むこと30分、毛糸玉と棒針を購入する。毛糸玉は、様々な色を10玉ほど、棒針は折れることを考慮して2セット。レーヌの為に、マフラーを。編み方は購入するときになんとなく教わった、もともとレーヌからしっかりと習っているので平気だろう。
喜んでくれるといいが。
購入した物を持って、宿屋に帰る。2時の鐘が鳴る、きっと、帰って少しは織れるだろう。はてさて、どのくらいでできるかはわからないが、これから寒くなるらしい、できれば手袋も作成したいものだ。




