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何時間歩いたことだろうか。時間間隔などとうに麻痺し、記憶も定かでない。ただただ、目の前を歩く妖精の背を追い続ける。
日は既に落ち、森を暗がりが支配する。右手に枝を持ち、その先には小さな篝火。いや、火というよりも、木炭の出来損ない。白く、ところどころ赤く。煙が天に向かって消えていく。だんだんと手元に向かっていって、そのたびに枝を折って代わりを作る。
月の光が森を薄暗く照らし、枝も少しばかり周りを明るくする。足元は覚束ない、暗がりでよく見えない。それでも、前に進む。
「シェム、まだか?」
ゆらゆらと漂うそれに問いかければ、焦げた臭いが返ってくる。手元の枝か、いや、違う。これも苦いが、漂ってきた臭いはまた別の苦さだ。
「臭うな、山火事か?」
少し喉が掠れてきている。じんわりとかいた汗が擦り傷に沁みる。水を摂取していない、ただただ流れていくばかり。喉から血の味が漂ってきて、ああ、痛い。咳払いをして、唾を吐き捨てる。赤くなっているだろうか、見えないけれど。
空を見上げてよくよく見れば、遠くの空が明るい。いや、さほど遠くはないか。進行方向の空が燃えている。木々の間から盗み見る形になっているから、遥か彼方ではない。
何かの遠吠えが聞こえる。聞いたことのある鳴き声。嗚呼、我が狼のものだ。
「何を意味しているんだ?」
白い人形はこちらを向いて、近づいてくる。枝葉をかき分けていた左手を掴んで、引っ張ろうとする。足が少しもつれて、なんとか踏みとどまる。まるで自分を急かしているようだ。
「どうした?なにか、何かあったのか?」
そう告げ、手ごろな枝を折る。手元まで燃えた枝を地面に放り、靴で踏みつける。ざりざり、そんな音が耳に届く。
左手で持った枝に火をつける。ちりちりと輝く魔法の火は、弱った自分を揶揄するかのような強さでしかない。それが丁度良い。ごうごうと燃え盛っては、枝なんてすぐに消し炭になること間違いない。
そうして右手に持ち変えれば、それを待っていたかのように妖精は左手を掴む。急いで、急いで、そんな仕草で。
そこまでされれば、何かあったのだと勘付ける。何も無しに弱った自分を急かすような彼女ではないのだから。あゝ、そこで思い至る。前方には何があるのか、何があるはずなのか。そして、自分はなぜ怪我だらけになったのか。何から逃げたのか。それはどこにいるのか。何が燃えているのか。
焦りが心を支配する。
「村か、村か」
半ば叫ぶようにして妖精に問いかける。視界は曇り、狭まり、彼女しか見えない。いや、彼女を通して、彼女を幻視している。もつれ、萎えていた足に力が入る。
思い切り咳払いをする。喉に絡んだ何かを吐き捨てて、それと同時に迷いも吐き捨てる。心を占めるのは、不安と恐怖、そして焦燥。頭をあげて、枝を強く握る。強く、強く。明かりが左右に揺れる、震える右手に同意するように。
何かが心を覆っていく。痛みと冷静さを押しつぶすように。行かなくては、急いでたどり着かなくては。予想よりも予感に近い絶望が、ひたひたと自分を追ってくる。
先までの痛みはどこへ、いつの間にか小走りになっていた。何も感じず、体を力が支配している。目の前には金髪を揺らす彼女。そうして、前に前に踏み出す足が、木に絡みつく。
思い切り前に転がり、顔を地面に強か打ち付ける。力が抜けて、痛みが走る。両手で起き上がり、前へ進もうとして三歩、また地面を転がる。起き上がるたびに足は震え、腰が痛くなってくる。頭がくらくらとして、目を閉じると世界が赤黒く染まる。
喉に何かが絡まる。自分は、先ほど何を思ったのか。急に怖気が走り、そのまま胃液を吐く。胃液、おそらくは胃液だろう。ただ、喉から漏れる声と胃の痙攣をよそに、出てくるのはグラス一杯にも満たない液体。視界がさらに狭まる。
顔を上げ、掠れた声で紡ぐ。
<中級闇属性モンスター召喚>
黒い煙が地面から沸き立ち、そうして出てくるのは狼。黒い毛並にとがった顎。大きさは、自分の腰まで。近づき、手をかけ、それに跨る。
行け、行け、そう声をかけるまでもなくそれは地面を蹴る。右手を前にだし、左手でそれの首を抱くように。できるだけ姿勢を低くして、紡ぎ続ける。
<中級闇属性モンスター召喚><中級闇属性モンスター召喚><中級闇属性モンスター召喚>……
何度唱えたのだろうか。枝葉をかき分けるような音と、地面を蹴る音、それが背後にいくつも続いている。いつの間にか数えられなくなっていて、喉が痛んで声が出ない。それでも、必死に声を絞り出す。先導する妖精を見つめて、周りに浮かぶ骸骨たちを視界に入れて。
だんだんと臭いがひどくなっていく。焦げた臭いが獣と土と血の臭いに混ざっていて、それが強くなってきている。枝葉の隙間から除く空は明るく、あかく、まるで明け方の如く。
間に合え、間に合え、念じ続ける。金の髪をたなびかせて回る彼女の姿を視る。こちらに笑い、手を差し伸べる彼女を視る。腹を優しくなでる彼女を視る。
がちゃり、がちゃり、鎧が、剣が音を立てる。体を揺らして、枝葉をかき分けて進んでいく。疲れを見せぬ狼に揺られ、山火事のもとへと近づいていく。
火の臭い、黒く焦げた何かの臭い。この世界に迷い込んだ次の日を思い出すような臭い。村を燃やしたあの光景が思い浮かんでくる。死体が、村で倒れていた死体が瞼の裏に浮かぶ。そしてその姿が金髪の彼女に重なる。やめろ、やめろ、そう思っても幻視は終わらない。
目頭が熱くなってくる。枝葉をかき分けていた右手は血にそまり、松明は既に折れている。それを投げ捨て、両腕で狼の首を強く抱く。
「急げ、急げ」
その言葉に呼応するように狼は地面を蹴る。速度を上げたような気がするが、先導する妖精との距離は縮まらない。
景色が明るくなってくる。臭いが濃く、目が少し痛い。煙が沁みているのか、それとも疲れか。火元は近い。村は近い。
森が途切れる。村の表側、そこにたどり着く。自分たちがこの村にやってきたときにとおってきた街道にたどり着いたのだ。村まではあとほんの少し。徒歩で一分もかからない。
ただ、ここが村の前だと認識したくない。
「なんで……これは……」
村は村の態をなしていなかった。ごうごうと燃え上がる火、家々は燃えている。燃えていない家は崩れている。煙が空に舞い上がり、まるで昼間のように明るい。いろいろなものが地面に散乱しているのが見える。人か、木材か、石か。それすらもわからない、わかりたくない。酷い臭い、思わず手を鼻にあてて、無意味さに口角が上がる。
現実味のない光景。咆哮が轟く。死を感じた筈のそれですら、自分の心を揺らすには力不足。
「ああ……酷い……」
この世の地獄。村の中央には何かが建っている。家よりよりも大きな姿。あの化け物。死の気配。
「トリスは、彼女は……」
口が動き、声が出る。それが自分のものだということすら理解するのが遅れる。そんな光景が広がっている。
狼はその光景に驚いたようで、それでも前に進む。自分の後ろにいる軍団も進んでいく。
ふつふつと湧き上がる感情が自分の視界を奪っていく。自分は、俺は、何をすればいい。
「殺せ」
「あいつを、殺せ」
漏れ出た呟きに右手が腰から剣を抜き放つ。狼から降りて、近づいていく。叫び声をあげて空を噛む化け物を正面に、足を引きずり歩いていく。
彼女の姿は見えない。それどころか、誰もいない。ぱちりぱちりと木々が燃える音がする。何かが崩れる音がする。化け物の咀嚼音が聞こえる。
村に近づいて、落ちているものを見る。黒焦げになったそれ、細い棒、それが人間の足に視える。真横で家が倒壊する。化け物は地面に落ちた何かを食い漁っている。こちらに気が付いていないのか、それとも余裕か。
村、大事な村。自分たちを受け入れてくれて、愛おしい日々を送ってきた村。それが死んでいる。村人の生死はわからないが、それでも村が死んでいることはわかる。大事なものが土足で踏み潰されたことはわかる。
彼女は無事か、それとも死んだか。食われたか、子供は。冷静になった自分がいて、妖精が肩に乗る。
あいつを殺さなければ、殺さなければ未来はない。
そう感じて、逃げるという選択肢を捨てる。彼女がどこかにいるかもしれない。倒れた家屋の下敷きか、逃げ切ったか。
化け物がこちらを見る。目線があい、にやりと笑う。
「殺せ、あいつを殺せ、盾になれ、食い殺せ」
こちらを観察する化け物に対して、群に命令を下す。狼の群れ、骸骨の群れがそれに応じて自分の横を走り抜けてく。
ふらつく足に力が籠る。右手に握る剣が震える。ぱちりぱちりと音が聞こえるが、それ以外には何も聞こえない。
化け物はこちらを見て、口を開いておぞましい声を上げる。獲物と認識したのか、それとも餌と認識したのか。俺の命がなくなってでも、あいつを殺す。
口が魔法を紡ぐ。ただ、掲げた左手からは何も出てこない。家がまた一つ崩れる。火の粉が目の前に散って、それでもにらみ続ける。
狼たちは化け物に走って行って、それに食らいつこうと飛ぶ。化け物が右手を一振り、数匹が吹き飛ぶ。嫌な音がする、骨が折れたか、死んだか。それでも犠牲のもとに何匹もが食らいつく。足を、尾を、肩を。それを振り払い、噛み千切り、踏み潰す化け物。何匹もの絶叫が聞こえる。
狼の鎧を着こんで二回り大きくなった化け物に大量の魔法が殺到する。骸骨妖精たちの魔法。黄色の煙が化け物を覆う様に噴霧されていく。ただ、それすらも腕の一振りで風へと消えていく。
狼に近づいてく。遅ればせながらも、奴の毛も見えるほどに。狼が大量に食らいつき、囲う。ちぎれ飛んできた頭を左手で振り払う。ごきりと嫌な音が鳴る。
化け物に煙が聞いたのか、少し動きが重くなる。それでも奴は殺し続ける。骸骨妖精を地面にたたきつけ、骨を砕く。一振りで数体、それでも囲うのは百近く。まだまだ、あいつを殺せる。
腕の届かないところに立つ。近づくには危険すぎる。一振りで確実に殺される。化け物は狼によって地面に縫い付けられている。咆哮が空を割き、炎が燃え盛る。
黒い魔法が化け物の頭を揺さぶり、それを放った骸骨が粉々に砕かれる。狼を右手でつかみはがす。皮膚は食いちぎれたのだろうか、はがされたそこには毛皮はなく。自分に向かって投擲された死体は、他の狼が盾となり弾き飛ばす。剣を持つ右手が震える。魔法を幾度唱えても、何も生じない。
足が震える。痛みが、倦怠感が体を支配する。それをかみ砕き飲み込んで、走り近づいていく。
右手で腰を狙う。背丈は自分の二倍かそこら、もっとあるかもしれない。それすらも認識できないまま、雄叫びをあげて剣を叩き付ける。
狼が真横で数頭命を散らし、それと引き換えにして力任せに叩き付けた剣が化け物の脇腹を汚す。耳をつんざくような叫び声が聞こえ、振り下ろされた左手を転がってよける。地面が揺れ、狼がまた命を散らす。
地面を這うようにして離れ、躓いて転がる。叫び声はいまだ耳に響き、断末魔も聞こえる。白い妖精が脇腹に刺さったままの剣を抜き、拳をよけてこちらに運んでくる。避ける、いや違う。何匹もの犠牲で方向を変えただけ。
「これを、繰り返そう」
妖精はにこりと笑って、魔法を化け物に放つ。化け物は両手で右足についた邪魔者を引きちぎり、右足を前に出そうとする。すかさず両手に食らいついた狼がまた命を散らす。地面にたたきつけられたそれからは白いものが見える。
爪で背中をよじ登り、首筋にかみついた一体がいる。それを振り払おうとする化け物の隙をついて、また剣で切り付ける。ほうほうの態で逃げ出して、また犠牲をもとに切り付ける。
左腕が砕かれる。思い切り吹き飛ばされ、地面を転がっていく。苦痛の声が口からもれて、痛みが頭を支配する。避けられず、一振りを食らった結果。息が詰まり、思い切り咳こむ。
そうして何とか頭をあげれば、化け物が目の前にいて。慌てて地面を転がり、叩き付けられた拳をよける。左腕からぎちぎち、そんな音が響く。化け物の頭に魔法が当たり、その隙に転がったまま右足に剣を突き立てる。
指がちぎれ、化け物が吠える。転がるようにして逃げ回り、足元を切り付ける。血の雨が降り、狼たちの犠牲は無駄でなかったことを悟る。
地団太を踏むようにして足を振り下ろす化け物、それを必死に避ける。ただ、それでも避けること叶わずに蹴飛ばされる。
ふと気づくと、化け物からだいぶん離れた場所に転がっていた。狼の死体がクッション代わりになったらしく、脇腹が痛む程度。左腕の感覚はない。意識が飛んでいたのか、化け物は宙に浮かぶ生き残りを殺そうと腕を振っている。
残り数体の骸骨妖精が砕かれていって、地面に転がる狼の死体に混ざっていく。狼は既に全滅していて、仲間は宙に浮かぶ二匹の骸骨妖精と白い妖精だけ。
妖精が自分のもとに飛んできて、それと同時に骸骨妖精が命を散らす。右腕を支えになんとか立ち上がり、化け物を見る。
返り血に塗れ、こちらを見る化け物。目線が交差する。狼たちの犠牲の果て、向うも無傷ではない。脇腹は割かれ、足の指はちぎれ、尾は半ばから断ち切られている。何頭の死体を踏み潰し、ゆっくりと近づいてくる化け物。すでにこちらの札はきり終わり、おそらく勝利を確信しているのだろう。
死を悟る。右手に持つ剣は半ばで砕けている。拳と地面に挟まれてしまったためだった。先の衝撃で右足はいうことを聞かず、立っているのがやっと。勝ち目はない。
一歩一歩、音を立てて化け物が近づいてくる。それを見て、崩れた家を見て、燃えている家を見て、妖精を見る。
「すまないな……これで終わり、みたいだ」
近づいてくる死を見て、妖精に感謝を告げる。地に塗れ、傷に塗れ、泣き出しそうな顔、せめて彼女は逃げてほしい。
「逃げろ、逃げて、助けを……」
せき込む。血反吐を吐き捨て、彼女を逃がす。頷いて飛び去っていく彼女を視て、化け物に視線を戻す。
化け物はもうすぐそこに。口を大きく開き、唾液を垂らして笑う。すぐに殺さず、ゆっくりと死を見せつけてくれるらしい。
「死ね、呪ってやる、化け物が……一思いにかみ砕け」
血と唾液が混ざったものが言葉とともに飛び散る。剣を顔の前に掲げ、奴をにらむ。
思いが通じたのか、四足になる化け物。口を大きく開き、あざ笑うかのように唾液を飛ばす。
体は動かず、疲れ果て、痛みが頭を支配している。化け物の息が顔にかかる。あと20センチほどで顔につくほどまで顎は近づく。自分の頭くらいは一口で噛み千切れるだろう顎。歯は二重に並び、赤い舌が見える。血なまぐさい息。ここで死ぬのか、半ば意識が離れかける。右手を下ろす。諦め、悲しみ……
瞼を開いているのに、彼女の姿が見える。黒髪の子供を抱きかかえ、にこやかにほほ笑む彼女が見える。子供の手を掴み、こちらに手を振らせる彼女。金の髪と青い瞳がにおい立つような魅力を振りまいていて、愛おしい。
ああ……
そうして、化け物の歯が頭に届こうかという時、地面が揺れた。




