237
一歩一歩が重い。前に進もうと足を出すたびに、腿が、膝が、脹ら脛が、足首が、足先が痛む。地面に足の裏が触れるたびに、振動が頭を狂わせる。目の前を漂う妖精が、少しばかり霞むのは何故だろうか。睫にでも汚れがついているのか、涙で目が曇っているのか、そのどちらもか、それとも別の理由か。痛いのは脚だけではなくて、当然ながら全身が痛い。故に進む速度は牛歩の如く、目的地につくのはいつになることか。
「シェム、もう少し速度を落としてくれ。」
痛みに堪えかね妖精に告げる。振り返り、柔和な笑みを浮かべる妖精、これで何度目だろうか。歩くたびに頭が割れるように痛く、全身に走るいくつもの擦り傷は熱を発する。時間が経つことで、おさまった痛みはあった。その一方で、生じた痛みも大きかったのだ。とうに口で息をしはじめ、それどころか声も漏れ出ている。一際強い痛みを感じて頭を触れば、ぬるりと液体がつく。手を目の前にもっていき、その色を確認する。赤、心臓が跳ねる、何かは簡単にわかる、迷うまでもない。慌てて傷口があるだろう場所に手を当てれば、確かに痛む。口元が歪み、舌打ちが漏れる。大量出血とまではいかないものの、それでも手に付着するくらいは流れ出ている血液。精神が萎えていく、血を見たからか、痛みに磨耗しているのか。どちらにしろ、前進の邪魔にしかならないことだ。
右足をあげて、前に出す。重心を右足に移動して、左足をあげる。普段何の意識もせずに行っていたことに集中力をさかなければならない。それほどまでに消耗していて、地面を見ていなければ小石や木の根、小さな段差に躓いてしまう。一度倒れこんでは、なかなか起き上がることはできなくて。
「シェム、一旦、息をついて、いいか?」
声を出すのも億劫に感じる。喉を震わせることがなけなしの体力を奪い去っていくことのように錯覚する。いや、錯覚ではないだろう、それすらも、今の自分には大きな障害となりうるのだから。
妖精は頷き、自分は大樹の根本に腰を落とす。自分の肩幅ほどの太さの幹に背を預ける。そこまで高さはないものの、横に広い樹木か、上を向き、大きく息を吐き、そんなことを考える。手足がまるで鉄の棒のようだ。萎えきっていて、鉄柱との違いが見いだせない。少しは言うことを聞く分こちらの方がましか、いや、大してかわりはないだろう。どうせ木偶の坊、本当に自分のものなのか疑わしい。背にはごつごつとした幹を感じる。それに全体重を預けて、なければそのまま倒れこみ立ち上がることはなかっただろう。妹を祝福し、友を助けるために走り続けた青年の話を思い出す。いつ読んだのだろう、青年は疲れはて、精魂尽き果て諦めそうになったような記憶がある。こんこんと流れる湧水が青年を回復させたならば、何が自分を回復させるのだろう。この大木か、確かに体を預けていると気が楽になる。寄らば大樹の陰、意味は正しくないが、いや、本来の意味はこれだったのか。
しばらく休んでいると、うつらうつらと目蓋が重くなってくる。目を強く瞑り、そして押し開く。それを繰り返すことでなんとか睡魔を撃退していくも、何度も繰り返すうちに効力が失われていく。ああ、眠い。それは体が本当に疲労しているからだろう、こんなことを考えるのにもしばらくの時間を要してしまうくらいには眠い。シェムが目の前でふわふわと浮いている、こちらを見ている。
「眠い、眠い、シェム……」
大あくびをしながら右手を彼女のほうに伸ばす。許されるならば、このままぐっすりと寝てしまいたい。ただ、それは許されない。そんなことはとうにわかっている。ただ、しかし中々踏ん切りがつかないのだ。起きようと心の片隅では思っていても、眠気に体が上手く反応しない、心が上手く反応しない。
「ああ、起きるよ、起きる。」
シェムが目の前で不満そうな顔をする。その言葉を合図に、思い切りよく体を起こす。両手で地面を強く押し、その勢いを利用して。一気にやらなければ、気持ちが途中で萎えてしまうだろうと思ったからだった。身体中に走る激痛に、先程の自分の行為を激しく後悔する。鉄の棒のように萎えた足で地面を強く踏みしめることはできず、大木の幹に両手を押しあて倒れようとする欲望から必死に耐える。
ああ、倒れこみたい。今すぐに、横になりたい。そんな感情が自分の中をぐるぐると駆け巡っていく。新鮮な生肉を前にした飢えた犬のように、玩具を前にした赤子のように。あまりにも自然で、あまりにも強い欲望。痛みに閉じた目蓋の果てに、優しげな風景が見える。金髪の少女が待つ風景が見える。彼女は今も、帰りの遅い自分たちを待っていることだろう。心配して、心から心配して待っていることだろう。だから、前に進まなければ、倒れ込んではならないのだ。
そう決心をすれば、足に入る力が増したような気がする。なんとか自分の両足で立って、前に前に進むことができそうな気がする。ああ、彼女のもとに早く戻り、ゆっくり休まなければ。アルフ翁達のことを皆に伝えなければならないし、彼らが命を賭して守った石を持ち帰らなければ。そこまで頭が回って初めて、石を持っていないことに気が付く。冷や汗が背筋を流れ、視界が遠のくような感覚に襲われる。ああ、どこで無くした?
あまり回らぬ頭を総動員し、記憶を確認していく。そう、アレから逃げている間は石を持っていたはずだ、そう思い出す。石を抱きかかえ、必死に逃げ回っていた。だから、無くしたとしたならば、空を飛んだあとだ。
「シェム、あの石を見なかったか?」
妖精は首を傾げる。ああ、見ていないということは予想していた。そんな物事が都合よくいくはずがないなんてことは理解していたから。それに、シェムが知っていたとしたら、何故今まで言わなかったのかという疑問が生じてしまう。もし知っていたとしても、わざわざ取りに戻らなければならない。自分に、今の自分にそんな力はないのだから、形式的に聞いたにすぎなかった。
とりあえず、村に戻ろう。その決断をするのに、大した時間はいらなかった。現状、あの崖の下に戻ったとして、探すだけの体力があるとは思えなかったから。
立ち上がっているだけなのに、息が上がる。気力はある、けれど体力がない。体が半ば限界を迎えている。肩で呼吸して、歯を強く噛み締める。そこまでしなければ、実際に足を前にだすことはできない。一歩、一歩、決心とともに踏み出す足は、寿命を代償にして動かしていると言われても信じられるほどに重い。
何歩進んだのだろうか。先ほど休憩していた樹木がぎりぎり見える程度、そこまで進んで力尽きそうになる。具体的にどこを痛めていると聞かれたならば、全身くまなく痛めていると胸を張れる、それほどまでに消耗している。樹木の幹に体重を預け、いったん休憩をとる。シェムはこちらを心配そうに見ていて、ああ、わかっている、これでは村まで何日かかることか。
だから、自分は決意をしよう、そう思った。何回か考えたけれど、未来を見越す、そんな理由でやめていたことを行うときだと。咳き込む、大きく息を吸って、吐く。口中に溜まった血混じりの唾を吐き捨て、気分を落ち着かせる。
「歩こう、進もう。休まない、動けなくなるまで」




