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「そろそろ、森に行っても平気かもしれません」
「ふむ、見たところ問題はなさそう、ということかね。」
「ええ、あくまで感覚ですが、あれきり音沙汰もないようですし、森も少しばかり落ち着いたように思えます。」
アルフ翁は顎に手をあてて、少し考え込む素振りを見せる。森に入ることを止めてから、結構な日数が経った。月日で言えば12月に入ったところで、1つ光の日。本格的に季節が変わり始めるころで、時折天気の悪い日に遭遇してきている。
雨といっても、霧雨だとか、にわか雨のようなものではなく、ぬかるみができるほどの強い雨が数時間以上降り続くような雨だ。だから、畑はすぐにぬかるんでしまって、それが乾くためにはついで1日を要してしまうほどの。ただしかし、1日晴れが続いても、総じて次の日はまた雨なのだから乾く暇もない。例え乾いたとしても、そんなぬかるむ日々が続くようでは作物の生育に支障がでてくるので畑で栽培というわけにはいかない。だから、ここ一週間ほどは畑の様子を見る程度にとどめ、そこで作物を育てたりということは行っていない。
ただ、だからと言って農業を全くやらない、なんてことはない。1日が酷く長い物になってしまうし、やらなくてはならないことは多くあるのだから。つい先日までは収穫した野菜を薄く切って天日干ししていた。そのまま干すものもあるが、カブによく似た植物はあまりにも太すぎるから切ってから干さないと腐ってしまう。ほかにもいくつかそんな野菜はあって。ジャガイモによくにた野菜は、レアに聞いてもオドに聞いても、そのまま保存するしかないとのことだった。故に土蔵に保存している。土蔵なんて言っても、実際は家の中、食料貯蔵室の一角を堀り、そこに木の板をしきつめて作った簡易的なものでしかないけれど。蓋も同じく木で、貧相な出来栄え。2月になるまでに芽がでなければ良いのだから、そこまで不安視はしていない。それに、パンはまだあるし、干し肉も結構な量がある。野菜も干したものがあるから、最悪どうにでもなるだろう。また、家の外、屋根で雨宿りができる場所には地面に木の台を置いて、その上に丸太を積み上げておく。薪として食料貯蔵室に積み上げていたものだが、地面を掘るときに邪魔で外にだしたのだった。
やることはそれだけではなかった。自分が狩りをしてきた中で村に溜め込んできた歯や骨、綺麗な石を装飾品として加工する作業が自分たちを待っていて。とはいっても、美的センスなんて自分にはないし、精巧な腕前なんてものとはかけ離れた不器用さで、専らトリスがそれを作っていたけれど。自分は骨に穴をあけたり、石を研磨したり、そういった大雑把な作業を担当していて。これらを作ることで、1月の終わりに来る行商人に売り生活用品を買いそろえられるという。あまり外と交流を持つことができない、僻地の村故の商売だけれども、需要は確実にある。確かに遥か古代と呼ばれていた時代でも、自分が生きたあの日本でも、中世時代なんて呼ばれていた時代によく似たこの世界でも、装飾品は存在していて。女性は綺麗な石がはめ込まれたネックレスを好んでつけて、自分たちの美を引き立たせている。それだけではなく、この世界では男性もそういったアクセサリーを着ける文化が結構根付いているらしい。大陸の東側、そちら側はそういった風習が盛んで、特に東の海洋上に浮かぶ島は透明で淫靡な色合いの宝石が産出されるらしい。いかんせん西側にいた自分達はそこまでそれを感じることはなかったけれども。
「とりあえず、今日のところは自分が護衛につきます。」
「ああ、そうしてくれるとありがたいよ。シファと私が森にいかなければならないのでな。少し、とりに行かなくてはならないものがある。」
アルフ翁はそう告げながら、口元を歪める。笑っているのではなく、何かを隠しているような、そんな感情を覚える歪め方。それに何か不穏なものを感じながらも、自分は見て見ぬふりをする。
「いや、御二方が行くのは危険です。本当に何があるかわからないんです。」
「いや、いかなければならない。」
「何かがあるんですか?」
「ああ、それを取りに行く必要がある。毎年の習わしだ。」
そう告げるアルフ翁の目は爛々と光を宿していて、決意は固く見えて。それでも、自分はそれを簡単に認めるわけにはいかなくて。危険があるのだから。
「では、指定してくだされば自分が取りにいきます。自分ならばガルムもいますし、誰よりも安全です。」
「ならん、これは私が取りにいくものだ。」
「しかし、危険なんです。何かがあっては遅いんです。」
「いや、これも危険だ。飲めぬ、その為に狩人を置いているようなもの。」
アルフ翁は譲ろうとしない。その目尻には力が込められていて、手も強く握られている。そろそろ齢も齢、老い先短いとは思えないその力に圧倒される。
「これはしきたり。この村が村として存在するに必要なしきたり。これだけは譲れぬ。」
そう告げるアルフ翁、しかし自分は気が付いてしまって。アルフ翁の手は、彼自身の決意によって強く握られているのではなく、何か哀惜か恐怖か、そういった感情によってのものだということに。しかし、自分には何が彼を駆り立てるのか理解できない。わかることは、彼を説得することは不可能だろうということだけ。
『そして対立が生まれたんだ。先祖代々の土地と彼らの霊を守りたい村長やアルフさんたちと、安全を求める若者とそれにつく数人の老人たちにね。』そんなオドの言葉を思い出す。もしかすると、その時のアルフ翁は、先代の村長は、今のような状態であったのかもしれない。根拠はないけれども、何故だかそう思えた。
「わかりました、では行きましょう。日の高いうちにそれを終わらせたいので。大体どのくらいはなれていますか?その場所へは。」
「そこまで遠くはない。歩いて半日もかからない。ただ、今日中に戻るのは不可能だろう。」
「では、できる限り早く行きましょう。荷物を用意してきます。鎧と食料を持たなければならないので。準備ができましたら教えてください。」
ああ、そう告げて歩いていくアルフ翁の背中を見つめる。何かを隠してる気はするけれども、それが何かはわからず。ただしかし、決して邪悪なものではないような、そんな感覚がする。そんなことを考えながらも、家に戻り荷物を準備する。
「……とのことだ、トリス、家で待っていてくれ。」
場所は変わり家の中、そうトリスに告げれば、彼女はにこやかに頷いて。仕方ないわ、気を付けてね、そう声をかけてくれる彼女に感謝して、鎧を着こんでいく。干し肉は5日分、パンもそれだけ持って、包帯も一応もっていく。どこで怪我をするかわからないのだから、持っていくに越したことはない。服を割いてもいいが、雨が降ったときに冷えるのが早くなってしまう気がしたから、それは避けておきたいと思う。
布一枚さえも着ていない上半身に、いつも着ているインナーを着込んでいく。彼女は手を揉みながらその姿を見ていて、その手にはグローブを握っている。鎧の大部分を着込み、グローブを装着する。使い込んだグローブ、皮は汗を吸い滑らかになっていて。大分愛着もわいてきて、ただ所々擦れたようなあともある。補修、そんなことをしに街にいかなければならない、そう考える。骨でできたヘルムを被る前に、トリスのほうを向く。何も言わなくても、彼女には言葉は通じる。彼女をそっと抱きしめて、その暖かな腹を撫でる。大きくなった腹に宿る愛し子を考えて、暖かな気分になる。彼女の頭を右手で何度も撫で、目を瞑った彼女を見る。白い顔、少し冷えたその顔、その中でも朱の差した場所に唇を寄せる。すぐに戻ってくる、母体に負担はかけたくない、そんなことを考えながら口付けを交わす。愛しき人の感触を覚えて、そうして気持ちを新たに、生存を最優先に、そう思い直す。
家を出て、村長の家に向かう。ゆっくりと歩いていく、その横にはガルムとテン、シェムがいて。どういう列で行こうか、そんなことを考える。アルフ翁とシファはもう身体能力は下降の最中だ。早い速度で歩くことはできないし、とっさの判断にも劣る、だから場所をよく考えなければならない。
シェムが先頭、自分、テン、アルフ翁にシファ、ガルム、そんな順番がいいのだろうか。それとも、ガルムが先頭でテン、アルフ翁にシファ、自分にシェムという順番がいいのだろうか。あえてテンをガルムの背中に乗せ、後ろをずっと見張ってもらうべきなのだろうか。シェムは先頭や後尾といった場所の指定はせずに、自由にまわりを警戒してもらべきなのだろうか。頭を悩ませても、正解は出ない。彼らに問うても、彼らは首をふるか、微笑むか、跳ねるか、それくらいしか自分に伝えてくれない。どうすればいいのだろう、そんなことを考えているうちに村長の家について。
彼らはもう既に準備を終わらせていて。しっかりとした靴を、何時も履いているようなものよりも頑丈で、歩きやすそうな靴を履いていて。杖片手に、しっかりと歩く装備を身に着けていて、準備が完璧にできているように見える。これならば安心だ、そう考えて。
白髪を綺麗に束ねた長髪の女性、シファがこちらを見て笑う。それに笑みを返し、出発する旨を伝える。できるだけ無理のないような速度でいこうとは思うが、きつくなったら教えてほしいと伝えて。アルフ翁はそれに対し、大丈夫だ、毎年やっている事柄だから、そう言葉を返してくる。その力強い眼差しと、シファの歩き方、しっかりとした歩き方を見て、安心する。これならば、きっと大丈夫だろう、と。そう自分に言い聞かせて、少しざわつく心を落ち着かせる。さぁ、森に。久方ぶりの森、時折様子を見に行くだけでしっかりと中までは入らなかった森に。鳴き声と雰囲気に圧倒され、警戒していた森に。




