230
限りなく生々しい夢がある。総じて夢なんてものは幻想、まやかしでしかないから自分で動くことはできず、流れ行く物語に身を任せることしかできない。操り人形に等しい、登場人物となった自分は思うがままに動かされるけれども、それによって苦痛を感じることはない、痛覚が遮断されているのだから。ただその一方、触覚や嗅覚、味覚も遮断されていて、視覚と聴覚だけが夢を伝えてくる。しかし、例外もある。感触があって、ひどく現実味のある夢もある。何故それを感じるのか、どういう仕組みでそれを描くのだろうか。
夢を見た。目を開き、暗い世界にいることを確認する。寝る前に見た風景とほぼ同じそれを見て安心して、ゆっくりと体を起こす。額に汗が浮かんでいて、それを右手で拭う。暑さによる汗ではなくて、夢の内容による冷や汗だった。長い長い溜め息が口から漏れて、目頭を抑え指の腹で擦る。凝り固まった首を解すようにまわし、少し背筋を伸ばす。
「ん、んん……」
隣に寝る伴侶が動く。もぞもぞと、睡眠の邪魔をするなと言わんばかりに。それを見て、そして彼女がまた眠りに落ちたのをみて、また息を吐く。
森にいた夢を見た。夢なんて正確なものではない。ところどころどころか、大部分がぼやけていてなにも見えない。正確に見えるのは一部分だけ。夢なんてそんなものだ。
そんな例に漏れず、先まで見ていた夢も、ぼやけてよく見えなかった夢だった。森の中に居た、それは覚えているけれど。周りは緑で、幼児が色鉛筆で描いたような森が広がっていて、つまり緑、黄緑、黄、そんな色で目茶目茶に塗りつぶされたような擦れた景色。木々を1つ1つわけてみることすらもできなくて、御伽噺の背景のように固定化されてしまっていた景色を覚えている。そんな中、立つ自分がいて、そしてその目の前には誰かがいて。しかし、誰がいたのかは思い出せない。女性だったことは覚えている。髪の長い女性、華奢だったようにも感じる。ただ、その顔はおろか髪の色すらも思い出せなくて、磨硝子越しに見た景色のように曖昧で、病人が啜る粥のように薄味な記憶。彼女は笑っていたのだろうか、泣いていたのだろうか。ただただ覚えているのは、自分に向かって手を伸ばし、口付けをしてきたことだけ。その柔らかな唇の感触を未だ覚えてはいるけれど、それが何を意味していたのか、何故口付けを交わしたのかはわからない。
そうして口付けを交わした後は、彼女はこちらに微笑んで。そうだ、彼女は微笑んでいた。唇を離して、両の手は未だ自分の背中に回っていて、下から見上げるその顔は、その口は笑っていた。そうして、そうして、彼女は……
「なんなんだよ、一体……」
思わず口から言葉が漏れて。一体何を意味する夢なのだろうか。夢の中で、誰とも知れぬ彼女はそのまま消えて行った。足元から消えていくように、それと同時に世界も地面から砕けて行って。砕けた破片は地に落ちるのではなく、天に昇り粒子となり消えていく。彼女も流砂の如く崩れて行って、粒子は空へ上り消えていく。金縛りにあったように動けない自分がいて、彼女はこちらに微笑みかけたままで。いつの間にか自分は何もない白い空間に残されて、目の前には誰かの死体が転がっていて。腹に大きな穴が開いた死体、片手は肩口から引き抜かれ、そこらに転がっていて、自分はそれを見て……そう、自分はそれを見て起きた。声を上げたような気もするし、上げていないような気もする。ただ、恐怖で起きたことだけは確かで。
音を立てて息を零す。生憎と、自分は夢占いに優れた人間ではない。夢を見るのは何かの予兆だとか、そんなことを指摘できるような知識は無い。だから、何もできない。けれど、不快な夢で。
体をベッドに倒す。隣で寝る伴侶の髪の毛に少しだけ指を絡ませて、ひんやりとしたその毛を感じる。心地よい、そんなことを考えて。少し火照った体を彼女のほうに近づけて、髪の毛で自分の顔を擽る。さらさらとした感触が自分に安心感をもたらして、睡魔が襲ってきて、景色は暗くなっていっ……
村人たちが森へ入ることを禁止してから3日が経った。自分も入っていないが、今のところ遠目に見て大きな問題はない。とは行っても、それが解禁されるのはもう少し先の事だ。いくら見た目での変化がないとはいえども、危険があることに変わりはないだろう。もしも不用意に入ってしまって森を刺激してしまえば、面倒なことになる可能性もなきにしもあらずなのだから。根本的に何が起こっているのかわからない以上、自分ですら最新の注意を払って森に行く必要がある。
そんな状況なため、今日も畑に向かう。トリスをつれて、ガルム、シェム、テンは自分の後ろをしっかりとついてきていて。今日の予定は昨日やりそこねた場所と、もう一日、そう考えて置いておいた作物の収穫。そのために、ガルムは荷車を牽いている。
畑に屈み、彼女と手分けをして作物を収穫していく。ジャガイモのような作物は昨日手を出していなかったから、それを掘り起こす。これで収穫するのは3度目で、段々収穫までの日数が長くなっているのは、ここらの特殊な気候の問題もあるだろうし、地力の問題もあるのだろう。一旦休ませて、別の作物を植えることで地力の回復を待つべきだろう、そんなことを考える。どうせ季節が変わり、作物を採りにくくなるのだから。
彼女は今頃鎌をもって雑草を取り除いていることだろう。こちらの世界にきても雑草は存在している、そしてその生命力はとても強い。いくら引き抜いても、作物を育てる邪魔をする奴らはいくらでも湧いてきて。故に一定期間が過ぎるたびに雑草を引き抜いている。出来ることならば、火魔法で全て燃やし尽くしてしまうのが楽だが、それでは他の作物も燃えてしまう。故に手作業になる。それはとても重労働だが、掘るという作業のことを考えるとまだこっちのほうが楽な作業で、故に彼女が行っている。
刈り終えた草は全て一まとめにしてあって、それは最終的には灰にする。腐葉土にしている枯草もあるが、それと灰を混ぜて土に加えることでより栄養価の高い土にしよう、そんなことを考えている。これはレアに教えてもらったことで、自分は全くしらなかった。彼女たち長い時間を過ごしている年よりの知恵、科学的根拠はないだろうが、経験則によるしっかりとした知恵を使わないなんて勿体無いことはしたくないのだから。
作物を全て収穫し終わり、それを荷車に積み込み終える。とはいっても、荷車がいっぱいになるほどではなく、小さな山が出来上がるくらいのものだが。刈り終えた草を畑の、何も作物が生えていない場所に纏める。小さな、とは言っても両の掌では救えない量のそれに向かって魔法を唱える。久方ぶりに使ったファイアは、引き抜いた草をたちまち赤く染め上げて、そうしてすぐに黒く変化させる。軽く、少しばかり乾いた草だから長い時間燻るなんてこともなく灰に変わっていく。そうして自分はそれを袋につめていくのだ。袋の中には既に腐葉土が、作っている最中の腐葉土がいくらか入っていて、つまり袋は小さい物ではなく、片手で抱きかかえるほどには大きなもので。
彼女はガルムに犂を、木でできた大型の犂を装着していく。馬に使うための大きな犂だが、ガルムにはそこまで問題がない。今まで村の人たちの農耕もそうやって手伝ってきたから、ガルムも困惑したりせずに従順につけられていく。
そうして、掘り起こして作物のない畑の区画に、自分が灰と腐葉土の混合物を撒いていく。その後ろから彼女とガルムが付いてきて、そうして耕していく。掘り起こすことで土の中に空気を入れる役割もあるし、栄養が偏ることも防げるし、灰と腐葉土という肥料がしっかりと土の中に混ぜ込まれていくのだ。先人の知恵、自分が生きた時代にはもう既に薄れていたかつての知恵を活用し、その偉大さを感じながらも作業は続いていって。




