229
彼と別れ、自分は森の中に進んでいく。時刻はそろそろ夕方に近づいてきたころだろうか、自分の背後にはガルムが付いてきていて、先導するのはシェムで。足元を跳ねるテンがいて、右手で進路を邪魔する枝を払いながらも進んでいく。夜になるまでに戻っておきたい、そうでなくてはいくら慣れた森とはいえ、迷う危険もあるのだから。それに、皆に心配をかけてしまう。今日の目標はあくまで野草やキノコ、生活雑貨に必要なものの採集なのだから、時間をかけずにさっさと仕事を終わらせておきたい。
そんなことを考えながら、前に進みながらもしっかり足元を見て、前を見て、左右を見て。採集すべきものを探して、見逃すことがないようにすることは当たり前で。それに加えて何かがいないか、何かの痕跡がないかどうかを調べることも忘れないように。例えば爪を研いだ後のような幹に残る爪痕だったり、少しぬかるんだ場所に残る足跡であったり、踏みつぶされた野草であったり、枝に引っ掛かり残った体毛であったり、そんなものがないかどうかを気にしながら歩いていく。そういったものを見つけることができれば、どのようなモンスターが、どのようにして動き回っているのかをなんとなく推測することができるのだから。
ただ、見つけたのはコロコロとした小さな糞だけ。恐らく、ヴィヴィッドラビットのものだろう。姿が見えないのはしっかり隠れているからで、木の枝で突いてみると固い。結構時間が経っているようで、ただ何時頃の物かは判別できない。朝ということはないだろうから、昼間だろうか。雨は降っていないけれど、流石に前日のものだと風化していることだろうから。
ファルシオンを振るい、進路を遮る低木を叩き切る。緑色の堅めの枝は金属の刃に潰し折られて、ばきぼきと音が響く。5度ほど振るえば、あとは剣先で払えば道ができるだけのスペースは作れる。そうして、また一歩進んでいく。
「シェム、どうした?」
先導していた妖精がこちらを向いて。何か発見したのだろうか、そんなことを考えながら彼女を見る。その白い顔に満面の笑みを咲かせて、両手で下を指し示す。釣られて指し示す方向を見てみれば、赤と黄色の大きなキノコが生えていて。食用で大変美味だが毒性のあるキノコ、それが自生している。彼女に視線を戻すと、褒めてくれとばかりに中を上下左右に動いている。
「よくやったな、村の人たちも喜ぶよ。」
ファルシオンを腰に吊るし、空いた右手を彼女のほうに伸ばす。彼女は目を瞑り、こちらの手のほうへ少し近づいて頭を傾ける。そんな愛玩動物のような仕草を見せる妖精の頭を人差し指と中指で撫でてやり、その滑らかな髪の毛を揺らしていく。
ひとしきり撫でたあと、屈んでそのキノコを採取する。優しく根元を堀り、表土から1センチもしないばかりのところからもぎ取る。さくり、とそこまでの力を必要とせずにそれは取れて、手元にはこぶし大のキノコが残る。人の拳ほどもある卵から茎が伸びているような形をしているそのキノコは、美味であるとしてとても有名で。しかしながら先述のとおり毒性が否定できなく、1つまるまる食べると死に至る可能性すらもある。美しいバラには棘がある、そんな言葉を思い出すような食物。村の人たち全員でわければ問題がない程度の毒性だけれども、それを主張するように黄色を基調として赤い線が入った毒々しい色をしている。
採集したキノコをガルムの背に括り付けた袋に入れる。潰れてしまわぬように、優しく、枝が入っている袋とは別の袋に入れる。そこには既にいくつかの薬草が入れられていて、綿花の代わりに発達したのだろうか、そんなふわふわとした茶色の毛を種全体に纏った実も入れられていて。これならば潰れることもなく、クッションの代わりになってくれるので大丈夫だろう。そんなことを考えながら袋をまたガルムの背中に括り付ける。
あとは薪をもう少しばかり集めて、それに加えて野草をいくつか採集しなければ。もしもできたならば、兎を1羽か2羽かっておきたい。あのキノコと共に炒めた肉はとても美味しいのだから。それを思うだけで口の中が湿っていく。
がさり、がさり、音を立てて枝をかき分ける自分の手がとまる。自分の鼻に漂ってくるのは、鉄の香り。纏わりつくような、体の何かを刺激するような匂い。地球に居た頃はほぼ感じることがなかった匂いで、最近になって気が付くようになったどうしようもない臭い。鉄の香り、死の香り、血の臭いが鼻孔を刺激する。酷い臭い、死の臭い、血の臭い、腐臭ではなく便臭に似た香りもして。風が前髪を揺らしたから、恐らく枝葉によって起こされた微かな空気の流れにのって運ばれてきた臭い。一歩踏み込んで、鼻いっぱいにそれを吸い込む。土の匂い、植物が発する匂い、そういった森独特のひんやりとした匂いに混ざって、確かに感じる硬質な臭い。
首を回す。目を凝らす。その臭いを発する元凶を探そうとして、五感を総動員する。右、左、そこまで嗅覚は鋭くないけれど、前方のほうから感じる様な気がして。耳に響く狼の軽い唸り声。
「ああ、ガルム、連れて行ってくれ。」
そう告げれば、良しと言わんばかりに小さく吠えたあとガルムは自分の横を通り先頭に立つ。テンを抱き上げ、シェムは自分の肩にとまる。グローブ越しに感じる暖かな感触と、首にしがみ付く細い腕の感触に意識を少し奪われながらも、聴覚に集中力を傾ける。視覚はガルムの姿に引き寄せられるように、それ以外はそこまで気にすることはない。人間の視覚なんてそこまで信頼のおけるものではないのだから、一点を注視することはできても全体をしっかり見渡すことはできないのだから。敵を警戒するにしても、枝葉で視界が遮られる可能性の高い目なんかに頼るよりかは聴覚に頼ったほうが良い。本当ならば眼さえも閉じてしまいたかったが、それではガルムは見えないし足元が不安定で。だから、できるかぎり耳に集中して、異音を聞き漏らさぬように。
ガルムは歩き始める。それを見失わぬように、彼は鼻を地面に少し近づけて、中空の空気を嗅いで、そうして首をふりふり前に進んでいく。それと自分の足音に紛れて近づく危険をこしとるための網を広げる自分がいて。がさり、がさり、ばさり、ばさり、足元で踏みしめられていく草木、獣道からはずれて、ファルシオンを右手に持つ。進行の邪魔になる枝があれば、ガルムより少し前にでてそれを折って、そうしてまたガルムに先導してもらう。
50メートルほど歩いただろうか、もう少しばかり歩いただろうか、視界にそれは入ってくる。大きな熊、アグリーベア、そういう風に呼ばれる下半身の大きな熊、それが死んでいて。その堂々たる下半身は脇腹あたりから大きく裂かれていて、そしてそこから臓物が零れ落ちている。地面は真っ赤に染まり、臓物自体もさけていて、そこから便臭が漏れているのだろうか。色々な臭いが混ざった鼻を捥ぎたくなるような臭いに顔をしかめつつも、それに近づいていく。
腹は鋭利に裂かれていて、もう既に息は無く。地面に染み込んだ土が伝えてくるのは、これが死んだのは結構最近だということ。ただし、ここ数時間というところだろうか。死体の目は見開かれていて、足には他にも切り傷があって。肩にもいくつかの傷、顔は大きく裂かれていて。一体どんな敵がこいつを殺したのだろうか。周りの木には争いのあとがはっきりと残されていて、いや、一方的な虐殺だったのかもしれない。腰に刺さっている枝、周りの木の1本は枝が途中で折れていて、折れ方から言ってどうみても腰に刺さったものと同一で。恐らく、アグリーベアが投げられたのだろう。巨体、数百キロはあるだろうその体を投げまわすモンスターに恐怖を覚えて。
しかし、いくら熊の死体を見ても殺した相手は想像つかず。この森にそんなモンスターがいただろうか?自分の知っている限り、アグリーベアは生態系のほぼ最上位に位置している筈で。自分の知らない、村の人も知らないモンスターでもいるのだろうか。
そんなことを考え込んでいると、シェムが髪の毛を引っ張って。振り向けばテンが跳ねていて、ガルムもこちらを見つめている。
「何か、あったか?」
声をかければ、テンは跳ねて1本の木の裏に向かっていく。それについていけば、そこにはもう1つの死体が転がっていて。木に持たれるようにして死んでいたから、先ほどは全く見つけることができなかった死体。大きな蟷螂が死んでいて。その首は変な方向に曲がっていて、腕も片方が折れている。フォレストマンティス、それの上位種であるエルダー・フォレストマンティスの死体、そう気が付くと、先の戦闘痕の原因が見えてきて。確かに、このクラスの蟷螂になれば腕の力は凄まじい物があるだろうし、鎌と化したその腕なら―つまり普通の蟷螂と違い棘のようになっていない、純粋な鎌のような腕なら―アグリーベアの腹を裂くことは容易いだろう。この蟷螂の存在は知らなかったが、フクシアのほうには生息しているらしいし移動してきている可能性も否定できないだろう。そして、蟷螂の首がへし折れていることから、その戦闘風景もなんとなく想像がつく。
蟷螂と熊はここで出会ったのだろう。運の悪い出会い、捕食者として互いに一級品のモンスターたちはここで覇を競いあったのだろう。そして戦闘の中で熊は腹を裂かれ瀕死になった。しかしながら熊は置き土産とばかりに蟷螂の首をその腕でへし折った。蟷螂は少し動いて死に、それを確認した熊も少し移動したところでやはり力尽きた、そんなところではないだろうか。熊の腕ならば蟷螂の首をへし折ることはできるだろう。どこかの本で読んだ、熊の肩は骨ではなく筋肉で繋がっているから強い力が出せると。
ガルムが吠える。ここで行われたであろう戦闘の情景を思い浮かべることに没頭していた自分はそれで現実に引き戻される。ふと気づけば、森から微かに見える太陽はそろそろ沈もうとしていて。
「夜か、ガルム、テン、シェム、戻るぞ。」
彼女に夜には戻ると伝えてあったから、もう戻らなければならない。この戦闘痕を調べたいのはやまやまだが、暗くなってはそれもできない。退路が見つからず、村に戻れなくなる危険性もある。
そう考えるとしかたがなく、死体を残し、村へと戻ることとする。まぁ、採集しておくべき物はもうほとんど終わっているから問題は無いだろう、そう考えて。




