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昔の歌を思い出す。習ったのはいつのことか、遥か昔の有名な歌、そう習った記憶。そこに込められた歌い手の心の機微、深層心理など知る由もないが、表層の読み取りくらいならできる。情景描写としては秀逸とされるこの歌だけれど、極々当たり前のこととしか考えてこなかった自分がいて。今、初めてこの歌の言う自然の素晴らしさを感じている。
上流から下流に、水面を凸凹とさせながら流れていく水、水、水。樹木によって形作られた網を通り抜けた不揃いの陽光がそこに降り注ぎ、各々思うがままに反射している。右に、左に、キラキラと反射していく。風によって網目は粗く細かく、そして流れによって凸凹の形はかわり、一瞬足りとて同じ景色は訪れない。すぐ飽きてしまいそうに思えたけれど、その景色とそこに垂らす糸を見つめていれば、なかなかどうして、時間が経つのは随分と速い。垂らしていた糸がぴんと張りつめ、何かがかかったことを告げる。それをてで感じて、両手で勢いよく竿を引き上げる。
ばしゃり、そんな音と共に糸の終点には魚の姿が見えて。竿を片手で持ち、糸を片手で手繰り寄せる。拳2つ分強の魚を見て、少し離れた場所に立つ男に笑いかける。彼が祝福してくれている気がして、嬉しくなった。
――
村に戻ってきた自分を、オドは待っていてくれて。夜明けはとうにすぎていて、周りもすでに起き出していた。オドが説明していたのだろうか、アルフ翁もオドの隣にいて、トリスもいる。三人は自分を認めると早足で近づいてくる。他の人たちには彼らが説明するのだろう。
「どうだったかね?」
少し心配そうな表情を浮かべながら、アルフ翁が話しかけてくる。オドは眉間に少しばかり皺を寄せて、これまた心配を顔に張り付けている。まぁ、それはそうだろう。トリスは膨れた腹をさすりながらこちらを見ている。僅かに怒っているのだろうか、なにも言わずに家をでて森にいったコトに関して。
「別に何もいませんでした。正確に言えば、自分が視れる範囲ではさほど大きな問題は見当たりませんでした。」
「つまり、何かがあったということかね。」
言外に隠しておいた微妙なニュアンスをしっかりと読み取り、そして突っ込んでくるアルフ翁。オドは少しばかり考え込む様子を見せて、トリスは寄ってきたガルムの毛並みを撫でている。
「少し、森が静かでした。しばらく様子を見るべきかもしれません。鳥を、奇怪で大きな声を出す鳥を、ご存知ですか?」
「いや、残念ながら知らん。」
「僕も知らないな。釣りをしてきたが、遭遇したこともなければ声を聴いたこともない。」
オドとアルフ翁が知らないという、そうならば、きっと今までいたことはないのだろう。確実に何かが起きていて、それは警戒するべきだろう。それが危険か安全かは全くわからない、それがたとえ杞憂に終わったとしても警戒をするに越したことはないのだから。必要以上に警戒しておいて、いざ何も起きなくても被害はほとんどないが、警戒をせずに何かが起きてしまっては取り返しがつかないから。アルフ翁は大きくため息をついて、
「警戒、しておくべきということか。」
「ええ、森に入る際は自分が必ず護衛につくようにします。また、根本的にしばらく森に入ることは控えるように。村からでるだけでも注意を払っていてほしい。」
「仕方がないの。では、申し訳ないが今日は狩りをしてもらってきて良いか?肉が心もとなく、野草も少し足りない。魚はオドと一緒に頼む。それにしても、時機が非常に悪い。」
アルフ翁が嘆息するのも無理はない、そんなことを考える。丁度狩りの前、できればある程度の集団で野草やキノコなどを採集して保存食をたくさん作っておこうと考えていた矢先のことだったのだから。雨が増える12月からに向けて、準備をしておきたい、と。
大陸の北部、ここら近辺では12月以降に大量の雨がふって、そしてこの時期に合わせて森は育っていくそうだ。故に、この時期は森の恵みが減り、この時期の前後は森の恵みが増える。だから、12月、1月、そういった時期は食材を溜め込んでおくのがこの村の伝統らしい。本当に、時機が悪い、そうオドも漏らす。そんな姿を見て、仕方のないことだと思いながらも、少し申し訳なさを感じてしまうのは何故だろうか。
――
川に釣り糸を垂らす。やっと1尾、魚篭に入って水に浸かっている。思ったよりも難しく、少し離れたところのオドはもう既に4尾を釣っていて。竿を使って川に垂らした針にかかる魚を引き上げるだけだと、高を括っていた自分が馬鹿らしく恥ずかしい。二人で20尾も釣ればもう十分すぎると言っていたから、まだまだだろう。釣り果で勝てないのは当然だけれども、このままではほとんどがオドの釣った魚になってしまうことだろう。トリスと自分の分しか釣れないなんて、初心者とはいえ恥ずかしいものだから、できればもう数尾は釣っておきたいところだ。
川釣り、自分が知っていたものとは全く違う、原始的でとても難しい釣り。自分の知っている釣りなんてものは、電動モーターとセンサーを使って獲物が掛かり次第勝手に糸を巻き取ってくれる、そんなものだった。幾ばくかの酔狂な人達が、センサーを使わずにやることはあっても、まずまずモーターがないなんてことは有り得なかったと思う。根本的に、釣りなんてものは自分達の近くにあるようなものではなくて、綺麗な川がある山間部、つまり疎開区であったり、澄んだ海を持つ本州南西部あたりの浄化済み海岸あたりでの風流な趣味でしかなかった。だから、自分の記憶はあくまで本や電子資料からの知識だった。
そんなものとは遠くかけ離れた釣りをしている。手元に走る振動、それに反応して竿を引けば、びくりびくりと竿が上下に震える。当たった、そんな言葉が脳内を走り竿を大きく引き上げる。糸は張りつめ、水面から魚が飛び出してくる。水面がまるで魚を愛おしむかのように揺れて、音を立てて水が跳ねる。両手で持つ竿を片手で持ち地面と垂直にすれば、糸の先端についた魚は振り子のようにして自分の手元のほうに近づいてきて。それをもう片方の手で掴みとり、竿を地面に落として魚の口から釣り針を外す。逃がさないように、しっかりと魚を握って、しかし潰さないように力を加減して。猪の牙を削って作った原始的な針は魚の口にしっかりと突き刺さっていて、それを取り外し魚を魚篭に入れる。
「2尾目かい、いい調子だね。」
いつの間にかオドは自分の傍に。
「ええ、難しいですね。」
「いやいや、流石はアスカ君、飲み込みがはやいよ。この調子なら早く集まりそうだ。今日はやることがいっぱいあるだろうから、早く動かないとね。」
「そうですね、今何尾です?」
「これで6尾だよ、いったん食事にでもするかい?早いけれど。」
オドはにこやかな笑みをこちらに向けてきて、それを見て自分も笑みを返し首を縦に振る。大分精神を擦り減らす作業だ、そんなことを考える。だから、休憩は願ってもないことだ。光が反射してみにくい水面の下にある針に魚が近づいてくるのに注意しながら、竿が揺れ、魚が餌に食いつくのを待つ。そうしてからも、時機を合わせ竿をひかなければ餌だけを奪われてしまう。あまり気を抜けない作業で、慣れていないから狩りよりも辛い。
「狩りなんかよりも難しいですよ、オドさんはすごい。」
「いやいや、別にまだまださ。何十年もやってきているけれど、初心者から抜けたところさ。魚との駆け引きは非常に難しいけれど、楽しいんだ。」
パンをかじりながらそんなことを話すオドはとても愉快そうで、釣りが心から好きなんだな、ということを感じさせる。
「ただ残念だ、この場所はいい釣り場だったけれど、まぁ仕方ない。」
そんなことを話すオド。森の中の釣り場であるここは、しばらくは来ないでおこうということになったからだ。今日は、魚を補充したいとのことで仕方がなくきているだけで。
――
「ああ、アスカ君はこの村のことをどう思う?」
突然オドは自分に問いかけた。
「いい村ですよ。皆が皆優しいうえに、1つの共同体としてまとまっている。来てよかったと思っています。」
「1つの共同体、か……」
正直に自分が思うことを言えば、オドはため息をついた。それに驚きオドを見れば、彼の視線はどこか遠くのほうを見つめていて。
「おかしいと、思わなかったかい?」
視線は遠くに固定されていて、どこを見ているかは定かではなかった。けれど、その心は確実に自分のほうを向いていて。そして、その口から発せられる言葉もしっかりと自分を対象としていて。ただその言葉に含まれる意味を正確に理解することは難しくて、自分は無言を貫いた。




