225
首筋に突き刺した剣が霧消していく。のし掛かるようにしていた巨体が力を失っていく。湧き出す血流、首筋を押さえていた左手が濡れていく。赤く染まっていく左手、湧水の如き流れを感じていたそれを自分の身体に引き寄せる。手を振ってみたけれど、滴る血液はとまれども付着したそれ全てが取れるわけでもない。先ほど見つけた川で洗おう、どうせ解体もするのだから。そう思いながら立ち上がる。
狼の唸り声が聞こえる。横を見れば、小さな猪をくわえたガルムがこちらを見ていて。
「よくやったな。」
その狼の頭を撫でてやれば、嬉しそうに喉をならす。瓜坊とでもいうべきであろうそれを地面に下ろし、身体を震わせる。肩に少しばかりの重みを感じれば、シェムがそこに。テンは自分の横で跳び跳ねていて。
小さな手が首筋を這う。細く弱々しい両腕が、まるで大樹を抱き締めようとするが如く自分の首に巻き付く。ひんやりした感触、僅かにくすぐったいのは、髪の毛のせいだろうか。
彼女らにも労いの言葉をかけ、ガルムの口から瓜坊を回収する。代わりにガルムは親猪をくわえ、尾をゆっくりと振る。
ついてくるように、そんな声をかけて、先ほど見つけた川に向かって歩いていく。小川だが、手を洗い、解体した際の血を流す用途にもちょうどよい、そう思えたからだ。少しばかり喉も乾いていて、そういった面でも都合がよいだろう。右手に持った瓜坊の足は少しごわごわとしていて、猪然としたあの毛皮を彷彿とさせる。傷口からは血が滴っていて、自分の歩調に合わせて瓜坊が揺れる。ぐらり、ぐらり、ぐらり、ぐらり。片手でもつには少しばかり重いけれど、左手で草木を掻き分けるので仕方ない。
ふと、何かの気配を感じる。何かに見られているような。右、左、立ち止まって見回すけれどもなにも見当たらない。視界が悪いとはいえ、数十メートル先まで見える場所もあるような空気の澄んでいる場所。背の高いモンスター、例えばアグリーベアであればわかるはずだ。何より、アグリーベアはこちらを見つけると威嚇してくる。気のせいだろうか、いや、何かに見られていると勘が告げている。ガルムたちも立ち止まっているから、森そのものの音以外なにも聞こえない。相変わらず気配は残り続け、回りを警戒しながら気配への対応を考えあぐねる。小川まではそこまで距離はない、さて逃げるべきか、そこまでいくべき……
がさり、目の前の草むらから猪が飛び出してきて、そうして自分の目の前を右から左に横断して去っていく。それに驚いて、手に持った瓜坊を落としてしまう。そうして気がつく、気配がなくなっていることに。もしかして、あの猪だったのだろうか。体高は低く、それ故に見えず。仲間の死体をもっている自分達を見続けていた、そんなところだろうか。
一応回りを見渡すけれど、何かがいるような気配も、先の気配もなくなっている。やはり猪だったのだろう。歩みを進めよう。そう思い、ガルムに目を向ける。彼も何も感じないようで、別段普段と変わった様子はなく。それを見て安心して、川に向かって歩みを再開する。ぐらり、ぐらり、ぶらり、ぶらり。手に持つ瓜坊が揺れて揺れて、草木に当たって微かな音を鳴らす。体でかき分け、左手でかき分けていく森。鬱蒼とした森、それでいて熱帯のそれを想像させないような。地面を踏みしめ、腐葉土と化し始めた地面が音を鳴らす。がさり、ぐすり、かさり、ぐらり、ぱきり、とたり、ぱさり。自分たちが立てる音が森を支配しているように思えて、時折遠くから聞こえてくる獣の鳴き声に、風に揺れる葉の音でその思いを断ち切る。小川まであと少し。
小川に辿り着く。嗚呼、本当に小川だ。今まで来ていない方角に来てみたけれど、これだけ小さい川に突き当たったのは初めてだ。幅は数十センチ、大股で跨げそうなほどしかない。深さもそんなにあるわけがなく、どこかに湧水地があるのだろうか。もっと上流から流れているにしては流れが弱すぎる、支流なのだろうか。どこに流れて行くのだろうか、この方角では、恐らくどんなに下流に歩いて行ったとて村に戻ることはできそうにない。上流に歩いたとて、湧水地とは言っても面白い物でもなくどこかの岩の隙間から水が湧いているか、地面からぽこぽこと、もしくは染み出すような場所が集まっているだけか。どれにしても、面白そうなものではなく、時間を使う気分にもなれない。解体をして、山菜を探して村に戻る、そのほうが百倍いいことのように感じられる。
瓜坊を川の近くにおろす。ガルムも親猪をおろし、地面が少し音を立てる。両の手を洗い、右手の爪にこびり付いた瓜坊の血をこそぎ落とす。そうしてから両の手を使って手桶を作り、清流を掬い取る。ぐびり、ぐびり、喉を潤す冷水が心地よく、もう一度川に手を付け顔に冷水を叩きつける。目の奥から眠気が冷めていくような、新緑の香りと草騒がせる風が心地よく顔を冷やす。何時の間にやら自分の対面少し下流側にガルムが陣取り、舌で水面を掬うようにして水を飲む。横ではテンが水に体の一部を浸している。彼らにとっても美味い水ということだろう。手桶でまた水を喉に流し込む。冷えた水が心地よい、冷蔵庫で冷えた水を思い出すような。ああ、旨い。喉が冷えていき、湿っていく。口内の渇きと粘つきも消えていくような。水を口に含み、漱ぎ、そうして地面に吐きだす。全裸になって浸かったならば心地よいことは受けあいだろう。狭いのが悔やまれるが、もしかすると狭いからこその川なのかもしれない。
解体用ナイフを右手に持ち、瓜坊を手元に引き寄せる。この清流を血で汚すのは少し心苦しい、せめて気分だけでもと持ってきていた木桶に水をくみ、川のそばでやることにする。結局は地中を伝っていってしまうかもしれないが、赤く染まることだけは避けられるだろうと。ガルムは水を飲み満足したのだろうか、身体を地面に横たえ、テンもそこに寄り添う。シェムは言うまでもなく、自分の傍に。




