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「約束、守れなかったな……」
俺は空を見上げながら思う。茂り茂った木々の枝葉、その隙間から覗く日差しを浴びながら思う。日差しは暖かく、空はすっきりと晴れている。それはまるで2日前の雨をすっかり忘れさせるように。天気なんてものは1日1日どころか、数時間でも変わってしまうものなのだから、それは当然なのかもしれない。
「すまんな……言い出せなかった。」
――
青年は呟き、大きく息を吐く。彼のことを知らぬ人が見ても、彼が酷く落ち込んでいて、そして誰かに対し心から謝罪していることは一目でわかる、そんな背中をしていた。何が彼を落ち込ませているかは、彼にしかわからないだろう。そして、彼にそれを聞いても、彼は答えることがないだろう。それは彼にとってとても大切な、重要な話なのだったから。
彼の溜息に合わせ、彼が乗っている馬が嘶く。それは彼の言葉を理解しているようで、彼を慰めているように感じさせる、柔らかな鳴き声だった。
「ああ、ありがとうな。悪いのは俺だ……」
青年はその声に含まれた意味を理解しているかのように馬の背を叩く。実際のところ、青年は馬の鳴き声を理解する術をもっているわけではない。青年は優れた人物ではあるが、万物の声を聴けるような才能を有しているわけではないのだから。しかしながら、その馬と青年は長い時間を共にしていて、幾多の戦場を共に駆け抜けていた。故に、青年はその馬が何を言わんとしているのかなんとなくわかるような気がしたのだ。
「少し、休むか?そろそろ遺跡だぞ?」
青年は馬に声を掛ける。それに対し馬はもう一度嘶く、まるでまだ行ける、というように。それを聞いて青年はにこやかに笑った後、頼むぞ、と声を掛ける。そして青年はもう一度空を見上げて溜息を吐く。どれほどの事をしでかしてしまったのだろうか、もしも彼を知る人がいるならば、そう心配したことだろう。それほどまでに彼の行動は普段のそれと大きくかけ離れていた。彼は自分自身の弱みを見せる様な人間ではなく、心の奥底に仕舞い込んでいく人間のように見られていたから。現に、彼が弱みを見せたのはここ数年間で片手で数えるほどだったのだから。
どれほど進んだのだろうか、太陽が少しばかり西に傾いたころ、青年は馬に足を止めるよう命令をした。彼の右手にはすらりと長い剣があり、その刀身は木漏れ日を反射して煌めいている。青年は進む道すがら、進路の邪魔となる枝葉をそれで払っていたのだった。堅い筈の枝を易々と両断していた剣は、恐らくは冒険者ならば垂涎の品物だろうことは想像するに容易い。業物であることは、枝を大量に払ってきたであろうその刃に刃こぼれが見えないことからも伺える。それほどの逸品を青年は馬の脇腹に備え付けられた鞘に入れて、そのまま馬を降りる。彼にその鞘を取り外そうとか、剣の整備を行おうなんて気持ちは存在しない。驚くべきことに、彼はその剣に別段何の愛着も持っていないのだ。
「いい子だから、ここで待っていてくれ。俺は俺の仕事をしてくるから。しばらくで戻る。」
青年は馬に声を掛ける。まるで家の中で飼う動物に声を掛けるが如く、危険極まりない森の中に馬一匹残すことに何の心配もしていない。ここに冒険者がいることなら、それにも驚くことだろう。馬は高価なもので、大切な足だ。青年の馬は非常に大きく、非常に力強く、そんな大層な馬を放置することは獣欲に塗れた山賊集団の真ん中に全裸の美少女を放置するに等しい真似であったから。ただしかし、追記するとしたならば、その全裸の美少女が実は世界でも指折りの格闘家であったらどうだろうか。山賊たちとの実力差は大きく離れていて、また体力も申し分ないとしたら。全裸に見えて、実は武器さえも隠し持っていたら。そうだとしたら、心配されるべきは山賊のほうだろう。青年が馬をここに待機させておくことに何の躊躇いもないのは、そういった理由からであった。
青年は息を大きく吸い込んで、大きく吐きだす。そうして馬に向けていた目線を、その体を反転させる。今、青年の目の前には洞穴があった。青年よりもはるかに大きい岩、それは地面からせり出すようにそこに鎮座していて。青年の手前に向かって徐々に高さを増していて、青年の目の前にある岩の端っこは青年よりも遥かに大きい。円柱が地面から斜めにせり出してきたようだ、青年はそう思った。
岩は青年の目の前に穴を持っていて、そしてその穴は遥か地面深くまで続いているようにその口を広げていた。その穴は暗く暗く、木漏れ日があるとはいえ入口ばかりを明るくするのみで、青年の目ではそこを見通すことはできなかった。青年は腰から松明を取り出すと、一言呟いた。そうすると松明に火が灯り、洞窟の入り口をより明るく照らしていった。古めかしい、人造の洞窟であることは一目瞭然であった。洞穴の壁があまりにも綺麗に削り取られていたからで、入口に彫り細工がしてあったことからもそれは伺えた。
「大当たり、だな。」
青年は手に持つ松明を洞窟の入り口に近づけた。松明の火はまるで洞窟に吸い込まれていくように揺らめいて、その洞窟が地底深くに続いていてかつ風の動きがあることを示していた。
「じゃあ、行ってくる。」
青年は背後に待つ馬にそう告げ、近くの木に括り付けておいた紐の逆端をもって洞窟の中に消えて行った。そんな青年の背中を押すように馬が嘶いて、青年はその口角を薄暗い洞窟の中でにやりと歪めた。
青年は歩き続けた。手に持った長い長い紐がぴんと張りつめて、もう余りがないことを主張するまで歩き続けた。二百メートル分の紐を持ってきていたはずなのに、それがもう切れてしまったということはもうそこまで歩いたということだ、と青年は考えた。しかし、青年は別段怯えることはなかった。なぜならそれは青年の計画通りのことであったのだから。
青年はロープを地面に投げ捨てて、背中に背負った袋を器用に片手でじめんにおろす。右手は松明を持ったままで、左手で袋を開けて中からまた新たな袋を取り出す。それに加えて新たに金属の棒を取り出す。それは一見松明によく似ていて、青年は右手に持った松明の火を左手に持った金属の棒に近づけていく。数秒後、その金属の棒に火が灯り、青年は満足そうに頷いた。それは油を染み込ませ、油を貯蔵しておくことで松明の代わりになる高価な道具であり、松明を大量に持つ必要がなくなる優れものであった。今まで持っていた松明を地面に立てて、右手でその金属の棒をもって進む。歩きながら、左手に持った袋と金属の棒を金具で合体させ、時折袋に左手を突っ込んでは地面に何かばら撒いていく。それは目印だ、迷わないようにするための。
青年は進んでいく、左右に曲がりくねった一本道を。その青年の足取りに迷いはなく、その青年の足取りを邪魔するようなものは全く存在しなかった。
それからどれだけの時が立っただろうか。青年の時間間隔からすれば、数時間と言ったところだろう、そう青年は考えていた。はたしてそれは間違っていなく、青年が洞窟に入ってからおおよそ4時間がたった頃合いだった。暗く狭い一本道の洞窟を松明を頼りに歩き続けていた青年は、ついにそれの終着点に辿り着く。どれだけ深くに降りてきたのだろうか、そういった感覚は既に青年にはなかった。ただわかるのは、大分深くまで降りてきたなということだけだった。
狭く暗い一本道はその場所で終着点を迎えていて、そこは大広間になっていた。どこからか空気が流れてきているのだろうか、明かりもない洞窟ながらも、空気は青年の想像よりも清浄だった。
大広間とわかったのは頭上がたかくなっていたからであり、青年はそれを確認しその笑みを強めたのだった。青年はその金属の棒を使って、大広間の壁を照らしていった。壁伝いに歩いて行って、どれほどだろうか。青年の足がとまり、青年は壁をじっくりと見つめて行った。火によって明るく照らされた壁には何かの文字が彫られていて、それに青年は目を奪われているようであった。一般人は読むことのできない沢山の文字と沢山の記号が彫られていた。
しばらくして、青年はその顔を喜色で染め上げた。まるで探していたものをやっと見つけだした子供の様に顔を綻ばせた。実のところそれは青年の探していたものそのものであって、それこそが青年の仕事であった。しかし数秒後、その喜色に満ちた顔は瓦解していった。まるで仮面が剥がれ落ちるかのように笑みはなくなり、そこに残ったのは深刻そうな表情だった。青年は何かをじっくり考え込み始めた。
それからまたしばらくの時間が経った。青年は青年の仕事の大部分が終わったことを確認し、何を伝えるか、どう伝えるかを考え終わった。青年の残りの仕事は洞窟からでてその情報をしかるべき場所に伝えること、青年は正しく仕事を理解していた。彼はまた壁伝いに大広間を歩き、大広間への入り口、つまりは出口を探し当てた。あとはこの道をまっすぐ進み、洞窟からでるだけ。青年は肩の荷が降りたような気分に陥った。だからだろう、彼は自分の間違いを思い出してしまった。考えないようにしてきたのに、それでも思い出してしまった。
青年は肩をすくめて、自分自身が犯した間違いを頭の中で再度確認していった。青年には小さい頃から共に育ってきた親友がいた。社交性に富む彼にとって友人は星の数程入れど、本当の友だと胸を張って公言するのはその人1人であると断言できるほど大切な親友であった。そんな彼と青年は昔から約束をしていた。隠し事をせずに、真なる情報を共有しよう、というものだった。親友は青年に対し、それを誠実に守ってきていたし、それは青年とて同じことだった。それを守るのが青年にとって彼との友情の証であった。実のところ、親友からしてもそれは同じ事であった。
ただしかし、青年は生まれて初めてそれを裏切ったのだ。重要な情報を彼は親友に告げたのだ。ただしかし、青年は言えなかった。その重要な情報に隠された哀しい悲しい事実を、彼は告げられなかったのだ。幸せそうな声を聴いて、幸せそうな光景を見て、それを壊してしまうのは申し訳なく感じたからだ。ただしかし、それは今思えば失敗だった。
それが彼の間違いであり、裏切りであった。彼は思う、今すぐにでも親友に伝えるべきだと。ただ然し、それが何故できようか。親友には仕事があり、青年にも仕事がある。特に青年のそれは、私事でそれを遅らせては、あまりにも多くの人々に危険が生じるかもしれない仕事だった。だから、青年は謝ろうと思っていた。次に会ったときに親友に、深く深く、今日の事を詫びようと思っていた。
青年は知っている、それを親友に告げても、軽く怒ったあと、親友は軽く笑って許してくれるだろうことを。親友はそんなことで自分を叱ってはくれないだろうと知っていた。ただただ笑い、そして許してくれる光景が目に浮かぶようだった。ただ、想像上のその笑いには空虚な哀しみが含まれていて、その笑い声には苦痛と絶望の色が濃く残っていた。そして、青年はその想像が想像で終わるはずがないとも理解していたのだ。だから、青年の心は暗く落ち込んでいた。親友を裏切り、絶望の淵に叩き落してしまうことを酷く後悔していた。
「すまない、本当にすまない……」
青年はその場で跪き、遠い地で暮らしていくであろう親友に対し詫びることしかできなかった。青年の頬を涙が伝って行き、その量は地面に川を作るかの如く。その夜、洞窟には彼の苦痛に満ちた湿った謝罪と嗚咽が響き渡り続けた。




