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「まずは、おめでとうかな。」
悠里は手を叩き、こちらを祝福してくれた。自分の左手はトリスの腰をいつの間にか抱いていて、自分では全く意識してやったわけではなかったけれども、少しばかり幸せな気分になった。トリスの左腰を掴むように沿えた左手をゆっくりと挙げていき、肩を抱いた。トリスの体を自分のほうに引き寄せて、その柔らかな肩を肩で感じるように。視界の端に見えるトリスの顔は笑っていて、けらけらと笑っていて。
「ありがとう。悠里は、どうだった?」
先ほどまで自分の長話を聞いてくれた彼に話を振った。此の世界で長く-確実に自分よりも6年長く-生きてきた彼ならば何か思うところは、感じるところはあったことだろうから。その内容、彼がどこで生きてきたのか、何をして生きてきたのか、誰と出会い、誰と別れ、何を殺し、何を生かしてきたのか。彼はクヴァールと呼ばれている、つまり彼は“8翼”の中の“英雄”という位置にいるということ。10年前、少なくともそれだけ前には彼は此の世界に居て、この世界の歴史に名を残しているということ。何を成したのか、それが知りたかった。
ただ、それは先ほどの彼の言葉と矛盾していた。7年経った、確かに彼はそう言った。つまり、彼の言葉に間違いがあったか、実は市民たちには伝わっていない何かがあったかだ。どちらにしろ、今の彼は人族最高戦力集団“8翼”第4翼“英雄”、確実に自分とは隔絶した実力をもっているし、名を残すだけの結果を残している、若しくは残すのだろう。それを聞くことはとても興味深いことであるし、何よりも疑問に思う。
悠里は、確かに素晴らしい親友だった。義侠心に溢れていたし、弱気を助け強気をくじくという言葉を体現したような奴だった。誰にでも分け隔てなく接し、自分の中の正義を見失わず、ただそれだからといって自分の正義に溺れていなかった。自分はそんな彼が眩しくて、でもそれでいて実は少しばかり弱弱しいところもあって、だから好きだった。
彼は柔和な笑みを崩さずに、右手を顔の前に持っていき、左手で右手首を握りしめた。それは彼が話し始める前に行う癖のようなもので、僅かな時間に何を話すか決めている証拠だった。そんなことも自分は知っている、7年経っても全く変わっていない彼の所作を見て、とても安心する。右手首を掴んだまま、左手の指をぐにぐにと動かしていく。もう少しばかりすれば、彼は話し始めるだろう。ほとんど考えがまとまってきている証拠だ、自分は嬉しくなった。
彼が口を開くまでの数瞬で、彼と地球でやってきたことが脳裏を駆け廻っていく。小さい頃、共に街中を駆けまわっていた。小さい頃、共に様々な悪戯をした。数少ないながらも電動車が残っていたから、それに引かれそうになったこともたくさんある。基本的に大通りにしか路面電車は走っていなくて、それ以外は人々が歩いているか、電動自転車しかなかったから、何も考えずに走っていたものだ。電動自転車に引かれそうになることもあったが、それよりも電動自動車のほうが多かったのは、その数ゆえか。稀すぎて、それに対する注意が散漫になってしまっていたのだろうか。そんな危険から逃げ回りながら、インターホンを押しては逃げて、押しては逃げてということを繰り返していた記憶。小学生の頃の記憶だろうか。一度近所の爺につかまってこっぴどく叱られたものだっけか。
中高生になってからは、公園地下の施設で延々と本を読み漁ったり、適当にボードゲームで遊んでいたりした。小学生のころは走り回っていた自分たちも、中高と段々時間が経つにつれて静かになっていった。それは精神面で落ち着いてきたからかもしれないし、何かかっこつけていただけかもしれない。今もそうかもしれないが。どちらにしろ、悠里はボードゲームが強かった、それが記憶に残っている。それも将棋であったり、チェスであったり、そういった古典的で戦術的なボードゲームを得意としていた。そのジャンルになると、自分は20回やって1回勝つかどうかだった。それも、向こうのミスに乗じてであったり、ハンデを着けて貰ったり、そういったことが無ければほぼ勝てなかったのだ。それが彼の才能であると、自分は薄々感じ取っていた。自分たちは学校の勉強はそこまでできなかったけれど、他のこともあまり得意ではない自分とは違って彼はそういった才能を持っていたのだ。自分が人に自慢できるのは、本を読む速度が速いということだろうか、お陰で結構な数の本を読むことができた。はたしてそれが役に立つかはさておいて。
そこまで思い出して、懐かしい記憶に酔いしれていると、考え終えたのだろう彼が話し始めた。随分と年を取った彼は、自分とは違い要点だけを話すと語った。
「何分長過ぎるんだよ。君はさっき1年のことを話すのにあれだけ時間をかけただろう?俺が同じように説明したんじゃ日が暮れてしまって、次の日の夜明けになってやっと終わるかどうかってところだ。だから、この7年間を簡潔にまとめるよ。それをさっきは考えていたんだ。」
「わかってるさ、何年付き合ってきたと思ってる?」
「明日香、うん。大丈夫、ごまかしはしないし、伝えたい点はしっかりと伝えるから。」
そうして彼は語った、この7年間何をしてきたのかを。
「俺はさ、明日香と歩いてて、話してたのを今もくっきり思い出せるよ。確かあの時巷を騒がせていた殺人事件の話をしていたろ?馬鹿な俺たちなりにも推理を、いや妄想をしていたもんな。」
「ふと気が付いたらさ、村の中心で倒れていたんだ。全く知らない場所でさ、周りには見たこともない服装の人たちがこちらを覗き込んでいてさ。吃驚したよ。何を言っているかわかるけれど、声を上げても向こうに伝わっていないし。西洋人が自分を取り囲んでいる、皆が皆質素な布を纏っている、恐怖だったね。ただ、そのうちに彼らの1人が僕を発たせてくれてね、とりあえずついてこいって言ってくれたんだ。」
「ついていっていると、途中で声が聞こえてきてさ。明日香も聞いたろ?あの声、俺すげー驚いて。ビックリして立ち止まっていたら、村人に引っ張られて日陰に座らされた。言語は全く通じなかったから、地面に絵を書いたり、文字を描いたり、身振り手振りで伝えようとしたり。結局わかったのは、ここは日本じゃないってことと、中世ヨーロッパのような、それも中世初期のような世界だってことだったかな。それもちぐはぐとしていて、根幹は中世初期なのに、所々末期の技術が混じっていたり。周りを見渡せば木造の家々と、遥か遠くに森と山、それに畑、畑、畑。目の前がくらくらしたね。」
悠里はそうやって言葉を話している間も、両手をめまぐるしく動かして身振り手振りを交えていた。もともとそういったことを良くする人だったけれども、それが大げさになっているのを感じた。
「まあ、最後には共通語を習得する方法がわかって、何とか言葉が通じるようになったんだ。驚いたね、まるでゲームみたいだなって。あの地下施設にあったさ、昔のゲームによく似てたから。それでさっきの声の意図するところがわかってさ、ゲームの中に閉じ込められちゃったんだって思って。」
「村の人が優しくてよかったよ。こんな意味不明なことを話していて、どこから来たかもわからない不審者に常識を教えてくれたんだから。そして、この世界で生きていく方法も教えてくれたんだ。どうやって生きるか、畑を耕したり、モンスターからドロップアイテムを入手したりね。そのうちに、自分がどこにいるかもわかってきた。グラスグリン聖王女領だよ、意外だろ?まあ、そこで1年くらいずっと村の人たちと生活していたかなぁ。長閑な村だったんだよ。」
彼はそこで話をいったん切って、大きく息を吐いた。まあその平穏は長く続かなかったんだけどね、と彼は小さな声を漏らし、話を続けた。
「運が悪かったのかな、特級モンスターがさ、何故か迷い込んできて。あとあと話を聞いてみれば村の近く-まあ結構離れていたんだけど-そこにあった竜種の卵に寄生していた虫でさ、竜種の幼生は退治されたんだけど虫は逃げたらしかったんだ。腹を減らし、傷を負ったそれによって村は壊滅。運よく俺とあと数人が生き残って、あとは重傷を負った数人が倒れている状態、地獄絵図だったよ。」
「生き残った俺たちは必死に研鑽したさ。村をめちゃめちゃにした奴が許せなくてさ、同じような村を作ってはいけないって思って、俺ともう一人は冒険者になった。ほかの生き残りは違う村に散っていったね。」
修行過程は省くよ、彼は語った。続けて彼は語る、何故彼が人族最高戦力集団に入ったのかを。




