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或る世界の軌跡  作者: 蘚鱗苔
13 遠い遠い地で
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 その言葉が自分とトリスの間に投げかけられた。ご名答、よく御存じで、そう答えようとして、一瞬、頭の中が空白になり、何も考えることができなくなった。意味を理解するのに、数秒間。意味は自分がなんとなく考えていたものとほぼ同じで、そこに疑問点はなかった。しかし、その状況を理解するのに、追加で数秒間。それだけの時間が経ってから、状況の異変、不自然さ、不可解さに気が付いて首をぐるりと回す。

 声が聞こえてきた方向へ、自分の左側、向き合って立つトリスの右側。ガルムやテンも現実を認識し、そちらのほうに向きなおる。先ず首を左に向け、それに遅ればせながら数秒後体も左を向く。体は何時の間にか身構えていて、左手でトリスを背中側に押しやっていて。目の前には林、至って普通の林、遥か遠くまで続いていく林。遠く遠くは暗く、木々の幹に隠されていって、途中からさっぱり奥が見渡せない。太陽の光が差しこんでいるけれども、よく茂った葉に誤魔化されていて、薄明りで照らされた程度の部屋のような。電球が切れかけた部屋の状況に似ている、少しばかりの風が葉を揺らし、その度に部屋に当たる光量は変わっていくような。少しばかり明るくなって、暗くなって、明るくなって、暗くなって。

 がさり、がさり、目の前の木、それの後ろの木の幹の影から出てくる影。隠れていたのだろうか、自分たちは全く気が付かなかった。自分は動揺していて、目の前の状況さえも見えないほど我を見失っていた。トリスは自分を気にしていて、周りをみることができるほど余裕があるわけではなかった。確かに自分とトリスはそんなことに気を向けている暇なんて、余裕なんてなかっただろう。ただ、ガルムとテン、シェムは違っただろう。確かに自分が動揺しているのを見て何か感じたかもしれないが、野生に近いモンスターたちが、鼻が良くて耳も良いモンスター、空から見ることができるモンスター、低い場所から見ることができるモンスター、それらが気が付かないなんてことはどう考えてもおかしい。いくら飼い馴らされているとはいえ、人間よりか確実にそういった面では上なのだろうから。

 影は右手で幹を掴み、幹に体を預けるようにしてこちらを見ている。白銀の鎧、薄暗い中でも数少ない光を反射し、煌めいている鎧。兜は滑らかなカーブを描いていて、目元だけが横長に割れている。影の影響だからだろう、割れ目の中を伺うことはできなくて、顔を見ることは当然叶わない。身長はそこまで高くなく、武器を大量に装備しているようにも見えない。腰に差した1本の剣が見える、鞘に入っていて、刃を見ることは叶わないがそれでも結構な長さがあることは見て取れる。ナイフのような長さではない、ただ両手剣というわけでもない。周りに仲間の姿はなく、ただどこに隠れていたのか、森の奥から馬がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。強大な馬だ、太い足、身体は白銀の装甲に覆われていて、それでいて重さを感じさせない軽い足取り。


 「ああ、警戒しないで。」


 そう男は告げると、此方にむかって歩いてくる。聞いたことがあるような、特徴のあまりない声だが、それでも少しばかり癖がある。なんとなく、滑らかには聞こえない。がしゃりがしゃり、白銀の鎧が音を立て、一歩一歩こちらに向かって近づいてくる。距離は縮まっていき、その彼が持つただならぬ雰囲気に体が飲まれてしまいそうになる。ガルムが呻り始める、顔を低く下げ、下から覗き込むように。後ろに立つトリスが息を飲む。


 「ガルム、やめろ。お前ではどうしようもないし、俺でもどうしようもない。さてさて、こんなところに何の御用ですか、8翼さん。」


 胸に刻まれた、盾の紋章。そこから生える8枚の羽。8翼、人族最高戦力である集団、そのうちの1人が目の前に。ガルムは呻ることをやめ、自分のほうに寄って来る。シェムは自分の肩に停まり、テンを後ろでトリスが抱き上げる。


 「邪魔だったら戻る。」


 そう告げて、踵を返そうとする。自分とは遥かに離れた化け物に近い人、それの期限でも損ねてしまったらどうしようもない。森の中、対処法もない。まあ、まるで敵のように扱ってはいるが、当然そんなことはないだろう。ただ、無理に問題に足を突っ込む必要はないだろうと思う。わざわざそんなことをする必要はない、人族最高戦力が1人がこんなところに居るのだから、何か大きな問題がここで起きるであろうことは、起きているであろうことは想像がつく。わざわざ見えている地雷を踏むような馬鹿ではない。


 「用事はないさ、只の冒険者だったらね……」

 「そうですか、ではどうも、ご武運を。トリス、行こう。」


 白銀の鎧の主が声を掛ける。自分は、踵を返して彼に背を向け、声を少しかけて去っていこうとする。


 「待て、待て、お前、明日香、待てよ!」


 大きく踏み出した足が硬直し、彼女の手を握っていた自分の掌が大きく開かれる。ぶらりと垂れ下がる掌、前に踏み出すはずだった足は下に落ちる。今なんていった?明日香、と言ったか?明日香、アスカ、自分の名前だ。ただ、あのイントネーションは、アスカとは違うイントネーションは。この世界で自分の名前は珍しめだ、故に自分の発音通りに皆発音してくれる。ただ、そのイントネーションは、それだけは。今までの人生で、アスカ、とは違うイントネーションで呼び続けた人は少ない。ほとんどの人は皆自分が訂正するとそれに変えてくれるのだ。その中で、彼のイントネーションは特異だった。どんなに訂正しようにも、あだ名だと言って頑なに変えようとしなかった。その呼び方が、今自分の耳に入った。

 異世界だ、自分が住んでいた、生まれた世界ではない。彼が生きた、彼とともに過ごした世界ではない。確かに共に歩いていたさ、あの時、あの場所で。だから、自分は足を前に踏み出すことができなくなってしまった。彼女の手を引いて真っ直ぐ逃走することができなくなってしまった。それが誰にしろ、その呼び方をする人の顔を見なければならないと感じたのだから。そして、その呼び方を、その声で言われて、振り返って話を聞かなければならないと感じたのだから。耳に残るその声で、懐かしい呼び方で、嗚呼、まさか、そんなことは。


 顔をぐるりと回す。体をぐるりと回す。今さっきまで駝鳥のようなモンスターを血抜きの為に吊るしていた場所に向かおうとしていた体は、白銀の鎧に相対するように向き直る。斜め下を、目印がわりの布を見つめていたはずの両の眼は、白銀の兜の割れ目を凝視している。唇が一気に乾燥してしまったような、ぱりぱりと上下が引っ付いている。無理矢理それを剥がして、隙間から舌を出して唇を湿らせる。隣に立つトリスが不安そうにこちらを見つめているのが横目に見える。ガルムは自分の太腿あたりに立っている。

 割れ目から、息を大きく吸い込んで声を出す。声が狙うのは、兜の割れ目。割れ目から割れ目へ、声という銃弾をまっすぐに、突き刺すように、聞き洩らしがないように。自分は8翼に問いかける、届くことはないだろう高みに問いかける、どうしてもしなければならないことなのだから。


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