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少年は歩いていった。日の下を何分も何分も、どれだけの距離を進んだのだろうか。少年の目には遥か遠くの街のみがあって、それ以外は何も映していなかった。ぼんやりとした視線、半目というほどに閉じられた瞼、ぴくぴくと目元が痙攣していた。ふらふらとした足取り、泥酔したのではと思うほどに笑っている脚、ぶらぶらと腕が揺れていた。その頬は、口元は引き攣り、唇は弧を描いていた。あいた口からは少しばかりの息と声、ざくりざくりと地面を踏みしめて。
大分少年の前にあった街は近づいてきた。500メートルほどにまで近づいてきた壁。木でできていて、外部からの侵入を妨げるための、自衛の為の壁のようだった。道はそこへと続いていて、壁の間道の先に小さな門があった。
「あそこから、入るのかな?」
少年の口から言葉が零れる。縁にしがみついて、未だ捨てきれていない希望に縋っているような声だった。
街ならば、人は必ずいるだろう、そう少年は考えたのだった。それは間違っているはずのない事実のように思えた。例え先ほどの盗賊達が逃げていった方向だとしても、街の姿はその道を進む勇気を与えたのだった。確かに、街から煙があがっているなんてことはないし、門から命からがら逃げ出す人々がいるわけでもなし、門や壁に死体が吊るされていて汚れているなんてことはなかった。
それを確認して少年は安心して近づいたのだった。今だ少年の心の中には先の光景が焼き付いていた。仮定とは違う、予想を大きく外れた光景、馬車のなかに人がいなかっただとか、男だったなんてことはなかった。助けるべき対象であった女性がそこにいたのだけれども、無事ではなかったのだった。それは、希望と期待に道溢れた少年の頭を後ろから煉瓦で殴りつけてきたことに等しく、世界はその程度のモノでしかなかったと少年に思わせるのには十分だった。ただ、それでも少年は諦めることができなかった、残念なことだったけれど、これを糧にして勇者は成長するのだ、少年の頭の中の未だ夢物語を紡ぐ映写機は止まっていなかった。
門へと近づいていく少年は彼を囲む光景に視線を走らせた。周りには誰もいず、衛兵の姿も見えなかった。大きな大きな門だけが少年を待ち構えているように少年からは見えた。
「誰か!開けて下さい!入れて下さい!」
少年は門を思い切りたたき続けた。何度も何度も何度も、木でできた扉とはいえ、かなりの堅さを誇っているだろう物に握った拳を打ち付け続けた。周りにはその音しか響かないような、まるでホラー映画で叩かれる扉の如く、少年は叩き続けた。喉からは声を振り絞り、遮二無二呼びかけ続けた。少年の耳には入っていなかったが、街の向こうからは微かにその喧騒が漏れていて、確実にそこに人はいた。しかし、聞こえていない故に少年は不安で叩き続けた、視野が狭くなるのと同じように聴覚もその働きが阻害されてしまうことがあるのだろう、少年は叩き続けた。
「誰か!誰か!お願いします!誰か!」
そうして叩き続けること1分もしないころ、門の少年の額ほどの高さに位置していたのぞき窓が開いた。普段は木の板を嵌め込んで中を覗けないようにしているそれを動かし、衛兵はそこから外を覗き込んだ。彼は昼を食べに休憩をとろうとしたばかりで、故に反応が遅れ、故に苛々としていた。ぎょろりと睨むような視線が少年をとらえ、そしてその眼は大きく見開かれた。少年はほどなくそれに気が付き、そうして声を掛ける。
「開けてください、お願いします!困ってるんです!助けてください!僕はきっと勇者になります!助けて!」
少年の必死の懇願をよそに、衛兵は門の向こう側で口を醜く歪めた。頬は震え、指先には力が入った。彼を襲ったのは憎悪だった、怒りだった。大切な楽しみにしていた昼の時間を邪魔されたという怒り、そして横やりを入れた人物がどうしようもないものだったということに対する嫌悪と憎しみだった。
衛兵を呼ぶ声が彼の後ろから投げかけられた。昼をともに食べる約束をしていた同僚からだった。どうした、飯はまだか、商人か、冒険者か?普段ならあそういった人物しかこの街にくるはずもなく、同僚の質問は普段ならば的を射ていることは確実だった、普段ならば。
「違うわ、気狂いだ。最悪、何か喚いて嫌がる、なんでこんなんが外にいるんだ。医者は何してんだ?保護者は何してんだよ。」
「気狂い?放っておいて飯くいに行こうぜ。気狂いなら別にお咎めないだろ。」
少年はその言葉を聞いて、誰が気狂いなのだろうと思考した。周りを見て、そこに誰もいないことを-自分以外の誰もいないことを-確認して、頭を抱えつつ声を張り上げた。僕は気狂いなんかじゃない、話せるだろ、誤魔化すなよ、と。少年の頭を支配したのは、皮肉にも衛兵と同じ怒りと憎しみだった。
そうして声を張り上げる少年を睨み、衛兵は捨て台詞のこし去って行った。覗き窓には木の板がはめ込まれ、それは絶対的な拒絶を示していた。
「あうあう、あうあう、うるさいんだよ。人族の言葉を覚えてからきやがれ成り損ない。」
少年は門の前でしばらく動かず立っていた。彼の頭の中には先の台詞が反芻されていた。ぐるぐる、ぐるぐる、そうして何度何度反芻しても、最後には覗き窓が閉じられた。目を開けて目の前を確認しても、覗き窓は未だ塞がれたままで、もう二度と動くことはないように思えた。衛兵の視線を思い出した、嘲笑と憎悪に塗れた視線を思い出した。
そうして、少年はそれを最後に考えるのを止めた。
けらけら、けらけら、少年は口から音を漏らしながら、そこらに諦めをこぼしながら元来た道を戻っていった。足取りは行きよりも確かで、しかしその背中には弱弱しさがにじみ出ていた。そうして、歩いて歩いて馬車の近くまで戻った。
そこには先ほどの盗賊が戻ってきていた。どこかに隠れていたのだろうとか、少年は考えることはしなかった。ただ口から笑い声をこぼすだけ、しばらくもせずに盗賊が少年を見つけた。
盗賊は5人ほどいて、2人は外を見ていた。故に少年に気が付き、馬車を漁っていた2人を呼んだ。宝を、金目のものを漁っていた2人は少年を見て、うすら笑いを浮かべ馬車の中へと声を掛けた。しばらくして、馬車が大きく揺れた。そうして扉の中から出てきた1人の男、図体は大きく、そしてズボンをはき直していた。口は歪んでいて、何か愉しいことを探している男だった。
5人組の盗賊のリーダー格の男は、少年を見つめて笑った。憐憫と嘲笑と、酒のつまみにしてやろうと盗賊は思った。そして、腰に差した剣を取り出した。
部下に命じて、男は少年を押さえつけさせた。少年は全く抵抗を見せずに、歪んだ割れ目から音を生むだけだった。男はまず指を削いだ、腱を切った、鼻を落とした、目に剣先を突き入れた。ただ、それでも少年はけらけらと笑っていた。
豪胆さと冷酷さを併せ持つと自称していた男ですらも、その姿には気色悪さを感じ、恐怖を感じ、嫌な物でも見たような視線に変わった。剣がきらめき、押さえつけられていた人の首が飛んだ。
ころころ、ころころ、頭は転がった。盗賊たちは汚らわしいものに出会ったかのようにそそくさと荷物を準備し、そして足早に立ち去って行った。残されたのは、半壊した馬車と、死した馬と、死んだ御者の体とその首、そして学生服姿の少年の体だった。何の因果か、少年の頭はころころと転がっていった。少しばかり傾斜のある道にそって3メートルほど転がったのち、顔を空に向けて止まった。其の水晶体は空を、雲1つなく太陽が煌めく青空を保存していった。
或る国の西部の、或る街の近くを通る、或る小さな街道で起きた襲撃事件は暫くしてその街に向かって移動していた商人によって報告された。衛兵たちが向かうと、腐臭に溺れた半壊した馬車とそこらに転がる腐肉と骨を確認した。折れた矢などから衛兵は盗賊による襲撃事件と断定、最近増えつつあった盗賊の討伐作戦の予定を早めることを相談することに決めた。そして、半壊した馬車を、そこらに転がった腐肉を、骨を、布を、馬の死体を、それらを1つの山にしたてあげた。誰かが火魔法を使った、めらめらと燃えていく馬車。暫くして後そこに黒い炭の山ができたことを確認し、衛兵たちは街に帰っていった。よくある事件故か、衛兵たちの心に突き刺さるということはなかった。それは死体が皆腐敗しモンスターに啄まれていたからかも知れなかった。
空は相も変わらず青く澄んでいた。




