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或る世界の軌跡  作者: 蘚鱗苔
11 新たなシシン
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 ユカに杯を渡す。小さな木の幹をくりぬいて作ったような器になみなみと注がれたワイン、それを見てユカは目を瞬かせる。それはそうだろう、自分だって最初は驚いたものだ、日本の常識なんて通用しないことはわかっているだろう?そんな目でユカを見ると、どうやら理解したのか器をこちら側に寄せてくる。手に持つ木を貼り合わせたような歪な器に、そしてそこになみなみと注がれた赤い液体に目を傾けつつもそれを持ち上げる。トリスも自分の木でできた器を持ち上げ、そして3つの器が空中で音を立ててぶつかる。少しばかり零れた液体が指にかかるが、別段気にもならない。喉をゆっくりと燃やしていく液体、鼻にはつんと酒独特の臭気が抜け、器から離した口から思わず息が漏れる。トリスはゆっくり飲んでいるようだ、自分は疲れに身を任せ口に含んだというのに。

 一気に結構な量飲んだからか、口が焼けるようだ。100ミリリットルも飲んでいないだろうに、本当に疲れていたのかもしれない。ユカを見れば、恐る恐る口を近づけている。それはそうだろう、この世界とあの世界ではあまりにも違いすぎるのだから。彼女はワインを飲んだことはないだろう、自分もここにきて初めて飲んだ、だから恐る恐る口を近づけている。これは、これで、彼女はこの世界になじむのかもしれない。少なくとも、これはそのファクターの1つとなりえるだろうから。

 杯を渡す時に、一言告げた。この世界では成人はもっと若いと、そしてこのような酒は非常に重要なものだと。水だけを飲んでいたいか?どんなときにも水、ジュースや炭酸や茶なんてほとんどないも同然だろうに。保存という観点がその理由だ。保存という意味では、ワインは非常に優れた飲み物だろう、数年物でも何の問題もなく飲めるのだから。


 つまみはチーズと塩漬け肉、そしてライ麦パン。対していつもの食事と変わりなく、豪勢でもない。イカの刺身だとか、炭火焼肉だとか、ハンバーグだとか、そういったものを食べたいがこの世界には存在しない。もしかしたら、ハンバーグくらいならあるかもしれないが、肉団子に近いだろうか。他に食べることができるのは、煮物系列とシチューのようなもの、つまりは汁物が多い。煮ることにより、汁物にすることにより、素材が固くても柔らかくすることができるし、栄養分を効率よく摂取できるとか、食べやすいだとか、体を温めるのに最適だとか、理由は沢山ある。鮮度をキープできないのも理由の一つだろう。生肉を焼いて食べられるほど新鮮なものを手に入れづらい、保存しづらいのだから保存食が多い。それらは基本的に硬かったり、塩に浸かっていたり、そのまま食べるには支障があるんだから仕方がないだろう。

 ユカは肉と野菜をとろとろになるまで煮詰めた、まるでビーフシチューを煮詰めたようなものをおかずにパンを食べている。良い匂いがする、あれはどのようにして作っているのだろうか。恐らくただただ煮詰めていくのだろうが、どのような調味料を使っているのだろうか。一口もらったが、甘くそして塩気も程よく、肉も野菜も口の中でとろけていく、まるで歯がいらないほどに煮込まれていた。ただ、自分たちでは作れないだろう。1日近く煮込まなくてはあそこまでにはならないはずだ、手間がかかっている。そんなことを考えながら、チーズを齧る。塩気が強い発酵食品、これも保存食、今度はこれも買ってから外にでかけることにしよう。色々と買うものがある、メモをしようにも書くものはないが、頭の中に書き溜めておく。


 トリスは途中から酔ってきたのか、ぐびりぐびりと勢いよく飲んでいく。疲れているのか、酔いが回るのが早いような気がする。いつもは彼女はそんなに早くは酔わないというのに、自分も少しばかり酔ってきているような。椅子に座っているのにぐらぐらと体の芯が熱くなり揺れている、今日は早めに寝ることにしようか。

 ある程度食べて腹が膨れたところで席を立つ。時刻はまだそこまで遅くはない、19時かそこらだろう。トリスは足元が少しばかり覚束ないようだが、ただ意識ははっきりとしているし問題はない。ユカは酒に弱かったのかふらふらと顔を真っ赤にしている。その肩を抱き、宿に向かって歩いていく。部屋は一応別にとってある、ここらの金は貸しにしてあるのだ。ただ、別段帰ってこなくても構わない、これはこの世界に来た同郷の者への軽い心づけと思えばいいのだから。ただ、こうも酔っぱらってしまってはやっぱり面倒だ。素直になって可愛くなったかと思ってみたが、手のかかる生意気な娘にまた戻ってしまった。ぐちぐちとこの世界に対する文句を小声でつぶやいている、やれ風呂がない、やれコンディショナーがないから髪が傷む、やれ足が疲れた、駄々っ子に等しい。


 宿屋の部屋、自分たちの部屋より少しばかり狭いベッドにユカの体を横たえる。これで明朝にまた見に行けばいい、とりあえずは対処は完了したのだ。結構な疲労感を感じつつも、恐らく明朝に見ることになるであろう二日酔いに苦しむ彼女を想像して少しばかりげんなりする。明日は彼女の職探しを手伝ってやろうと思っているのだが、それに支障がなければいいのだが。

 部屋に戻り、トリスの元に。トリスはベッドに座り、へらへらと笑っている。その横に座り、そろそろ寝るぞと声を掛け、左手で肩をもってベッドに押し倒す。


 「血が欲しいなぁ。」


 舌なめずりをしながら笑う彼女、その白い犬歯は艶めかしく、思わず喉を鳴らしてしまう。自分も結構酔っているのかもしれない、彼女の口を肩に持っていく。横になって吸血するのは初めてのことだろうか、傷をつけて啜るだけなのだから特に問題ないと言えばそうなのだが、それでも初めてのことは少しばかり緊張する。


 首筋をちろちろと舐めていた舌が離れていく。その感触が少しばかりさびしいような気がして、もっと啜っていてほしいような気がして、彼女を強く強く抱きしめる。ふぁ、悦に入った声を漏らしながら金髪の少女は笑い、そして頬をぺろりと舐めてくる。それに少しばかり興奮して、そして愛おしくなって抱きしめる左手の力を強くする。吊るしている右腕が無理な姿勢に少しばかり悲鳴を上げて、しかしそれを顧みることはしない。唇をゆっくりと彼女の赤いそれに近づけていって、彼女はゆっくりと目を閉じていく。柔らかな感触を唇で感じ、そして舌を伸ばそうとして……

 聞こえてくる、少し傾けた顔の頬に当たるその鼻息に気が付いて思わず笑ってしまう。寝るのが早すぎるよ、トリス。ただ、自分も笑ってはいられないのかもしれない、段々と瞼が重くなってきた。嗚呼、何故だか遠くに雷鳴が轟く音が聴こえる。土砂降りの雨が聴こえる、幻聴か、昼間のそれが耳に残っているのか、天窓から微かに漏れてきているのか。

 ざあざあ、ざあざあ、ざあ……




 体を思い切り揺さぶられるような、全身の水分をめちゃめちゃに掻き混ぜる様な感触で目を覚ます。瞬時に体は反応して、起き上がろうとさせると何もできない。耳には轟音鳴り響き、建物が崩壊するのか?いや、地響きか?脳が頭の中でぐしゃぐしゃにかき回されているのではないか、そう思うほど目の前が揺れて歪んで、あまりの衝撃に体を動かすこともできない。縦揺れ凄まじく、地面から突き上げられて、放られて、ジェットコースターに横たわっているような、そんな経験はないが、そう例えるのが当てはまるような揺れに襲われている。遅れて起きたのだろうトリスが悲鳴を上げ、これだけ揺れているというのに自分にしっかりと抱きつく。吊っている右腕が左右に揺れ、そして金具が外れ布団の上にぼとりとおちる。包帯を巻いた右腕と、彼女の下敷きになった左腕で、胸の中で涙を流しくぐもった悲鳴を上げ続ける彼女を抱きしめる。

 たっぷり数分、無限にも感じる揺れが終わる。頭の中はぐちゃぐちゃで、身体もぐちゃぐちゃで、気分が悪いような、冷や汗が背中を伝ってベッドに染み込んでいく。未だ地面が揺れているような、そんな錯覚を抱きながらもトリスを慰め続ける。あまりの大きな天変地異に泣きわめく彼女、その背中を叩き続ける。


 そして彼女がやっと落ち着いてきたころ、ひっくひっくと声が弱まってきたころ、彼女を離して何とか起き上がる。そして気が付く、大変なことになっているということに。隣で起きだしたトリスがそれをみて、ひっという音と共に息を飲む。

 それはあまりにも暴力的で、鋭くとがっていて、理解するには少しばかりの時間を要する程難解な事実だった。それはあまりにも自然で、理に適っていて、少し考えれば至って普通のことだと気が付く程平凡な事実だった。ただ、それはこの世界に慣れた自分を揺さぶり、妙な現実感と生々しさを覚えさせる事柄だった。そして、それはこの世界で生まれた彼女を揺さぶり、混乱と恐怖の海に叩き落す事柄だった。


 ベッドの下には、大量の荷物が散乱していた。服、皮、袋、石、ぎちぎちという音と共に床が軋んでいた。黒い学生服が見える、ごわごわとした白く大きな皮が見える、石がそこからこぼれ出ている大きな袋が見える、塩漬け肉が入っている筈の袋が見える、パンが入っている筈の袋が見える。それらは積み木遊びをしていた子供が癇癪を起こしたあとのように散乱していて、がしゃりと音を立てて散らばった光景が想像できるほど乱雑に転がっていて。

 そうして、自分は数秒かかって、彼女はもう少しばかりの時間が掛かって、全てを理解した。変革だ、また封印が解かれた、と。前回は死体が消え去らなくなった、前々回は夜の時間が伸びた。至って自然な、地球の常識に近くなったのだ。昼間があれば夜はくるし、それはある程度の長さを持っていてしかるべきだ。死体なんてものは分解されるか風化されるか喰われるかしなければ消えないはずだし、それがすっと一瞬で消えるなんてあまりにもおかしい。物が虚空に消せて、簡単にそれを元通りに出せるなんてどう考えても不自然だし、いちいち大きな荷物を背負って、馬に台車をひかせるなんて光景は極々自然な光景だ。つまりはそういうことだった。


 「アイテムボックスが……」

 「ああ、そういうことだろうさ。」


 事実に気づいてしまえば、周りが慌ただしいことにもすぐ気が付いた。それはそうだろう、あまりの事実に未だ現実感はないが、それでもこれがどうなるのか、何を意味するのかは簡単に想像がつくのだから。素材を運搬する足を用意しなければならない、素材を保管する場所を用意しなければならない、商品を運び売るための場を用意しなければならない、食品を保存運搬する術を見つけなければならない。世界が大きく文字通り揺れるほどの変革、しかも最悪なタイミングだ。先の変革で物が溢れ、飽和し、それでも人々にはアイテムボックスがあったからやってこれた。しかしこれだ、順番が逆だったならまだマシだっただろう。考えることすら怖い、どうなることか、この砦にしろ何にしろ、もっと大きくしなければならなくなるのではないだろうか。自分も、これから冒険するにはアルト達のように荷馬車に武器防具食料を詰めなければならなくなるだろう。彼ら3人組の姿が頭の中に現れて、消えていく。とりあえず、前を見なければならない。遠くのことを思考して、目の前の惨状を見なかったことにすることなんてできない。とりあえず、どうするか。とりあえず、片付けるか。とりあえず、どこに置こうか。とりあえず……

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