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小屋に入る。なかなかどうして、ユカの環境適応能力には素晴らしい物があって、既になんとなくこの世界に慣れ始めている。自分はどうだっただろうか、こんなにもここにすぐ慣れていただろうか、あまり思い出せない。ただ、彼女と自分とでここにきてからの状況が大きくかけ離れていた、それは確実に大きな違いを生み出しているだろう。そして、自分たちと信也との間にも大きな、決して超えることのできない壁をも生み出している。別にユカに感謝してほしいというわけでもない、ただ、この大きな差はどこかで感じてほしい、理解してほしい。そうしてこの世界で生きてほしいのだ、この歪な違う世界の中で。そうすれば、馬鹿な真似はしないだろう、今の自分こそ一番の馬鹿なのだから。
外で体を拭っている間、彼女たちはスープを作っていた。別段難しいことでもない、水を沸騰させてそこに塩漬け肉を切って入れ、野菜を切って入れる。ある程度煮て野菜が柔らかくなってきたところで、そこに塩と胡椒を振りかける。魚醤を加えて味を調えていたのだが、この前使い切ってしまった。またシンシアに行った際に買わなければならない、日持ちの良い液体調味料は使いやすいのだ。塩にしろ胡椒にしろ、いちいちある程度まで砕かなければならないので面倒だし、そうなると使いやすいのは魚醤だろう。そうだ、これを機に他の調味料を試してみてもいいかもしれない。
唐辛子、それがあれば寒いところでも暖をとったような気分になることができるだろう。風邪をひいてしまったり、どうも肌寒い日には丁度良い。しかし、唐辛子があるだろうか、調味料が山のように並べられている市場を見たのはどれだけ前か、あまり覚えていない。ヴァレヌでもよく見なかったし、次の漁業の村では魚醤だけしか売られていなかった。村では魚醤と塩以外ほとんど使わないのだろう、わざわざ高い金を出して買う必要があるわけでもない。味噌はあるだろうか、この前見たときはなかったと確実に言えるし、シンシアでも見ていないような。ただしっかりと見ていないだけでもしかしたらあるのかもしれない。大豆なんて非常に重要な植物のひとつだから、この世界にないわけがないだろう。ただ、それを発酵させたりしているかどうかと言われたら怪しいところだ。酢、これは絶対に買おう。あとはオリーブオイルもあれば欲しいところだ。酢なんて果実酢でも穀物酢でも、どちらでもあることだろう。現に発酵させる文化はあるのだから、果実も穀物もあれば作られているだろう。オリーブオイルは少々怪しい、オリーブがこの世界にあるとは限らない、ただ他のもので代用されてはいるだろう。料理があるのだから、油があることは予想できる、もしかすると脂かもしれないが。
体を拭い終わり、新たな服を着て小屋に戻る。なかなかどうして、しっかりと夕食の準備はできあがっていた。スープで終わりかと思っていたら、火で炙った塩漬け肉とライ麦パンも用意してあった。彼女たちも体を拭うべきだが、先に食べてしまおうか。
火で炙られて、少しばかり硬さが増したライ麦パンをがりがりと噛み砕く。スープにつけてばかり、柔らかいパンばかりでは飽きてしまう。少しでも触感に変化を入れなければ。こんなことを考えてしまうのはユカが口に出したからだろう、ぼそりと一言、ヴァリエーションがない、と。シンシアの砦に住めばそれは改善されるだろう、質素なものであることに変わりはないが。日本にいたころのように、毎日違う食材をふんだんに使用して、様々な調味料を混ぜ合わせて多種多様な料理を楽しむというものはこの世界では夢のまた夢だ。食事に余裕を持つなんて金をもふんだんに使う結果になるのだ。そうユカに言う。わかるだろう、中世ヨーロッパでは香辛料が金と同じかそれ以上に高価なものであったし、日本の2度目の黎明期、第二次世界大戦後では食事は裕福な遊びであったのだから。
この世界にはまずないものが多い。醤油やマヨネーズなんて存在しないし、醤油はもしかしたらあるだろうが、マヨネーズなんて保存性の観点からみても少々よろしくないので絶望的だ。未だ自分はケーキなんてものをこの世界で見たことはないどころか、クッキーでさえそうそう見たことはない。逆にトルティーヤのような、フォッカチオのようなものは見たことがある。つまりはそういうことだ、この世界は日本人のそのままの基準では生きにくい。
だから、認識を改める必要がある。前までの価値観なんて捨ててしまえ、この世界に骨を埋めればいい。自分はそうした、そろそろ1年も経とうとしているころ、思えば長い道のりだった。ユカに言い聞かせている筈なのに、自分にも少しばかり思うところというか、含むところがある。
晩飯を食べ終わり、トリス達は体を拭いに外に出る。自分はシェムの体を拭ってやりながら、その艶やかな羽に指を滑らせる。ガルムも外で水を浴びているし、テンは水分補給に向かった。こうしてシェムと2人、いや1人と1匹というのは初めてのことかもしれない。にこりとこちらを笑う死した妖精の少女、声は出さない、出せないがなんとなく感情は伝わってくる。その髪の毛を指先で梳かしてやりつつ、その儚さに目を奪われる。レベルも大分高くなってきた、そろそろ進化、上位種への変化の頃合いだろう。シェムの今のレベルは284、あと16程レベルを上げれば超級と呼ばれるモンスターと同格の存在になる。自分にしても今は292、また長く遠い道のりに入ってしまった。あまりステータスを確認しなくなったのは、あまり戦闘を行っていないからだろうか。日々を生きるのに必死で、細かな単位を覚えていない。まるで小さい頃は全てが気になって、小さな変化にも一喜一憂しているのとよく似ている。そう考えるならば今は大分成長したのだろうか。
がたり、どさどさ、そういった音と共に彼女たちは戻ってくる。髪の毛は濡れていて、艶めかしい。トリスは少しばかり赤くなっていて、どんな話をしていたのだろうか。嗚呼、そういえば彼女はまだ渇いていないだろうか、そろそろ頃合いかもしれない。ユカが寝た時にそれはすればいいが、すっかり忘れていた。
-夜の帳は落ちて、双月が世界を支配する。その中で、寝息を立てる影が1つに大きな影が1つ。しばらくして後影は2つに分かれ、寝息が3つに増えた。それを眺めつつも死した妖精は赤い椅子に腰かけ周りを見渡す。別段今日も異常はない、明日も異常はないだろう、妖精がそんなことを考えながら双月を見上げると、丁度厚い厚い雲がそれを覆っていった。-
自分たちの朝は目覚まし代わりの轟音に迎えられた。小屋全体が震えているような、そんな音で起きると、外は土砂降りの雨だった。何時の間にかテンとシェムは中に入ってきていて、自分が起きたのを見つけるとすっと近づいてくる。テンを抱き上げ、肩に座ったシェムが首を傾げる。あいにくと傘なんてものはない、雨天用のローブを被り、外に出て口を濯ぐ。土砂降りも土砂降り、雷鳴が轟くほどのここにきて初めての強い雨。確かに霧雨であったり、ぽつりぽつりといった雨であったり、寝ている間に強い雨が降ったであろう時は幾度となくあったものだが、ここまでの雨は初めてだ。それはシンシアの周りでは特に珍しいことではないのかもしれないが、ここにきたのは最近の事なのだから何とも言えない。雨具と軽装の服越しに体を雨が叩いていく、それこそ温泉に設置された小さな滝を浴びているが如く、それが全身にわたっているが如く。
足元は既にぬかるんでいて、なるほど今しがた降り始めたというわけではなさそうだ。そうなると、雨音で目が覚めたのではなく、目が覚めたら周りが雨音だったと言ったほうが正しいか。雲は酷く厚く、太陽の姿は見えない。ただ、周りが明るいことから太陽は昇っている、時間がわからないが。酷く面倒なことだ、太陽が昇っていなくては時間がわからないのだから。
小屋に戻ってみれば、トリスが起きだしていた。水筒を取り出して、口を濯いでいる。
「外は見ての通りだ。」
「シンシアまで戻れるかしら。」
「それは平気だろう、ただ面倒くさいというだけだ。もう少し弱くなってほしいのだが、朝飯を食べていれば変わるだろうか。」
「望みは薄いけれど、そう祈るしかないわね。」
そうだ、そう祈るしかないのだ。もしも雨がやまなくても、弱まらなくても、シンシアに戻るしかない。こんなところで足止めされていても、別段やる事はないし時間の無駄なのだから。
ばしゃりばしゃり、それから1時間も立たずに自分たちは歩き始める。未だ雨は降りやまず、雲は大量の水滴を体に叩きつけている。痛みさえも感じてしまいそうな、雨具で鼻のあたりまで覆っているとはいえ、目と額は隠れていない。フードをかぶっているとはいえ、横殴りの雨ではあまり意味がなく前髪は額にぴたりと張り付いている。風も強くなり、舗装された道の横に生える木々はごうごうと揺れている。地面は固まっていたはずなのに、雨で削られ湿らされ、ぐずりぐずりと足に纏わりつき泥だらけ。外套のようなローブの裾ははためき、まっすぐ進むことも中々大変だ、もしも傘があったならば逆を向いて壊れてしまうのではないかと思ってしまうくらいに。隣を歩くガルムはその毛を全てびしょびしょに濡らし、身体は萎んだように見える。シェムは自分の首筋に張り付くように、顔だけを自分の右ほおにくっつけるようにして出している。空を飛んでいては吹き飛ばされてしまうのではないかと錯覚するほどの風。テンは後ろを歩くトリスの腕の中、ユカは予備の雨具に包まれ、その弱弱しい足で必死に前に進んでいる。
小屋をでるときは、前々日の彼女に戻ったかのように愚痴っていたが、それは自分たちとて同じ。台風のような暴風雨の中誰が好き好んで外に出ようと言うことか、歩こうと言うだろうか。ただ、しなければならないのだから仕方がないだろう、小屋で日がな一日延々と座っていたって、雨が止む保証はないし土砂崩れ等で動けなくなってしまっては問題だ。食料の予備はあることにはあるが、それも数日分かそこらだろう。それだったらば、しっかり前に進んだほうがいいのだから。ざあざあ、ざあざあ、耳がそれだけで覆われて、互いで話そうにも支障が出てしまう。そうならば、もう離さないほうがいい、体力の無駄な消費は控えるべきだろう。そうして無言の旅は進んでいく。
それから何時間が経っただろうか。雨の中では昼食を食べるわけにもいかず、時間もわからなく、ただ5時間は経っていないであろうころ。腹の空き具合から言えば、恐らく昼食の時間がそろそろ来るであろうと思う頃。目の前に巨大な砦が見えてくる。閉じていた喉を、頬から伝う水滴でびっしょりと濡れた唇を開き、張り付く布越しにユカに大音声で喋りかける。
「ユカ、あれが、シンシアだ。」
「なに?」
「あれが、シンシアだ!住む場所、働く場所だ!」
目を大きく開けていることさえも大変な雨、その中でのコミュニケーションは非常に難しく、それでもなんとか伝わったのだろう、ユカは大きく頷く。それを確認して前に向き直る。あと数百メートル、それを必死に進めばいい。泥をかき分けて進む足はもう棒のようで、普通に歩くよりも疲れている。精神的にもこの天気では重く、様々なネガティブな要素が絡み合いコンディションを悪化させていく。
それでも数十分のちにシンシアの砦に辿り着く。ガルム達を転移陣の中に仕舞い込み、衛兵に記憶喪失の少女(またもこの言い訳を使うことになろうとは、しかも自分以外の人を指して使うとは!)の存在を説明し、ユカの件は自分たちが責任をもつことを伝え中に入る。びっしょりと濡れたローブを脱いで、3枚を袋に入れてアイテムボックスに入れておく。あとで干さなくてはならない。今着ている服も濡れているし、どこかで着替えなくては。それに、ユカの服も買う必要がある。雨の中、身体は冷えて疲れは取れず、唇を紫にしてがたがた震える彼女をどこかで温めてやらなくてはならない。
濡れ鼠3匹は通路を歩いていく。防具屋により、そこで服を買い、そして酒場に向かって歩いていく。




