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少女の重さはどのくらいだろうか、自分では持ち上げられない。右腕が動かないからというのがその理由で、トリスに担がせるにもいかずにガルムの背に乗せる。まるで遊園地の回転木馬の背にしがみ付く幼い子供のように、無意識下の行動だろうか、ガルムの背に頭を、体を預けて両腕を腹に巻きつけている。当然隣にトリスが立って、彼女が転げ落ちないように押さえつけている。そんな光景をちらりと振り返り確認しながら、周りに注意を向ける作業に戻る。何がいるかわからないのだから、アグリーベアにでもあったら大変なことになりかねない。
結局少女はあの場所では目覚めなかった。呼吸は安定しているし、身体に外傷はないように思えた。そうなると、一体何が原因かわからなかった。頭でもぶつけたのだろうか、それで失神か、昏睡か、失神ならば長すぎるだろうし、昏睡というにはできすぎているような、昏迷、睡眠、よくわからない。どれにしても、意識が無いことには変わりがなかった、肩を叩いても覚醒しないことに変わりはなかった、声を掛けても覚醒しないことに変わりはなかった。もしかしたら、ただそれでいて説得力のある、あり得ないけれどきっとそうだろうという仮説を立てた。
嗚呼、彼女は地球人だ、それだけは確定していることだろう。あの服はどうみても地球人、しかも日本人のそれだろうし、不自然な現れ方をしたのだ、何よりも自分が顔を知っている、見たことがあるのだから。となると、この世界に彼女は迷い込んだのだ。それも、自分と同じ時間に、同じ場所で迷い込んだのだ。それだけは確実だ、何故ならば自分は彼女と登校時間が被っていたわけだし、あの日自分は彼女を見たような気がするのだから。だとしたならば、彼女の今の状況は、自分がこの世界で目覚める前の段階と同じだろう。だから、時が来るまで、何かの合図まで目覚めないのだ。ただそれがどれだけの時間のあとかはわからない、ただそんなに長くもないだろう、森の中では誰かに殺されてしまうのだろうから。何が起きてもおかしくはない、自分はそれだけ幸運だったのだ。いや、今もその幸運は続いているのかもしれない、こんな場所でも生きていけているし、こうやって地球人に会うこともできた。
そうであるならば、とりあえず彼女を確保しなくてはならなかった。そうして、ガルムの背にのせ小屋まで運んでいるというわけだ。小屋はそろそろ見えてくる頃だろうか、最初の小屋ではなく、3つ目の小屋だ。道中に小屋は3つあり、初日は1つ目で、2日目は3つ目の小屋で宿をとったのだ。そろそろ空も赤くなり始める頃合い、いや、もう多少赤くなり始めている。このまま進めば、3つ目の小屋には辿り着けるだろう。1つの小屋は10キロごとに建っている、それだけこの沼が遠いのだ。そんなことを考えつつ、トリスと別段変わり映えのしない何時も通りの会話を過ごす。嗚呼、こうも長い間一緒に居れば、話すことはとっくのとうになくなっている。元々自分はべらべらと長時間話すなんてことは好きではないし、彼女にしてもそうらしい。それは彼女が合わせてくれているのか、それともまた別の話だろうか。
小屋に辿り着いて、彼女をガルムの背から降ろす。と言っても、トリスに任せきりの面が強いが。そのまま小屋の中でガルムは寝転がる。大きい、それ以上大きくなったとしたら、もう小屋の中には入れないだろう。毛布をひいて、そこに彼女を横たえる。未だ彼女は目覚めることはなく、すうすうと寝息を立てている。つけ睫毛だろうか、長い長い睫毛が綺麗で、しっかりと目元も縁どられている。しかし、彼女にとっては災難なことに、この世界にはそんなものは存在しないのだ。トリスは笑っていた、わざわざそんな着飾って貴族様かしら、と。この世界には、死化粧であったり、部族としての化粧であったり、そういったものはあってこそ、周りからの目を引き寄せようだなんてものは少ない。ましてや特定多数の異性を引き寄せるものはありこそすれ、不特定多数のものはほとんどないのだ。そんなことに気を遣ったり、金を使ったりする余裕がないということもあるだろう。金は普通の生活をしていれば生活分を稼ぐだけで精一杯だろうし、冒険者なんて職業自体が賭博のような生活をしていたら化粧なんて必要がないのだから。それこそ商人の中でも凄腕であったり、娼婦の中でもベテランであったり、大国の貴族の中でも上位であったり、王族皇族であったりしたならば別だろうが。それほど日常生活では必要の無いものなのだ、この世界では。男である自分には何の関係もないが。
晩飯を作っていく。水も大分少なくなってきた、もっと水筒を買っておくべきかもしれない。アクアの魔法で鍋を満たし、それを沸騰させていく。飲用として使ってみるのもいいかもしれない、そういえば、これがあるのだから体は洗えるだろうということを忘れていた。小屋に備え付けの盥にアクアを幾度となく放ち、そして水をためていく。1回あたりの量が少なくて、何度も何度も魔法を使わなくてはならなくMPがいくらあっても足りはしない。そして盥をトリスに渡し、シェムとテンを着いていかせる。彼女も、そろそろ戦闘に参加できる頃合いなのかもしれない。それどころか、過保護が過ぎるのかもしれない。
しばらくして、自分も体を洗い終えた頃。スープに入れていた干し肉や、野菜がある程度柔らかくなってきたころ。味を調え器によそい、ライ麦パンを取り出しそろそろ食べようかと笑い始めたころ。汁を啜り、浸して柔らかくなったパンを齧りはじめたころ。近い場所で寝転がる、無言の少女の口から音が漏れる。まるで覚醒するような、いや、覚醒するのだろう。少し話を聞きたい、そう思って傍による。
少女はゆっくりと目蓋を開いていく、自分たちの前で。その長い長い睫毛が持ち上がり、アイラインがひかれた黒いそれの間から白目と黒目が見えてくる。焦点が定まっていないのか、ぐらりぐらりと揺れる黒目、それがだんだんとこちらに向かって固まっていく。部屋がそこまで明るくないのが功を奏したのか、それとも元々暗がりが得意なのか、その時間は意外と短い。そして、こちらを認識した途端半開きになっていた口から吐息が大きく漏れる。
「ああああああああ?」
そこから漏れるは、あ、という1つの文字。上下に揺れ、抑揚がしっかりとついているそれだがただ1つの文字を連呼しているだけ。思い切りよく上半身を起こし、此方を指さしつつも体を確かめている。何か勘違いをしたのだろうか、まるで自分が何か悪いことをしたかのような。その間も少女は口から間抜けな声を出し続ける。一体どうしたのだろうか、何故普通に喋れないのだろうか。一通り確認した後、こちらを指さして何かを告げようとしている。
「すまない、君が何かを伝えようとしていることは伝わってきているけれども、何を言っているのかわからない。呻いているようにしか聞こえない、すまない。」
「あああああ?」
「もしかしたら、ステータス表示とでもいってくれないか?そして、そこで共通語というものを取得すれば良い。」
少女は少しばかり下を向いて、口を開いて動かす。それはまるで異国の言語のように思えて、それでいて親しみを感じる様な。そして少女は手の甲を、虚空をじっと見つめ、しばらくして後こちらを向く。
「これで通じる?」
「ああ、聞こえるさ。」
「あなたはだれ?知ってる、学校の先輩でしょ?ここはどこ?あたしに何をしたの?」
言葉が通じることを確認したとたん、関を切ったように話し出す少女。加えて、此方が悪いと決めつけているような口ぶりと内容で。それは自分を少しばかり不機嫌にさせるには十分なものだけれども、一方で仕方ないとも思う。突然のこと過ぎて、理解が追いついていないのだろう。なまじ知っている顔があるからこそ理解ができない、自分の場合とは根本的に違うのだから。トリスにスープをよそいにいかせ、質問に答える。
「ああ、アスカっていうんだ。ここは、何といったらいいのか、異世界、地球じゃない。勿論、日本でもない、信じてくれ、異世界だ。」
「はあ?何をいってるの?ねぇ、なんで私はこんな汚い場所にいるのさ?あなた何したかわかってるの?警察は来るし、ああ面倒くさい、最悪。別段私に危害は加えていないように思えるけれど、どういったつもりなのかしら?」
完全に信じていない、とりあえずトリスの持ってきたスープを渡す。それはそうだろう、信じられない事だろうよ。何も理解していなくても、腹は減っていたのかスープをひったくり貪るように啜る。汚らしい、下品で、下賤だ。何故だかそういう風に見える、自分もかつてこうであったのだろうか。周りを確認せずに、利益だけは受け取る、どうも生きていくうえでは致命的な様な、それでいて日本では容量がいいような。突然、少女はスープを置いて何か頭を押さえる。誰かからの言葉を聞かないようにするかのように耳を抑え、何かうめく。ああ、わかった、あの声か。起きてから少しばかり時間が経って、まるで時限爆弾のようにセットされたそれが今頃彼女の頭の中で起爆していることだろう。トリスと眼を合わせ、軽く笑う。もう彼女にはとうに話してある、どういったことが起きると予見したか、どういった反応をするか、といった事柄を。
しばらくして、大体を聞き反芻したのだろう少女がこちらを向く。考えながら飲んでいたスープはもう既になくなり、自分たちも全て食べ終わっている。少女は問うどういうことだと。自分は返す、こういうことだと。トリスは返す、それは真実だと。金髪の女性、とはいえ同性からの言葉は説得力があるのか、釈然としない顔ながらも事態は飲み込めたようだ。
目を半ば充血させつつも少女は言う。
「つまり、帰れないってわけ?今晩のドラマも、明後日発売の雑誌も、コンサートも、デートも、何もかも。何なのよ、責任をとりなさいよ。意味わかんない!」
癇癪を起こした子供でも言うことを聞くのではないかと思うくらい、遊びはしゃぐ幼児のほうが聞き分けが良いのではないかと思うくらい、少女は哀れで騒がしい。そして一通りこの世界を、自分を、様々なものを罵倒した後、愚痴を延々と紡ぎながら横になる。ダニやシラミ、ノミでもいるんじゃないかしら!近寄らないで!そういって寝ようとする少女。自分は隣の女性を抑えるので精一杯だ。まるで威嚇するかのように鋭い目つきで睨み、さも不機嫌そうにするトリス。確かに、その感情はごもっともかもしれない。随分と横柄で、粗暴で、周りを見ていないようにしか思えない少女なのだから。
しかし、少女は思っていたよりも疲れていたらしい。すぐに寝息が聞こえてきて、横のトリスは憮然とした表情のままこちらに問いかける。あれはどうするの、至極まっとうな質問だ。自分もわからない、とりあえず、シンシアまで連れて行くだろう。自分の知っている人が、同郷の人が、自分のあずかり知らぬ場所で死ぬならまだしも、目の前で死んで行かれるのは少しばかり辛い。それがたとえどんな少女であろうと、自分の視界の内で死んでは寝覚めが悪いように思えるのだ。それに少しばかり聞きたいこともあるのだから。故に、とりあえずはシンシアまで連れて行く。そして、その道中で話を聞いたうえで別れるつもりだ。
さすがにそれ以上世話を焼くつもりはないし、利益もない。説明がめんどうくさいことは確実だというのに、そこから追加なんてもってのほかだ。
嗚呼、やはり先ほどの予感は間違っていなかった。面倒を抱え込んだ、仕方ない、諦めてそれを対処しよう。何も最高の対応をしようというわけではない、ワーストでなければいいのだから。




