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今、自分たちの目の前には沼地が広がっている。小屋を出てから1日経過した、また途中の小屋で一泊休みを取り、そして朝から歩き続けてようやくたどり着いたのだ。頭上には太陽が昇り切っており、恐らく林から、森から、木陰から出れば脳天をじりじりと焼くことだろう。しかし、木々の枝葉がそれを遮っており、沼地から発せられるひんやりとした空気が自分を包んでいる。遠く視界に動くものはほとんどなく、ガイアライノは見受けられない。どこかに隠れているのだろうか、殺しきってしまったのだろうか。全く分からないし、わかるはずもない。仕方のないことだ、自分が想像していた沼地とは全く持って違う光景が広がっているのだから。
沼地、そういわれて多くの人は何を想像するのだろうか。淀んだ湖のような光景だろうか、それとも水気の多い泥がまとわりつくような場所だろうか、それとも瘴気と言わんばかりの霧に覆われる水たまりの多いぬかるんだ土地だろうか。自分にしても、それは間違っていない。自分が想像していたのは最後のそれ、霧に覆われるぬかるんだ広場を想像していた。少しばかり柔らかい地面、まるで雨後の砂場のような、雨後の公園広場のような。そこに点在する地面の凹み、水がたまって灯りを反射しようとしている。しかしながら、鬱屈とした霧が立ち込め、陽光を遮っている故に視界が非常に悪い。薄暗く、周りは見通せない。まるで火災訓練で入る煙の立ち込めた小屋のような、そういった光景が広がる場所を想像していたのだから。それは別段おかしくもない、自分がいた場所では、沼地になんていくことはなかったのだから。沼地なんて、疎開指定区の奥深く、山奥であったり、おおよそ人が入らないような場所にしかなかったのだから。学校での山登り、林間学校といえどもそんな危険であろう場所にはいくこともなかった。それか、日本から出た場所に見に行くしかなかったのだ。欧州とかつて呼ばれた死の大地には大量に、むしろ沼地が大地を席巻しているらしかった、自分はいかなかったが。
しかし、何度も言うようだが目の前の光景はそれとは完全に異なっていた。木々は視界いっぱい地面から天を目指してのびのびと伸びている。視界を阻害するような白い霧、様々な色の霧は存在していないし、地面に水たまりがあったり、湖があったりするわけでもない。しかしながら、生えている木の数はある一線を境に急速に減っている、密度が低くなっている。霧はでていないが、その代りに背の高い雑草が生えていて、まるでススキのようなそれが視界を少しばかり遮っている。地面はある一線を境に段々と水気を増していっているのがわかり、そして途中から池のように変わっている。いや、池と言うより泥溜まり、僅かな陽光が大量に落ちた葉とススキの隙間から覗く水面に反射しているが、それはあまりにも輝きがない。
ゆっくりとその一線に向かって歩いていく、そしてその一線、なんとなく周りの空気が変わるような錯覚を受ける一線を踏み出した瞬間、足元が柔らかくなる。水を含んだ地面、まるで乾き始めた粘土のようなそれを踏みしめ、進んでいく。警戒は怠らず、軽快というわけにはいかず。ススキが邪魔をしていて、あまり遠くが見えない。見たところ近くにガイアライノはいないようだが、何か獣の鳴き声と風が木の葉を鳴らす音、自分が泥を踏みしめる音のせいで音からは判別出来ない。靴に泥が跳ねていって、それを下を向いて確認すると、視界の奥でホーンドスネークらしき姿が消えていく。奴らはこんなところにもいたのか、そんなことを考えていると、目の前をフォレストセンチピードが慌てて横切っていく。
進むうちに足元はよりぬかるんでいく。水の嵩は増していき、いや、地面がゆっくりと傾斜に、下り坂になっているのだろう。ぐちゃりにちゃりといった音から、少しずつびちゃりぱしゃりという音に替わっていっている。
遠く視界の果てで何かが動いた気がした。後ろを歩くトリスの動きを止め、ガルムの動きも止めさせる。シェムは浮き、トリスの腕の中に位置するテンは強く抱きしめられる。よくよく見ると、巨大な何かがゆっくりと進んでいる。足音がなくなれば、周りの音も少しずつ聞こえてくる。遥か遠くで水をかき分けるような音が聴こえた気がして、手を強く握りしめる。あれがガイアライノなのだろうか、もう少し近づけばわかるだろうから。
進む、足首に達していた泥は何時の間にか膝上辺りまでになり、それと共にドロドロとしたぬかるみから、しゃばしゃばとしたグレービーソースのような感触が水をかき分ける足を覆っていく。少しばかりうんざりとしながら、疲労を感じながら進んでいく。確かに、これならば人気が出ないのもわかる話だろうし、狩るのが非常に面倒くさくなるのも頷ける。また一歩一歩進んでいこうとして、突然目の前のススキが大きく揺れる。ざぷり、ざぱり、そういった音と共に全身に泥が飛び散っていき、視界を黒い巨大な何かが覆う。まるで地面の、泥の中から何かが飛び出てきたような。
思わず視界を覆うために左手を上げて、バランスを崩して結局腰から水にどぷりと浸かってしまう。背中から染み込んでいく冷たい感触、口に入ったのだろうか、少しばかり苦みが広がっていく。目の前には、巨大な動物。ガルムよりも数倍大きく感じるそれ、圧倒される。
そして目の前にいたモンスターの頭が此方側に少し傾く。目と眼が合う、ああ、これがガイアライノだと、本能が一瞬で理解した。




