178
シンシアに戻る。久方ぶりのベッド、昼過ぎだというのに体を横たえてしまいそうになる。それほどまでに疲労し、消耗した。暗がりに居たからだろうか、それとも慣れない行為をしていたからだろうか。
もし前者ならば、それは職業病の一種と言ってもいいのかもしれない。明かりに氾濫し、暗がりなど存在していなかった地球社会、日本社会に染まりきった日本人という職業故の病だろう。これは治す方法がない、自然治癒、暗がりに慣れなければならないだろう。この世界でも、暗がりで行動することはあっても自分はそれを避けてきた。太陽が落ちると、つまり双月の時間が始まると同時に睡魔に身を委ね、双月が別れを告げるころに起きだしていたのだから。
もし後者ならば、これも仕方のないことだろう。日常的に、いくらこの異世界とはいえタガネと金槌を振るう人間などいるだろうか。それ専門の職人ならばともかく、自分のような人間ではどうしようもない。
水を汲んできた盥に布をつけ、体を念入りに拭っていく。盥は2つある、水を布に含ませるための盥と、汚れた布を洗うための盥だ。トリスと2人で、狭い部屋の中体を丹念に拭っていく。背中を擦り、腕を擦り、盥につけて洗う。それだけで水は白く濁り始め、トリスとその作業を繰り返すだけで何時のまにか完全に濁り水になっていた。まぁ、こればかりは仕方のないことだ。泥と、垢と、そういったものがそれだけ排出されているということなのだから。
布に石鹸を着けて、体をまた拭っていく。泡立ちは地球で使っていたそれと比べると、石鹸と言うのもおこがましく思えるレベルの作品。それでも、仄かに香る乳製品の香りが鼻をくすぐっていく。洗浄力もそこまで高くない、むしろ凄く低い、故に先に体を拭ったのだ。ただ、逆に良い点もある。体に泡が付きにくいということは、体を流すのも比較的簡単だということだ。
ある程度水をひたひたに含ませた布で拭い、盥の水を部屋の外に運んでいく。服装は部屋着姿、しかも濡れても良いような物を。盥に溜まっていた水を捨てるために、トリスと2人で運ばなければならずに2往復するのは非常に骨の折れる作業。それでも、水を流し切りもう一度組む。水汲み場の付近は水が外に流れても平気なようになっていて、そこで頭から水を被る。だから服を着たままできたのだ、そして濡れてもいいものを着てきたのだ。こうすることで、まだ体から落ち切っていなかった泡を洗い流すとともに、頭も洗っておく。
ベッドに倒れ込む。そろそろ痛みを訴え始めるであろう右腕を持ち上げ、トリスに固定していてもらう。ゆっくりと包帯を外していき、木の添え木をトリスが保持する。瘡蓋を左手の爪で剥がしていく。痛い、治りかけのそれを剥がしてしまった経験を思い出す。それでも、必要な行為だ。液体状の薬を取り出して、木にかからないように、傷口から溢れないように注意しながら垂らしていく。どろりとした液体はゆっくりと傷口に染み込んでいき、それに合わせてトリスが回復魔法をかけていく。大分傷は塞がり、残りは瘡蓋ばかり。それでもその下の骨はまだ繋がっていなく、添え木を外すことなどできるはずもない。
傷口に液体が染み込んでいったのを確認してから、包帯をもう一度巻いていく。前回まで使っていたものはもう既に茶色く汚れ、新たな物を巻く。これが治るのいつごろだろうか、じんじんとした温かみを感じながら思考に耽る。あとどれだけ、片腕で生活すればいいのだろうか。トリスの回復魔法をかけても、まだ回復しないのだろうか。いっそ添え木を外して治ってるかどうか確かめてみたい、しかしそれが怖い。もしもついていなかったら、それは確実に悪影響を与えてしまうのだから。
寝転ぶトリスの腕をマッサージしていく。左手だけでも十分だ、腕と、背中と、腿と、ふくらはぎと、、首と、全身をマッサージしていく。ひんやりとしたほぐし心地、柔らかく、女の子然とした感触。危うく劣情を催しそうになるも、未だ早いし無駄過ぎる。そんなことに体力を使うのだったら、早く骨を治したい。実際のところそれが効果あるのかはわからないが、やらないよりかはよさそうに感じるのだ。
マッサージを終えるころ、トリスと共に早めの夕食を取りに向かう。食堂というべきか、酒場と言うべきか、シンシアには食事場所が数か所ある。その中でも、酒と肉をメインに出す場所に向かう。
ヴィヴィッドラビットの煮込みを頼み、白ワインを頼む。自分は詳しくはないが、こういった煮込み料理は白ワインのほうが会うような気がするのだ。苦みとか、渋みとか、そういったものが苦手ということもある。追加でライ麦パンをいくつか頼みつつ、マッドゲッコーの骨付肋焼きを頼む。
ライ麦パンを煮込み汁に浸して食べる。とろとろとデミグラスソースのようなものに煮込まれた兎の肉は、口の中で蕩けていく。まるで山羊肉をしっかりと煮込んだような触感ではあるけれども、それでいてぱさぱさとしているわけでもない。山羊のように臭味があるわけではなく、さっくりとした味わいが白ワインによくあっている。パンも、汁に着けることで非常に柔らかくなり、味もまろやかになっている。マッドゲッコーの骨付肋焼きを左手でつかんでかぶりつく。気分としては、フライドチキンを齧っているかのよう。味もよく似ていて、しかしながらこちらはもう少ししっとりとしている。塩味が付いていて、これまた先ほどまでのこってりとした味とは違って面白みがある。美味い、もしかしたら、あの変革で一番の恩恵を受けたのは食品関係ではないだろうか。




