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馬車は進む、轍を残して前に前に。舗装された、しかし決してアスファルトであるなんてことは無い土と砂利で構成された道を、荷台をがたがたと揺らしながら進んでいく。その度に荷台は大きく揺れ動き、乗り込む人々の顎をうちあわせる。行きは登り、故に進みも遅く振動も少なかったが、今は帰り道だ。下り坂、流石の馬ともいえども速度が速くなってしまうのは仕方ないことなのだろうか、馬車にはブレーキ装置があるのだろうか、それでいて速度が大きく上昇して暴走するなんてことはない。がたがた、がたがた、そういった音を立てながらも馬車はシンシアに向けて進んでいく。
その荷台の端っこ、行きと同じように奥まった場所に自分とトリスは座っている。幌が風と振動で揺れる、それを背景代わりに夢を描くトリスを見る。胡坐をかいた自分の左ひざに頭を載せるようにして寝転がるトリス。当然広いスペースがあるわけではないので膝と背を丸めた状態で寝転がっている。その頭に左手を置きつつ、頭を幌に預け思考に耽る。
睡眠、人間というものにおいて重要な事柄だ。それが無くてはどんな人間であろうと生きられはしない、食事と排泄、この2つと合わせて一番重要な事柄の1つだろう。当然運動であったり、思考であったり、それに次いで重要な事柄もある。しかしながら、その3つが無ければ人間たりえない、いや、生物たりえないだろう。地球のどこに、排泄しない生物がいるだろうか、食事をしない生物がいるだろうか、睡眠をとらない生物がいるだろうか。もしかすると、もしかしたら、生物という括りの下そういった行為をしない例外がいるかもしれない。しかしながら、数多の生物が絶滅した自分がいた地球においてそういった生物はかなり少なくなっていたことだろうし、その前にしても本当に数少ない例外だろう。そして、それはこの世界のモンスターにおいても通用する話なのではないだろうか。地球によく似た、しかしながら差異もある世界だが、それ故にそういった話も通用するだろう。現に、今までオーガにしても、狼にしても、何にしても排泄と食事、睡眠をとらない生物はほとんどいない。はたしてスライムが生物に含まれるかわからないが、あれにしても食料としての水は少なくとも摂取しているのだから。例外として上げるならば死霊系モンスター、例えばシェムの昔の頃のような骨でできたモンスターを筆頭とするモンスターたち。今のシェムにしても、睡眠も排泄も食事も必要としない。しかしながら、あれは生物なのだろうか。悪霊であったり、死体であったり、確実に死んでいるものだ。
そうだとしたならば、今のトリスの状況は果てしなくおかしい話ということになる。トリスは確実に1度死んでいる。呼吸は停止し、体温は低下し、心臓の鼓動はほぼ止まっている。微かに生命反応が残っていた為にあの指輪の効果が発動したが、それでも地球でならば死亡と判断されている状態だろう。どちらにしても、あの指輪の効果によってアンデッド、死霊系モンスターのうちの一種になったのだからここで死んでいることだろう。だから、今のトリスは死体が動いている、アンデッドと呼称される存在だ。しかしながら、彼女は彼女でいるために生を欲する。故に血を欲する、これはあの男の文句そのままだが。つまり、血を、生を摂取しているのだ。そして今のように睡眠をとっている。排泄はほぼ行っていないが、唾液だとか、粘液がでるものもある。あまりにも歪な存在、それがヴァンパイア種というアンデッド種の中の1種だからだろうか。だとしたならば、生命活動によく似たことを行っているトリスはアンデッド、つまり死した存在でありながら生きた存在に非常に近しいものだということになる。生と死、真逆のベクトル、相容れぬものだと思っていたのにこれはどういうことなのだろうか。自分の頭ではどうしようも判別しえない疑問。
大きく馬車が揺れて、それに驚いたのかトリスが目を覚ます。器用に頭をくるりとこちらに向けて、じっとこちらを見つめる。澄んだ瞳がこちらを覗き込み、何もかも見透かされているような錯覚を覚える。腕が伸びてきて、頭を、そして腹へとおりていく。まるで子供をあやすかのように、まるで湿った粘土で形作られた人形を触るように、壊してしまわないように、優しく掌が体を撫でていく。そこから温かみが伝わってくるような、決して皮膚では感じ取れない温かみが。
「ふふ、よく寝たわ。アスカも、寝なよ。疲れてるんでしょう?怪我してるんでしょう?」
そう言って、自分の右手を優しく抱きとめる。麻痺していて痛みは感じないけれども、たとえ固定されていなくても痛みを感じないだろうと錯覚してしまうような優しさに満ちた動作。左の腿に感じる軽い重み、肩の付け根付近から感じ取れる回復魔法の残滓。
そういえば、トリスの回復魔法は、光魔法はレベルが上がっていたのだっけ。それが上がることでどれだけ治癒の効果が上がるのかはわからないが、どんな些細な物でも心の籠った力ならばプラスに働くだろう。そんな温かみに、柔らかみに、慈しみに身を委ね、振動に、音に、視線に心を委ねていく。意識は段々と闇の中へ、目を閉じて力を抜いてみれば、深淵はすぐそこに。
がたり、大きな音がする。がしゃりがしゃり、連続した音がする。ざわざわ、小さな喧騒が聴こえる。目を開けて首を回してみれば、馬車の扉が開いている。それに加えて馬車から伝わってきていた振動も、幌が発していた音も消えている。どうやらシンシアについたらしい。
馬車から降りて見れば、なんとなくまだ振動しているような気もする。まるで長時間船に乗っていたかのような、それによく似た感覚。トリスの腕をとり、シンシアの砦に入っていく。たった1泊2日の旅路だったというのに、遥か昔に発った場所のように感じる。何故だろうか、哀愁だろうか、愛執だろうか、自分の居場所はここだといつの間にか認識していたのか。
報酬は、金は3日後から5日後には受け取れるようになるそうだ。どれほどの額になるのか、詳細はまだ確定していないそうだが、だいたいAランクの冒険者で金貨1枚、日本円で100万円だ。随分と豪気な、破格の報酬だろう。生死が交差する危険がそれだけ高かったことの裏返しでもあるが。いくら100万円稼いでも、こうやって怪我しては意味がないのだから……
9章終了




