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或る世界の軌跡  作者: 蘚鱗苔
9 悪夢と襲来の狭間
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 痛い、どこが痛いのだろうか。腕だ、腕が痛い。どんなに堪えようとしても我慢できない痛み。腕を押さえても顔は歪み続け、左掌を強く握りしめても声は漏れる。いや、気のせいだ。本当は痛くなんかない。ただただ痛むような錯覚に陥っているだけだ。薬を、感覚を麻痺させる薬を振りかけたから。痛みを感じ難くする薬を飲んだから。

 何か、酷く怖い夢をみたような気がする。どうしても内容は思い出せないが、何もかも失ってしまったような。何からも笑われ、見捨てられたような夢だった。体の節々が寒い。凍えそうだ。右手で毛布を探そうとするけれども、動くことはない。薬で麻痺しているのだから当然だろう。それに加えて吊られているのだ。うごくはずもない。どうしてこんなになるような夢をみたのだろうか。体全体に鳥肌が立っている。少しだけ、少しだけ左手が、顎が、足が震えている。

 トリスを胸に強く抱きしめている自分がいる。血が止まったかのようにしびれかけている左手、トリスの首の下にまるで枕のようにさしこんでいる。何故か、少しだけ心が楽になったような気がする。トリスが横で寝ているという事実を確認しただけだというのに。少しばかりひんやりとした肌を感じる。胸にある、柔らかな髪の感触がこそばゆい。金の頭を見下ろすように、視線をつむじのあたりに落とす。別段、いつもと変わらぬ光景なのに、何故だか愛おしい。つむじに唇を落とし、しなやかな黄金色の髪の毛に口付けを。少しばかり彼女の頭が動いたような、起こしてしまったか。いやいや、杞憂だった。またゆっくりと耳に寝息の音が聴こえてくる。

 左手を折り曲げ、トリスの体を強く抱きしめる。何か、呻き声のようなものが聞こえてくる。やはり刺激が強かったか。これ以上彼女の邪魔をしないように、安眠を妨害しないようにゆっくりと起きだしていく。ベッドから降りて、ぎしぎしと軋む床板をそっと踏みしめつつ部屋の外に出る。

 つるしていた右手に血が通っていくのを感じる。まるで何かがぐいぐいと流れていくような、不思議な感覚を。左手に持った盥を水道に、井戸から引いた水で顔を洗う。片手では洗いにくいが、それでもかなりサッパリとする。口に水を含み、そして吐きだす。木を使って歯を磨き、塩で歯茎を引き締める。口の中の粘り気もいつのまにかどこへやら、目脂をこすり落とす。


 うがいをしたあと、部屋に戻る。外はまだ暗い頃、ただもう少しで明け方ではないだろうか。通りには未だなんとなく人が蠢いているような、そんな音がこちらまで響いてきている。部屋に入り、暗い世界に目が順応してきたころ、ベッドにある人影が動く。


 「おは……よう……」


 目を擦りながら、ゆっくりと起き上がるトリスを見つめる。水の溜まった盥を差しだし、ベッドにゆっくりと腰かける。上質なものではないため、あまり沈むことのないベッド、木でできた上に布を載せているだけなので座り心地は良い。

 右腕を見つめていると、背中に重みを感じる。トリスが枝垂れかかってきているのは見ずともわかる。そして、これが何を意味しているのかも。


 「いいよ。」


 許可を出す。凄く上から目線な言葉のような気がしてくる、自分は一体何様なのだろうか。主人か?飼い主か?目上か?貴族か?違うだろう、自分は彼女の伴侶なのだ。


 「ああ、大丈夫だよ。」


 言い直してから、肩を預ける。左肩、流石に右肩から啜るなんて真似はしないらしい。

 数秒、数十秒、肩にできた傷口を舌先で愛撫される。流れ出した血液が、ゆっくりと彼女の口内に消えていく。それを肩で、皮膚で感じながらも自分は右腕の様子を確認する。


 ぺりぺりと包帯を剥がしていく。早くも傷口に瘡蓋ができはじめているのは、トリスの回復魔法のお陰か。赤く大きな裂け目、醜く腫れたそれを視界に留める。動かない右腕、これがこうなったのは自分が選択を間違えたからだ。実力を過信し、相手を尊重せず、振り返ることをしなかったせいだ。

 そこに医者に渡された薬を垂らしていく。葉をすりつぶした液体、どろりとした黄色のそれが傷跡に染み込んでいく。ゆっくりと、周りに零れてしまわないように。まるで乾いたスポンジに水が染み込んでいくように、傷跡に液体は染み込んでいく。これが、患部とその周りの感覚を麻痺させる薬。注射なんてものじゃなくてよかった、これならば衛生面は問題ないだろう、いや、逆にこれはこれで危ないか。

 そういえば、この世界にきてから風邪なんてものをひいていない。この世界にはないのだろうか、それとも体が丈夫になったのか。もしも後者だとするならば、今が一番危ないだろう。例えば破傷風だったり、そういった傷口から感染するものや、弱り抵抗力が落ちた状況になればなるほど病に罹りやすくなるのだから。


 もう一度包帯を巻き終わり、トリスに回復魔法をかけてもらう。既に吸血行為は終わり、肩がほのかに火照っている。とりあえず、今日は何をしようか。こうもしっかりと起きてしまっては、もう一度寝るのは少々億劫だ。早めに外にでるのもいいかもしれない。ここでは食事体系がどうなっているのか定かではないが、夕食と同じならば時間になると小さく角笛が鳴るはずだ。それまでは昨日の惨状を見るのがいいかもしれない。しっかりと治療をしたり、装備を整えたり、そういったことはここではできなく、シンシアに戻るしかない。右腕の感覚はない、何も問題はない。痛みはないのだから、動くことはできる。


 「行くか、外に。」

 「先行ってていいわ。外で待ってて。」


 トリスはまだすこしばかり準備が必要らしい。いつもなら、外で柔軟なりをしながら待つ。しかしながら今日はそれが嫌だった。何故だかわからないけれど、酷く嫌だった。だから言葉をかける、待ってる、と。

9章最終話まで残り数話

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