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短剣を振るうのに必要な力なんてもので特筆すべき点は特にない。強いて言うならば、短剣を取り落さない握力だろうか。毛皮を切り裂き、皮膚を切り裂くという動作をする都合上、短剣は様々な場所に引っかかってしまう。その時に、短剣が持っていかれないように握る力が重要だ。当然、さしこむ力とか、引き裂く力というものも重要になってはくるが、短剣を離さないという行為のほうが遥かに重要性が高い。どんなに力強く突き刺しても、どんなに素早く短剣を引くことができても、短剣が持ってかれたり、吹き飛ばされたりしたらもう全てが終わってしまうのだ。残念ながら、短剣を失ってしまった場合、戦う術は素手しかなくなってしまう。そうなったときに、はたして自分は戦えるだろうか。答えは確実にノーだ。
猿の大ぶりな攻撃を何とか避けつつも腹に短剣を突き刺す。大ぶりと言っても、速度が速かったり、細かな微調整をしてきたりして、完全に避けることはなかなか難しい。接近戦においては遥かに自分より戦闘能力が高いガルムが敵を散らして援護してくれているからこそ猿と組み合えている。それに、見たところ猿自体の戦闘能力は低い。猿より少しばかり強く感じた狼にしてもそうだ。やはり、操り師から遠くなれば遠くなるほどモンスターの戦闘能力は低くなっていくのだろう。文字通り雑兵を片付けているというわけだ。だからこそ、上級上位モンスター程度を延々と相手できているというわけだ。
腹に突き刺した短剣を引き抜きつつ、右手をスナップさせつつ猿の顔面を叩く。顔面を、スナップを利かせたうえで全力で叩かれたらどういった反応をするだろうか。手で顔を抑え、よろめくなり、狼狽えるなり、決して無反応というわけにはいかないだろう。それはモンスターであろうと同じなようで、片手で顔を抑えもう片腕を適当に振り回している。それを避けつつ、心の臓に短剣を突き刺す。腕の力を使って、本気で突き刺していく。そこまですれば、なんとか胸の殻を突き破ることができるのだ。
倒れ込む猿を蹴飛ばし、次のモンスターへと視線を移す。右腕に痛み、上腕に大きな鼠が咬み付いていて、それを左手で無理矢理剥がす。びきびきという音と共に鼠ははがれ、それと同時に右腕に痛みが走る。下あごに破れた布片を纏い、前歯が折れた鼠をそのままこちらに走ってきた猿に投げつける。折れた歯はまだ腕に残っているだろう、ただそれを取り除いている時間はない。
10体を超える猿を殺し、またも1体の頭蓋に短剣を突き刺し、そして蹴飛ばす。息が切れている、無理やりそれを整えようとして、咳き込んでしまう。腹を折り曲げ苦しむ自分、それを守るように近づいてくるガルム。ただそれもすぐに次の猿に向かってかけていく。身体を起こし、近づいてくる猿を睨む。振り下ろされる両腕を左前に前転することで躱し、その右太ももに短剣を突き刺す。そのまま腿に突き刺した短剣を、それを持つ左手を軸にして立ち上がり、そのついでに短剣を引き抜く。
そしてそのまま頭蓋に後ろから短剣を突き刺した瞬間、猿はその体をぐるりと回す。脳天に短剣を突き刺している都合上、速度と遠心力が相まった死に際の一撃を自分は避けることができずに脇腹を強かと打ち付けられる。その衝撃で左手を開いてしまい、そのまま地面に向かって吹き飛ばされていく。猿が地面に倒れた音を聴く前に接地した自分の体はそのまま衝撃を殺せずに地面を転がっていく。両肘と両膝をついて何とか立ち上がり、ゲホゲホと咳き込む。腹の中がぐるぐると掻き混ぜられているような、全く動けないような、脳天が痛み、体の節々も痛む。内容物を全て吐瀉してしまいそうになるのを堪え、何とか立ち上がる。目の前では先ほど殺した猿が崩れていて、脳天に短剣が突き刺さっている。早く取らなくては、少しの焦りが視界を狭めてくる。
そちらに向かって足を動かそうとする。右足を前にだし、左足を前に出した段階で右腕に強烈な違和感。真後ろに引っ張られるような、ふと後ろを見ると巨大な猿が、今まで戦っていたどの猿よりも二回りは大きく、茶色の毛を持つ猿が右腕を掴んでいた。耳をつんざくような咆哮、昔の怪獣映画の1シーンのようなそれ。
これは確実にヤバい、死が見えている。時間が止まって見える、そしてその間に急回転する自分の頭。どうにかしてその腕を外さなくては、しかしどうやればいいだろうか。蹴りつけるか?そんな力はないし、そんな暇はないだろう。武器は、何もない。魔法で、それもできない。じゃあ、どうすれば……
そこまで考えたところで、世界が加速する。右腕を両手で掴んだ猿、肘のあたりと手首辺りを掴まれ、そして一息に猿は腕を下におろす。そして当然のように増える関節。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああぁぁぁぁぁあああああああ!」
口から迸る絶叫、止める術は俺にはなく、脳内を“痛い”という一言が埋め尽くす。痛い痛い痛い痛い、太い枝を全体重かけて折ったかのような鈍い音が遠くなったはずの耳に響く。延々と鼓膜付近で反響し続ける音、それをドラム代わりに、ベース代わりの絶叫が視界を埋め尽くしていく。何も見えない、ただ1つ、胡瓜を2つに割るかのように簡単に折られた右腕を覗いて。
そして猿は笑う、低く不快な笑みと声をあげながら。右腕を掴んだまま、軽く投げ飛ばされる。さながらハンマー投げにおいて選手がハンマーを投擲する瞬間のように猿は自分を投げ飛ばす。さながらハンマーの如く宙を回転する自分、その視界には大地でも空でもなく、ぶらぶらと揺れる3つの関節を持つ右腕が写っている。当然ながら受け身をとれるなんてことはなく、背中から強かに地面に打ち付けられる。息ができなくなる、ただそんなことよりも右腕のほうが痛い。治ったばかりだというのに、これからリハビリをしようというのに、目の前でいとも簡単に折られた光景が繰り返される。幻だとわかっていても、それを止める術はなく。何とか左手と両膝をついて四つんばいのような姿勢になる。しかし、喉元にせりあがってくる何かを止めることは不可能で、地面に吐瀉物をまき散らす。
1回吐いたところで、腹部に強い衝撃。今度こそは空が見えて、背中にもう1度強かな衝撃。そのまま地面を転がっていく、その度に下敷きにされた右腕から狂いそうになるほどの痛みが伝わってくる。いや、それがなくとも狂ってしまいそうだ。痛みと、刻みつけられた音と光景と記憶にさいなまされ、何の抵抗もできない。立ち上がろうとする気力すら芽生えることはなく、左手で上腕を抑えながら1歩1歩近づいてくる猿を見つめることしかできない。視界が歪んでくる、猿を見るだけで腕が折れる光景が繰り返されていく。
そして、半ば意識が消える寸前に見えたのは、猿に切りかかっていく数人の冒険者の姿と、自分を覗き込むトリス、遥か遠くに聞こえる長い角笛の音だった。




