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或る世界の軌跡  作者: 蘚鱗苔
9 悪夢と襲来の狭間
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 明朝、遠くで響く鐘の音を遠く感じる。からん、からん、乾いた鐘の音はここでの毎朝の目覚まし。朝を告げ、代わりのない日々の始まりを告げる優しげな鐘の音色。揺りかごはそれによって優しく揺らされ、この街の大半の人々は目覚め始める。それは自分達とてかわりなく、目を擦り擦り起き上がる。

 よく眠れなかったからだろうか、現実と虚構が混ざりあった悪夢をみたからだろうか、欠伸を繰り返す。眠い、寝足りない、ぐっすりといつまでも眠っていたい。そんな欲望を圧し殺し、ベッドから降り立つ。よくよく体を伸ばし、左手の調子を確かめる。やはり昨日の悪夢が心に落とした影は小さくなく、かわりなく動く左手に胸を撫で下ろす。

盥を持ち、部屋を出る。向かうは廊下の奥にまで引かれた井戸、そこで水を盥に流し込む。右手が動かないと言えども、右腕自体は動くのだ、左手で上手くバランスをとり支えつつ部屋まで持ち帰る。

 部屋まで戻ると、トリスはもう既に起き出していて。自分の顔をみて、少し驚いたような顔をしたあとに笑い始める。


 「随分と泣き腫らしたのかしら、目元がすごいわよ?顔を洗ったらどう?」


 くすくすくすくす、口に手を当て笑い声をあげる金髪の少女。確かにそうかもしれない。寝ていて涙が零れていた可能性が高いと自分で思えるくらいひどい夢だった。


 「違うわ、一旦起きたあとの話よ。」


 トリス曰く、自分は彼女の胸に抱かれて寝ながら、しくしくと涙を流していたらしい。気恥ずかしさと気まずさ、同じようで差異のある2つの感情が混ざりあい赤面する。自分と同じほどの年頃の少女の胸の中で寝ながらに泣くとは、よくもまあここまで追い詰められたものだ。

 盥に汲んだ水で顔を洗う。よく冷えた水は、少し熱を持っていた顔に心地よい。目脂も、泣きあとも、腫れぼったい目元も、涎の痕も全て水に流していく。そして、体の汚れが落ちていくのと同時に、心に僅かに残る痛みも流され癒されていく。


 トリスが顔を洗ったあとに、体を拭っていく。寝汗を、冷や汗をかいた体を清めていく。今日は何をしようか、金を稼ぐために狩りを、依頼をこなすことは決定している。ただ、どれだけ難易度を落とそうかという話である。恐らく、動きの悪い右手をかばい、何より休養も長く、今まで通りのやり方では確実に上手くいかないだろう。少しすればこの状況にも慣れてまともに動くことができるだろうが、今ではただの足手まといに過ぎない。やはり質を落とし、体を慣らし慣らし行くのが正解だろうと思う。


 服を着替え、朝食をとる。ギルドのほうにまでトリスを連れ立ち、ゆっくりと歩いていく。朝は早いというのに、狩りにでかける、依頼にでかけるのだろう冒険者たちの姿をよく見る。それこそ、魔人であったりアンデッドであったり様々で、ああ、本当に差別のない街なのかと思う。ただ、それだけ構う暇もないほどに危険な地でもあるのだろう。

 そんなことを考えながら、トリスと適当に会話を続ける。今日はどんなモンスターを狩ろうか、という1日の行動に直結する議題から。今日のレートはわからないので何が狩れるのかわからないが、アグリーベアに会ったらとりあえず逃げようか、そんな会話を続けていく。そのまま話は昼食の話題に。毎日干し肉と野菜、ライ麦パンでは飽きてしまう。流石にここに来てからは、干し肉を生肉に変えて見たり、魚の干物に変えてみたりはしたが所詮その程度。地球でのそれのように優雅にカルボナーラだとか、豪勢に精進料理なんて贅沢な真似はできもしない。ただ、いい加減にもう少し新たな食事を開拓したい。それは食用肉の種類という意味でも構わないし、調理法という意味でも構わない、調味料なんて意味もいいかもしれないと思う。それはトリスにしても同じようで、ただトリスはそこまで食べるほうではないし、血さえあれば満足するらしいから何とも言えないが。では、今日は蜂蜜なんてものを探してみるか、新たな肉でも挑戦してみるか。まあ後者がいいだろう、市場に行けばそういうものは売られているし、この前の変革以降食糧事情はかなりの革新を迎えているのだから。だから、依頼を受けた後に市場にでも行こう。そこで適当な肉を見繕って、軽く皆でパーティーといこうじゃないか。

 そんなことを話しつつも、ギルドの前に辿り着く。そして、掲示板に貼られた数々の依頼の中から適当なものを選ぼうとした瞬間、それは起こった。


 砦に響く鐘の音。朝以外ではなることのない鐘の音。それが連続して延々と鳴っている。まるで火急を知らせる狼煙のように、まるで何かを急かす為の合図のように、狂ったかのように鐘は鳴る。ガランガランガランガランガランガランガランガランガランガラン、終わりが見えず、延々と続く鐘の音。トリスと顔を見合わせ、何があったのかと周りを見回す。

 近くに結構な人数が居たはずの冒険者たち、その皆が皆切迫した顔つきになっていた。今日はどの娼婦を呼ぼうか、酒の飲み比べをしようぜ、金が欲しいんだ、それぞれがそれぞれの理由を胸に笑っていたはずの歴戦の勇士たちの顔が強張っている。それがはたしてどういう意味を持つのかは想像するにも値しない。自らの武器に腕を這わせている人がいる、自身の信仰する神々に祈りを捧げているであろう人がいる、強く伴侶の手を握る人がいる、深く深く深呼吸をしている人がいる。各々が各々なりに各々の緊張感を示している。そんな中、自分たちは反応することもできず顔を見合わせおろおろとするだけ。よくよくみるともう1組そういった顔立ちの人たちがこちらに走ってきているのが見える。


 鳴り響く鐘の音が途絶える。かれこれ3分以上は鳴っていただろうか、未だ耳に残っている。なり終えるころには、どこから来たのだろう、ギルドの前に数多くの冒険者が集まっていた。皆が皆防具を身に纏い、武具を抱いている。そして誰一人として笑っている者はいない、口が笑っている人がいたとしても、それは嘲笑ではなく逃避のそれだ、目が据わっているのだから。

 ギルドの扉が開き、老人達が中から出でる。シンシアの要職に就く幹部たちであろうことは見ればわかる。皆が皆シンシアの紋章を、パイクが2本左右斜め上に突き出た円形の盾を模した紋章を服の胸部に縫い込んだローブを着ているのだから。そしてその中でも最も高齢であろう翁がつつと前に出る。1つ咳払いをした後に、大きく息を吸い込む。まるで告げることをためらっているように見えて、その一方告げなければならないほど重大な事実のようで。そして、もう一息深呼吸を繰り返したあと、翁は重々しく口を開く。


 「はてさて1年ぶりか、特級群襲来だ。」


 しんと静まり、息さえも聞こえないという錯覚に陥るほど静寂に満ちたギルド前、そこに集まる冒険者たちの間から大きな大きな決意の声が聞こえたような気がした。

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