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かしゃかしゃと音がする。目を開き、視線を左右に動かす。空は澄み渡り、視界の端には青々と繁る木々が見える。耳に響く音、所謂異音、この世界では聞こえてくる筈のない駆動音に覚醒させられる。まるで学校の映像史で見せられた質の悪い機械人形をモチーフにした映画のような音だと思う。そんなことを考えながら、ベッドから体を起こす。朝飯を作らなくては。
キッチンに立って野菜を切る。今日はどうしようか、干物を焼いて、味噌汁をつくる。まあ、それだけでいいか。冷蔵庫から干物を取りだし、煮たった湯にいれていく。かしゃかしゃと聞こえてくる音、とんとんと小刻みにまな板を叩く音が聞こえる。肉を切り出したところで、自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向くと、森の中こちらに手を振っている家族の姿が見えている。空は朱く染まり始め、段々と夜の時間を告げ始めているようで、仕事帰りの父親が食卓に座る。そこに食事を持っていこうとして、ふと右手を見る。血まみれの赤い棒、そこから指が生えているだけのそれは全く動かすことができない。茶碗を取り落とし、震える右手を見続ける。かしゃり、かしゃり、音が大きくなってくる。ふと、右手に妙な点があることに気が付く。左手で少し捲れたようになっている右手の肘あたりの皮膚を摘まむ。ぺりぺりと剥がれていくようで、調子に乗って一気に剥がす。生皮を剥がしている筈なのに不思議と痛みも抵抗もなく、血塗れの、赤黒い皮膚を剥がした下には銀白色のものが自分を待ち構えていた。
銀白色、そういうと聞こえはいいのだが、現実は一体そうではない。様々な歯車が組み合わさり、鉛や銀が煌めいている。先ほどから耳につく音はどうやら右手が原因だったようで、震える左手で右手を触っていく。不思議と驚きは少なく、一方で只々気持ちが悪い。しっとりと少し濡れている表面、ひんやりと冷えていて、手首から先は少し錆びてしまっている。
左手の指で必死に右手の指をほぐしていく。どんどん固まっていく指先、ぎしぎしと嫌な音と共に茶色が広がっていく。指先から指の股、掌、手首、ほぐしてもほぐしても固まっていく右腕。がちがちと、ざらざらとした領域が奮闘虚しく広がっていく。動きは悪くなり、自分の意思が通じない。嫌だ、いやだ。
必死にほぐしているところで、ふと気が付く。錆がついて少し茶色がかっていた左手の動きも悪くなっている。伝染したのだろうか、左手さえも錆が広がっていく。両腕が固まっていくような、打ち合わせると乾いた音がしている。嫌だ、いやだ。両腕を気が触れたかのように振り回す。打ち付け、叩きつけ、振り回し、できる限りの足掻きを続けるけれども、固まっていく腕はそのままだ。そしてバランスを崩す、足を後ろに引いてバランスを保とうとしたが、足が動くことはなかった。そのまま背中から倒れ、地面に強かと打ち付けるが痛みはない。乾いた音が森の中に響く、足も、腰も、いつの間にか全く動かせなくなっていた。嫌だ、いやだ。首を動かして体を見ると、いつの間にか全裸になっていた体は全て茶褐色に染まっている。そうしてどんどん頭が重くなっていく、首を動かそうにも、まっすぐに勝手に動かされていく。そして数秒もしないうちに首さえも動かせなくなった。喋ることも、口を開くことも、息もできない。目と意識だけが残り、酸欠を起こし始めてぐるぐるとまわり始める。
ふと視界の端から男の顔がこちらを覗き込む。父親だ。助けて、そう口を開きたくても開けない、目で訴えても通じない。父親の顔が歪んでいく、まるで憐れむように、まるで嗤うように、まるで見捨てるように。怒りと非難を上げようとするも、体は錆に拘束され、何の抵抗も許されない。大地に寝転がる1本の丸太のように、決して動くことはない自分の姿を幻視する。そしていつの間にか父親の顔は真っ赤に染まり、ところどころ食い散らかされたような跡が残っている。抉られた眼窩、削ぎ取られた鼻筋、下あごは皮膚が剥ぎ取られ抜けかけた歯が覗いている。そんな口を大きく開き、此方を飲み込もうと近づいてくる光景をただただ見つめることしかできなくて……
バネ仕掛けの人形よろしく、上半身を跳ね起こす。息は詰まり、かろうじてゆっくりと吐きだす空気には焦りが混ぜ込まれている。心臓は絶えず脈動を、通常のそれよりも格段に激しいそれを続け、肺は空気を溜め込み排出するという流れを高速で繰り返している。背中がびっしょりと濡れ、手汗が滴らんばかりに。布団は跳ね飛ばされ、視界は暗くなったり明るくなったり。
何とか持ち直した頭で周りを見る。小さな部屋、ベッドは1つ。その上に上半身だけを起こしている自分、右手も、左手も、体も錆びついているなんてことはない。両手の指をゆっくりと握り、話していく。左手はしっかりと握り拳を作り、大きく外に反らすことができる。右手は、言うまでもないだろう、夢の中のそれよりかは少しマシな程度。ああ、アレは夢だったのか。随分と酷い夢を見た。体が動かなくなる夢なんて見たくもない、趣味が悪い。
首を少し回す。部屋には小さな明かりが灯っていて窓は小さなものだけ。遥か遠くに続く狭い狭い天窓が1つ。少し閉塞感を感じるが、それでも壁にかけられた絵画がそれを幾分か和らげている。いつも通りの部屋、シンシアの宿屋の一室。まだまだ部屋が暗いので、時刻はまだ夜だろうか、自分の隣では金髪の女がすやすやと寝息を立てている。世界は平常に回っている、自分はそこから一瞬離れてしまっていたようだ。
「ああ、最悪だ。」
「何が?」
ふっと呟いた囁きは、思ったよりも大きくこの狭い部屋に反響した。隣で眠っていたはずの姫君は何時の間にか目を覚ましていたようで、穏やかな水面に波紋を起こした原因を問う。
「夢を、見たんだ。凄く嫌な夢、世界が変わっていってしまうのに俺だけが置いてかれるような。体が錆びついて、動けなくなってしまうんだ。まるでこの右腕のように、凄く、嫌だった。」
肺の中に溜まった空気をゆっくりと押し出すように、身体の内に溜まった言葉をゆっくりと吐きだしていく。肩に手が触れる。そのまま横になるようにその手は誘われ、それに誘われるようにベッドに体を倒す。
「大丈夫、たしかに右手は残念だったけれど。まだ朝にもなっていないわ。」
しっかりと両腕で抱きしめられる。あゝ、優しげのある温かみ。冷え切った体には心地の良い温度。トリスの体温は少し低めになっている。ひんやりとしている時期もあるが、それは血を欲しているときだけ。血液を摂取することで温度が増していく。柔らかく抱きとめるそれに甘え、精神を預けるようにしてもう一度深い眠りに落ちていく。もう悪夢は見ないだろう……




