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2週間、短いように見えて非常に長い時間が過ぎた。最初は全治1ヵ月と大袈裟にいわれた右腕の怪我も毎日の治療のお陰で予定よりもかなり早く傷が塞がった。トリスのお陰、それが大きいのだろう。ついに右腕を覆っていた包帯とガーゼ、添え木を外すときがきた。くるくると巻き取られていく包帯、ぺりぺりと剥がされていくガーゼを遠く見つめる。次第に肌が露になっていく。何度も包帯やガーゼを替える時に見た筈の光景だが、細く窶れた黒みがかった腕の表皮に走る、割れ目やヒビのように細く長く盛り上がった瘡蓋が痛々しい。思わず目を背けたくなる、それほどまでに我ながら気色の悪い光景、痛みも強い。滲んでくる血液を綿で優しく拭き取り、医者の診察を受ける。
とんとんと腕を叩かれ、痛みを確認される。確かに腕の表層には痛みが残るが、内部つまり骨には痛みがない。怪我をしたのがこの世界で助かった、ここが地球であったならば、いくら最先端の治療技術とはいえ砕けた骨や断絶した神経を治癒することは多大な時間と金を必要としただろう。この世界にいたからこそ受けた怪我だというのに、そう考えてしまう自分がいる。はたしてこの思考は自分がポジティブに考えているのか、それとも無駄に考えすぎているのか。トリスは笑って励ましてくれたが。
傷だらけ、ただ皮膚の感覚は残っている。医者に言われるがままに指を折り曲げていく。全体の動きを確かめたいのだが、まずは指からだそうだ。ぐるぐる巻きにされ、動かすことも許されなかった腕。指も半分固定されていたためしっかりと折り曲げるのは久方ぶりだ。
ゆっくりと親指を動かす。まずは内側に折り畳んでいく。第一間接を内側に、第二間接を内側に、第三間接を内側に。思い切り強く握っているつもり、伸びた爪が掌に突き刺さるかと思うほどに曲げているつもりなのに、角度で言えば間接1つあたり30度ほどしか曲がっていない。どんなに力を入れようとも、枯れ枝がしなるような、その程度しか曲がることはない。次は外側、こちら側は普段通りの動きをすることができる。まぁ、もともと自分の手は外側に曲げられるほど柔軟ではない故に、親指を大きく開く程度でしかないが。
人差し指、外側に反らす。みしみしと骨が鳴る音が聞こえてきそうな、筋が悲鳴をあげる。次に内側に折り曲げていく。中指にも少しだけ力が入っていく、しかし自分で思っているほど曲がらない指。
中指も、薬指も、小指でさえも内側に折り畳むことはできなかった。頭の中では完全に折っているというのに、実際の光景は少し曲がった程度でしかない。頭と現実のギャップ、身体と精神の不一致に苛々とする。無理矢理折り曲げようと力をいれているのに、たいして変わらない現実、腕を滅茶滅茶にしてしまいたいという衝動が自分を締め付け巻き付いていく。ああ最悪だ、右腕が動かない。
そのあとも医者の言うままに動かそうとするも、結局右手がまともに動くことはなかった。それどころか、苛々する余りに傷が少し開いたようで、新たに巻いたガーゼに滲んできてしまう始末だった。トリスが自分の肩を抱く、落ち着かせようとしてくれているのか、これが落ち着いていられるか。
医者は自分を必死に励ましている。大丈夫、リハビリをすれば治る、筋力が落ちているだけだ。果たして本当にそうなのか?本当に自分の腕はもう一度もとの用に動くようになるのだろうか。そうは思えない、今の現状を考えればそんなにうまい話があるようには思えない。だったら、まだ右腕はこれが限界ですと今宣言してくれたほうがいい。現に受傷したあとの診察ではそういっていたじゃないか。それが医者なりの優しさなのは理解している、ただそれでも辛いものは辛い。想定していた事柄の中でも悪いほうに転がったという事実、そこで医者は患者に希望を持たせる。だからといって辛さが晴れるわけでもない。それだけの間、稼ぐことができなかった。金は何の問題もないが、新たな装備のために貯蓄することができなかったという事実が辛い。今まで自由自在に使えていた部分が、思うように動かなくなったという事実が辛い。そして、哀れむように同情してくる人達が辛い。口に出すことはないが、正直そんな同情なんて要らない。惨めになるだけだから。
医者と話す。自分の右腕のリハビリ、それは行っていくことにする。半ば諦めているが、それでも少しはマシになるのならばそれに頼らないという選択肢は存在し得ない。やることは別に難しいことじゃない。ものを握るということを必ず行うということだけ。最初は大きいものから、だんだんと細いものまで握れるようにする。そうすることでゆっくりと稼動域を増やしつつ、減少した筋肉の量をもとのものに近づけるそうだ。握るものは何でもいい、細めの丸太あたりがちょうどいいだろうか。それとも自分で何か作ってみようか。この2週間で左手のみの生活にも慣れてきた、トリスに手伝ってもらえればどうにかなるだろう。何時までもくよくよとしていても始まらない。幸運なことに自分は近接戦闘に重きを置いてはいない。右手はもともと闇属性近接魔法のときくらいしか使っていなかったのだ。ダークソードくらいならば問題はないだろう。手首は怪しいが、腕は曲がるのだから。
金を払い、トリスとともに宿に戻る。一応できるだけ安静にしておいてほしいといわれたが、戦闘くらいは問題ないだろう。右手に負荷を掛けなければいい、上級最上位モンスターと戦わないようにすればいいのだから。それに多少は動かしたほうがいい、故にしばらくはランクの低い依頼をしつつ、金を少しずつ稼いでいこうと思う。戦闘は主にテン達にやってもらえばいい。ただ、それは明日からだ。今日はいろいろ買わなければならないものがあるのだから。
まずは防具屋に向かう。先の戦闘で潰され、拉げ割れた手甲や血に塗れたグローブは使えない。新たに買わなければならないが、素材を持っているわけでもない。防具屋で手甲を購入する、金属製の薄く重くないものを1つ。オーダーメイドとなってしまったのは片手だからで、デザインは特に指定していない。ただ、しっかりとしてかつ軽いものを頼む。そして鎖帷子の修繕も頼み、その足で鍛冶屋に向かう。
鍛冶屋、広いスペースの中で受付などの客が入れるスペースはひどく狭い。あとは工房となっている。鍛冶屋といえば鍛金のイメージしかなかったが、ここは違うらしい。当然鋳造や鍛金も行ってはいるが、それとは別に裁縫なども任されている。そこに兎の毛皮を渡す。結構な枚数、6枚を渡し作ってもらうはグローブ1組。金を支払い、手の採寸を行う。ガーゼと包帯が巻かれ、それをはずすと傷だらけの腕が出てくる光景には鍛冶屋の受付も少したじろいだように見える。それでもプロ、職人前途した彼はすぐに立ち直り採寸を行う。出来上がりは4日後、手甲のほうもそのくらいだ。それまでは右腕をしっかり庇いつつ、リハビリをこなしていこう。時間はいくらでもあるのだ。
そういえば、地球とこことの大きな違いは時間に対する価値観だろう。地球、特に日本ではどんなときも時間に縛られていたような、常時時間を気にしていた。しかしながら、この世界では違う。まず正確な時間を計ることが難しい、もしくはひどく高額なのだ。スローライフを体現している世界、日の出頃におきだし、日没頃に眠っていく、そんな生活が広がっている。もうそれにも慣れた、今地球に帰ったとしたらおそらくノイローゼになってしまうだろう。それほどまでに時間に対する感覚が変動したのだ。1日自体が長くなったような錯覚に陥るかと思うほどゆったりとすごせる世界。文化や食事などの面では日本のほうが上かもしれないが、自然や時間間隔などの数少ない事柄に関してはこちらのほうが優れているだろう。




