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甲乙丙のケースは全く意味がないと言わればそうかも知れませんが、
別々の時代を生きる、本編とはあまり関係のない3人を通してあることを描こうと自分なりに頑張った結果です。
良かったら読んでみてください。
<甲のケース>
甲は相変わらずその場所に入り浸っていた。毎日授業に出席し、そのあとそこに向かう。ごく普通の一般的な住宅街、見た目だけは。その実人が全く住むことのない異界の地。
事件発生から2ヵ月が経った。あの会見以来、警察はこの事件に関して証拠を1つ足りとて発見することはできていなかった。しかしながら、それをマスコミがバッシングすることはなかった。そして人々はそれを批判することもなかった。被害者の親、その極一部の人間を除いて。
警察は有能な組織だ。その事実に1点の陰りもなく、今日も様々な事件を解決している。つい最近も、新潟第3区居住域にて発生した男児誘拐事件の犯人を、3日も経たずに検挙、逮捕した。男児は無事保護され、その日のうちに取り調べが行われた。犯人はあの事件と混ざれば捕まることはない、と踏んでいたようだが、警察はそこまで甘い組織でもない。あの事件だけが異常なのだ。現にマスコミはそれを一瞬報道した後、その犯人の過去などを大大と取り上げていた。
人々は、あの事件をなかったことにしようとしている、その事実は誰の目にも明らかだ。現地取材と称して根掘り葉掘り嗅ぎまわるマスコミでさえ、そんなことはしなかった。警察は威信をかけて捜査などせず、ただただそれ以前のように仕事を続けている。野次馬も発生しない。
ある日、住宅街に入ろうとした甲は親子連れと遭遇した。親子連れは、早足でその前の通りを歩いていたが、子供のほうが甲を見つけたようだった。
「お母さん、なんであの人はあそこに入っていくの?」
そう問いかけた子供を、母親は叱った。そんなことは関係ないでしょ、あそこは近づいてはダメなの。絶対にダメ。そして、こちらに視線すら投げずに子供を抱え走って行った。その時のこちらを見る子供の目を甲は覚えている。無邪気に、不思議だと思ったことを口に出しただけでこうなるのか、子供の目はそう語っていた。
ただ単に、人々は怖いのだ、甲はそう思う。今の世界、解明されていないことなどほぼ存在しないといっていい。遥か昔から人々が恐れ慄いてきたバミューダトライアングルなどの恐怖の地帯は科学的に解明されている。原因不明の風土病なんてものは存在せず、どんな病気でも治療さえすれば最悪の場合でも進行を止めることができる。昔から伝えられてきた妖怪や幽霊は科学的に存在しないことが実証され、博物館で当時の資料を人々は面白おかしく嘲笑を込めて見世物にしている。何たらのミイラ、何たら伝説、何たらの怪、小さい子ならばともかく、人々はそれを侮蔑し、ありもしないものとわかりきっている。恐怖の象徴がそうであるとするならば、希望の象徴にしてもそうだ。遥か昔、船頭は船のマストに光が灯ると、嵐を鎮め船を守ってくれる妖精だと考え、聖エルモの火と名付け敬ってきた。人々は自分たちの病気をほぼ克服し、そして延命、老化の進行さえも遅らせることに成功した。
古から受け継がれてきたものは全て丸裸にされ、学問というものに辱められ、貶められてきた。もうこの世界にその魔の手から穢されずに純潔を守るいたいけな少女はほぼ存在していない。そんなものにお目にかかれるなんて幸運は盲亀の浮木よりも難しいかもしれない。その中にふと生まれてきたあの事件。当然、人々は降ってわいた御伽噺をいつものように犯そうとした。しかしながら、どんな事でさえも組み伏せてきたその剛腕、口をもってしても歯が立たず、その目論見は水泡に帰すこととなった。そこに至って初めて、人々は恐怖した。負けを知らない将軍は初めての敗北を抱え込み、狼狽え、対処できなくなる。まさにその通りだった。
人々は負けを認めるしかなかった。しかし、それは彼らのプライドが許さなかった。故に彼らは見なかったことにした。臭い物に蓋をしたのだ、甲はそう考えている。恐らく、自分以外にそう考えている人は星の数ほどいるだろう、ただそれを口にはださない。特に有識者は決して口を開くことがない、そのプライド故にだ。
人間にとっては手痛いことだが、こと甲を含む極少数の人間にとっては非常に都合のいいことでもあった。人々はそれをなかったことにした、見なかったことにした。結果その住宅地を取り壊そうという計画さえも頓挫してしまったのだ。その住宅地は都心にあるのに、誰も話題にせず、ない場所として扱われている。それは、甲のようにそこをオアシスとしている人にとっては僥倖であった。それどころか、その場所に面したところにすむ人々は、真横にそんなものが存在していることに恐怖し、その地を離れていく人が出てくるようになった。
住宅街の自分の場所に座る。2月経ち、そこに住むものも現れ始めた。ホームレスとは違う、そこを魂の休息地として、風前の灯となった自然の象徴として敬意を持って生活をする人たちだ。今この住宅街にいる人はおおよそ10数人、皆顔見知りになった。家は雨風を凌ぐには最適だし、水道も流れている。電気など彼らは必要としない。食料は狩りをする。動物はこの住宅街に沢山住んでいる、それを狩るのだ。狸、ハクビシン、猫、犬、鳩、烏、住処を追われた動物たちにとってもオアシスなのだ。先日甲は狐を見た。どこかに潜伏し、息を潜めていたであろうそれは、ここにきて伸び伸びと生活していた。
この住宅街において、動物は人間の餌となっている。しかし、その逆も然りだ。もう2人ほど、疲れ、ボロボロになったその体を自然に還してきた。古参ともなった甲はそのうちの1人の手伝いをした。死を目前にした眉間に皺があるその人は、安らかに、決して誰にも見せてこなかったであろう満面の笑みを浮かべこの世を去った。3日後、甲がそこに行ったときにはもう少しばかりの骨と肉が残されているばかりだった。男は自然と同化したのだ、そう思うと少し羨ましかった。
今日も甲は自分の特等席に腰かける。仲良くなったハクビシンを膝の上に乗せ、ゆったりと空を見る。美しい星空、周りは漆黒に包まれ、しかし全く見えないということはない。自分の中の何か抑圧されてきたものが研ぎ澄まされ、ゆっくりと、だが確実に癒されていくのが彼には心地いい。
住宅街はゆっくりと、ゆっくりとその規模を広げていた。




