ざくざく
ざくざく
雪を踏みしめる音
その地方に冬が本格的に到来して、寒さで身が凍る頃に一人の男が放浪の旅にでていました。
身なりはお世辞に言っても決してこの厳しい寒さをしのげるようなものを着ているわけではなく、ボロボロのローブをまとっているだけにすぎませんでした。
右手で持っている樫の木で作った杖を支えにしながら、辺りが変わらぬ雪景色の中を一人とぼとぼと歩いていました。
彼が歩く度に雪がざくざくとおしゃべりをします。
彼は、魔法が使えない魔法使いでした。
昔に憧れていた魔法使いに弟子入りしたはいいものの、運命の悪戯か全くとして魔法を修得することはなく、さらにはその憧れていた魔法使いから見放され、追い出された身となってしまいました。
行くあてもなく、ただ放浪している彼はこの寒さに打ち砕かれそうになっていました。
温かい食事、暖かい服などが夢のようなものになっていました。
そんな時、変わらない雪景色の中に二つ異質なものが居ました。
一つは彼自身でしたが、
もう一つは彼の行く先に倒れていた巨大な動物でした。
それは、彼が生きてきた中でまだ一度も遭遇したことのない動物でした。
その動物は四本足でとっても大きな胴体ゆえに長い尻尾を携え、二本の角を生やしていました。そして、彼が一番驚いたのは、その動物には立派な翼を持っていたことです。
その動物は眠っているのかわからないのですが、全く動いていませんでした。
なので、彼は少しの恐怖心とそれに勝る好奇心をもって、その動物の近くまで行きました。
そして、彼は確信しました。
「ドラゴンだ」
魔法使いを目指す誰もが憧れるのはドラゴンに出会い、パートナーになることです。
この世界では、魔法というのはドラゴンから昔の人間が授かったものであると考えられていました。
ですから、ドラゴンというのはどんなに高尚である魔法使いであっても、尊敬に値する存在でした。
魔法使いの中には、一度もドラゴンの姿を拝むことすらないまま、この世を去ったものも多いのです。
ドラゴンは未知の存在でした。
未知の存在だからこそ色々な伝説がありました。
ドラゴンはこの世の中の審判を担っていて、もし人間の大半が悪さをしていたのなら天空という雲のさらに向こうから舞い降りて罰を与える、ということなどがありました。
そして、ドラゴンに出会ったものは強力な魔法を授かる、ということも。
魔法使いになろうとして、中途半端な結果になってしまった彼はそのことを何故か必然のように思い出してしまいました。
そんな損得を計るようなことはしたくなかったのですがやはり魔法使いになる夢を絶たれた彼には思い浮かんでしまったのです。
しかし、彼はそんなことを頭の中から払拭しました。
ただ、彼がその代わりに思ったことはこのドラゴンを助けようということでした。
でも、このドラゴンはいったいどうしたのでしょうか。
ドラゴンは天空に居るはずです。
普通ならばこんなところに居るはずはないのです。
彼は恐る恐るドラゴンに触りました。
ドラゴンの鱗は、ほのかに温かく優しいものでした。
今でもドラゴンは眠ったようです。
ドラゴンの体温が彼の手に伝わってくるので、死んだわけではなさそうです。
彼がほっとしたのもつかの間で、なんとドラゴンが体を起こしました。
ドラゴンは辺りをしかと見渡し、そして、視線を落とし、彼の存在に気が付いたようです。そうするとドラゴンは敵意を表した眼で見てきました。
翼をバサバサとはためいて、自らで自分の怒りを抑えようとしているようです。
「貴様は、ここで何をしているのだ」
耳の奥底まで響く大きく重低音の声に彼はただ体をすくめることしかできませんでした。
「もしや、貴様は魔法使いなどという穢れた輩ではなかろうな」
ドラゴンはさらに鋭くした冷ややかな眼で彼を見下しました。
「僕は魔法使いを目指そうとして中途半端に終わってものです」
彼は正直に答えました。ドラゴンの睨む視線に対して、正直に答えなければならないと思うようになっていました。
「フン、助かったな、小僧。もし、貴様は魔法使いなどという下らない奴だったら死んでいたと思え」
ドラゴンは彼から視線を外し、空を見上げました。
ドラゴンはどうやら魔法使いをひどく嫌っているようなのです。
救われた、という安心感とともに内心ではなぜそんなに魔法使いを嫌っているのだろうという疑問が彼の心に浮かんできました。
「あ、あの…」
彼はか細い声でドラゴンに向かって声を掛けました。
ドラゴンには彼の声が聞こえたのでしょうか、ゆっくりと威厳を保ったまま彼の方を見ました。
「なんだ、まだ居たのか。貴様に興味はない。すぐに去れ」
ドラゴンは先程とは違い、興味を失ったような顔で彼を一瞥するとまた空を睨みました。
彼は決心すると、空気を肺の奥深くまで吸い込んで大きな声とともに吐き出しました。
「なんで、魔法使いが嫌いなんですか!」
この言葉にスイッチが入ったのか、ドラゴンは非常に素早く彼との距離を縮め、彼の眼前まで来ました。
その顔には怒りというよりも悲哀の表情がありました。
「何故、魔法使い…いや、人間という種族は何でも知りたがろうとするのか」
ドラゴンは嘆息し、話を続けました。
「無知であることは罪であるが、過知も罪であるのだ、小僧」
彼はドラゴンの言葉をそのまま飲み込むことはできませんでした。
「この世の中には知識人と言って、この世の万物を知りうる方がいます。また、魔法使いもドラゴン様の魔法を借りて、世の中のために尽くしています」
ドラゴンは彼の言葉にじっと耳をすませて聴いていました。
でも、ドラゴンはその言葉を一蹴しました。
「知識人というものはまるで何でも知っているような格好をしているが実は氷山の一角に過ぎないものを一般人よりも少々知っているだけだ。魔法使いに関しては我らドラゴンの魔法をもはや私利私欲の為の道具にしか見ていないのだよ」
ドラゴンは彼をしかと見ました。
「小僧だって、もし魔法使いとなればそういう連中の一員になっていたに違いないだろう」
彼は見当違いのことだ、と言わんばかりの勢いで言いました。
「そんなことはありません!」
しかし、ドラゴンは返答しませんでした。
「惜しいかな、彼らがまだ無知の頃には誰もがそんなことを言っていた。しかし、理想や目的というのはこの世のいずれにおいても弱い」
少しの間を開けて、ドラゴンは言いました。
「伝説で耳にしたことがあろう。もし人間の大半が悪事をしていたのならドラゴンが人間に対して罰を与える、と。愚かなことだ。少しの魔法使いが多くの人間を巻き込むのだ。そう、今がその時だ。もう仲間のドラゴンは準備をしている」
彼の背筋に何か冷たいものが走りました。
それは、この気候のせいだけではないでしょう。
「事が起こる前に、大地の営みの最期を感じようと眠っていたが、まさかこんな所に人間が居るとは思わなかった。が、しかし、小僧なら私の複雑な気持ちを感じる気がするな」
ドラゴンはもう空に向けて、飛び立とうとしている。時間は切迫しているらしい。
「私こそが人間に魔法を教えた愚か者であるのだから。まさか、こんなことになるなど無知だったあの頃に予想する事は出来なかったよ」
ドラゴンはそう言って、飛び立ちました。
始めはくっきり見えたその姿もいつしか見えなくなってしまいました。
しかし、彼は見ました。
代わりに、何か大きなものがたくさん雲から突如として現れたのを。
これは夢なのか、彼はそう思いたかったのですが、よくわからない痛みによって彼の意識は遠ざかっていきました。
ざくざく
何かが突き刺さる音