0 あらしのよるに
黒い雲が空を覆う。漂う風に水気を感じる。
嵐が近づいていた。
リリは湖畔の近くで騒いでいる子供たちに、家に入るよう声を張り上げた。
子供たちは、跳んだり跳ねたりしながら、それぞれに返事をする。
「空が黒いよ」「なんだろう」「嵐だね」
1、2、3。
得た知識を弟たちに教えたがる次兄。まだ幼い弟たちは首を傾げた。
「あらし?」「なにそれ?」「おいしい?」「たのしい?」
4、5、6、7。
ドアを開けて、室内に入る子供たちの数を数えていたリリは、眉をひそめた。
数が合わない。2人足りない。
ドアから首を伸ばして辺りを見回すが、やはりいない。
風は、益々荒れていく。
「美味しくも楽しくもないよ。強い風はびゅーびゅー吹いて家を揺らすし、強い雨はばしばし屋根を叩くし。……おまえらみたいなチビなんか、すぐに飛ばされちゃうぞ」
リリの背後では、次兄が弟たちを怖がらせてやろうと、声を低めてにやついている。
「とばされちゃうの?」「こわいね」「こわい……」
次兄の思い通りに顔を曇らせ、身を寄せ合う弟たち。
一際大きい風が吹いた。窓が音を立てて激しく震える。
子供たちが頭を抱えて悲鳴を上げた。
木製の家自体もがたがたと音をたてて揺れている。
リリは、泣きそうになっている子供たちを宥めにドアに背を向けた。
と、その時。
閉じたばかりのドアが、壁に叩きつけるように開いた。
振り返ると、もうすぐ成体に達する長兄が、肩で息をして立っていた。
「にーちゃんっ」「にーに、こわいよぉ……」
弟たちがぽすぽすと長兄の足に抱きつく。
抱きつかれた長兄の方はというと、無言だが明らかに安堵した様子で弟たちの頭をなでた。
しかし、弟たちを見つめるその藍色の目は、とても辛そうな色を帯びている。
リリの背に冷たいものが落ちた。
「スイ」
長兄の名を呼ぶ。
「あの子は……?」
沈黙。
躊躇いがちに、長兄がリリを見た。
視線が交わること、数秒。
長兄は口を開き、言葉を探すように目を泳がせ、結局何も見つからなかった。
「おにーちゃん……?」
弟たちもいつも頼りになる長兄のその仕草を、不安そうに見上げる。
リリは両手で胸を押さえた。
心臓の音が煩い。
風の音も子供たちの声も、鼓動に遮られてくぐもっている。
でも、目は長兄から離せなかった。
長兄が顔を伏せる。リリから逃げるように。
「――ごめんなさい」
なんとか吐き出されたその言葉は、嫌にリリの耳に響いた。
長兄をのぞき込んだ弟の一人が不思議そうに尋ねた。
「にぃ……泣いてるの?」
指摘された長兄は、静かに首を横に振った。
しかし、再びリリに向けられた瞳は、深海の月のように揺らいでいた。
ゆっくりと、唇が動いた。
音にはならないから、弟たちには分からない。
けれどリリは、彼の言葉をはっきりと受け取った。受け取って、しまった。
本能は一瞬理解することを拒んだ。だが、じわじわとその意味が脳に染み込んだ瞬間。
目の前が暗くなった。
「リリッ」「おかあさんっ」
足元が崩れた。奈落の底に突き落とされたような気分だった。
子供たちの泣きそうな声が遠い。
音が全て消えていく。感覚も、思考も、消えていく。いや、消えてしまえ。
ただ、頭に残っている言葉は、ぐるぐる回っている言葉は、消えてくれない言葉は、
彼の、
――飛ばされた。
――手が届かなかった。
――助けられなかった。
――あいつは、もう、
信じたくない。信じられない。
そんなこと、そんな、
愛しい末子が、もうこの腕で抱けないなんて――
『――ごめんなさい』
リリの意識はそこで途絶えた。
窓の外では、滝のような雨が降り出していた。
***