第6話:雨の日のDIY。雨音をジャズに変えて、端切れスリッパのDIY
夜明けとともに目を覚ました千尋は、小屋の空気が昨日までとはわずかに違っていることに気づいた。
肌に触れる空気が、どことなく重たく冷たい。
ベッドから身を起こして窓の麻布をそっと持ち上げると、空一面がどんよりとした鈍色の厚い雲に覆い尽くされていた。遠くの山並みは白く霞み、常闇の森の木々は湿り気を帯びた深い緑へと沈んでいる。湿った土と濡れた木の葉の匂いが、風に乗って微かに運ばれてきていた。
(……雨が、降るわね)
千尋は小さく呟いて、空を見上げた。
前世の社畜時代において、「雨の日の朝」は文字通りの地獄だった。
ただでさえ重たい身体を引きずり、濡れて足首に張り付くストッキングの不快感に耐えながら、壊れかけのビニール傘を差して駅へ向かう。すし詰めの満員電車に乗り込めば、他人の濡れた傘の先が容赦なく脚に当たり、車内は生乾きの服の臭気と人の呼気が混ざり合って、息をするだけで吐き気を催すほどの不快指数百パーセント。職場に着く頃には靴の中までぐっしょりと濡れ、冷房で冷え切った足先が一日中ジンジンと疼くのだ。低気圧のせいで頭蓋骨を万力で締められるような偏頭痛がしても、ロキソニンを胃に流し込んでキーボードを叩き続けなければならなかった。
ぽつ、ぽつ。
屋根を叩く最初の雫が、静かな小屋に響いた。
あっという間に雨足は強まり、ザーッという激しい本降りの雨となって、森の木々を激しく打ち据え始めた。
パラパラパラ、バババババッ!
その途端、小屋の薄い屋根から、鼓膜を突き刺すようなけたたましい金属音が鳴り響いた。
この山小屋の屋根は、一部に古い波板のようなトタン材が使われており、激しい雨粒が落ちてくるたびに、まるで頭の上で無数の小石を叩きつけられているかのような凄まじい反響音が室内に充満する。壁の隙間からは冷え冷えとした湿気がじわりと這い込んできそうになり、放っておけば部屋中がカビ臭いジメジメ空間へと逆戻りしてしまうところだった。
「……うん、分かってた。山小屋の雨対策、忘れてたわけじゃないわよ」
千尋は慌てることなく、仁王立ちになって深く息を吸い込んだ。
昨日、外壁の隙間を塞いだスキル【住空間の調律】を、さらに一段深く、意識的に展開していく。
目指すのは「音と湿度のコントロール」だ。
雨音を完全にゼロにする必要はない。自然の雨音には、本来、人の脳をリラックスさせる『一分の一ゆらぎ』の周波数が含まれている。問題なのは、薄い屋根材が過剰に反響して金属的な打撃音に変えてしまっていること、そして湿度が上がりすぎて不快になることだ。
「屋根の振動を吸収して、柔らかく受け流しなさい。トタンの鋭いノイズを削って、丸く、穏やかな音に変えるの」
千尋が両手を掲げると、手のひらから淡い翡翠色の光がふわりと立ち上り、天井の梁と屋根裏全体へと染み渡っていった。
光の膜が屋根の裏側に薄いクッションのように定着した瞬間――劇的な変化が起きた。
ババババッ! と暴れていた耳障りな金属音が、ふっと音量を落とした。
トトトト……シャワシャワシャワ……。
まるで、落ち着いた間接照明の灯る深夜のジャズカフェで、ドラマーがブラシを使ってシンバルを優しく擦っているかのような、柔らかくリズミカルなホワイトノイズへと変貌したのだ。激しい大雨のはずなのに、小屋の中に響くのは、耳に心地よく寄り添う穏やかな雨のメロディ。
さらに千尋は、室内の空気に意識を集中させる。
「湿度は、五十パーセントをキープ。外の余分な水蒸気は壁の外側で結露させて雨樋へ流して。部屋の中は、サラサラのまま保ちます!」
スゥッ、と部屋の空気が澄み渡った。
雨の日にありがちな、空気が肌にまとわりつくような重苦しさが一瞬で消え去る。木製の家具や干し草ベッドが湿気を吸って重くなることもなく、むしろ磨き上げたパイン無垢材の床からは、雨によって引き出された芳醇な木の香りが、ふわりと穏やかに立ち上ってきた。
「……んーっ、完璧!」
千尋は満足げに伸びをした。
外は視界が白く煙るほどの土砂降りだが、小屋の中は春の陽だまりのように温かく、さらりとしていて、心地よい雨音のBGMだけが流れている。
どこへも出かける必要はない。
満員電車に乗る必要も、上司の機嫌を伺う必要もない。
雨という自然のカーテンによって、外界から完全に遮断された、究極のお籠もり空間。
「こんな日は……おうちでまったり、ハンドメイドに限るわね」
千尋はご機嫌で鼻歌を歌いながら、荷物袋をひっくり返した。
取り出したのは、神殿から支給された荷物の底に押し込まれていた、目の粗い麻布の余り布。それから、ボロボロの作業着のポケットに入っていた、毛羽立った柔らかなウールの端切れだった。どちらも着るには小さすぎるが、捨てるには惜しい素材だ。
さらに、昨日天日干しして大成功を収めた、あの太陽の匂いがする「ハーブ入り干し草」を、マットレスの隅から両手いっぱいに拝借してきた。
「床はパイン無垢材で最高だけど、ずっと裸足で歩いていると、雨の日は少し足元が冷えるのよね。やっぱり、お部屋の中には可愛いスリッパがなくっちゃ」
目指すのは、足先をふんわりと包み込み、歩くたびに幸せになれる「手作りの極上ルームシューズ」だ。
千尋は手斧の刃先を使って、木片を削り出し、先端に小さな穴を開けた素朴な木製の裁縫針を作った。麻布から解きほぐした丈夫な麻糸を針穴に通し、準備は完了だ。
まずは型紙作り。
床に座り、自分の素足を麻布の上に乗せて、万能ナイフの先で大体の足の輪郭をなぞっていく。
足裏の底板用に、厚手の麻布を四枚切り抜いた。左右で二枚ずつ重ねて強度を持たせる計算だ。
続いて、甲を覆うアッパー部分の布を裁断する。外側には丈夫な麻布を、そして直接素肌に触れる内側のライニングには、あの柔らかなウールの端切れを贅沢に配置する。
「ここからが、私のこだわりポイントよ」
千尋は底板用の麻布を二枚縫い合わせる際、かかとの部分に袋状のスペースを残しておいた。
そこへ、干し草を丁寧に手でほぐしながら、ぎゅっ、ぎゅっと詰め込んでいく。ただの草ではない。太陽の光をたっぷり浴びて膨らんだ、弾力性抜群の牧草と、甘い香りを放つカモミールの乾燥花弁をブレンドした特製クッション材だ。
歩くたびにかかとにかかる衝撃を優しく吸収し、同時に足裏のツボを刺激して微かなハーブの香りを放つ――現代のスニーカーでいう「エアクッション」と「アロマインソール」のハイブリッドである。
チク、チク、チク……。
木製の針が、ざっくりとした麻の織り目を規則正しいリズムで潜り抜けていく。
外ではザーザーと雨が降り続いているが、屋根を叩く音はどこまでも優しく、部屋の中を満たす静寂を際立たせていた。
手先を動かし、少しずつ形になっていく布を見つめていると、余計な雑念が頭から綺麗に消え去っていく。前世では「何もしない時間」が怖くて、休日すら仕事のメールをチェックしては胃を痛めていた千尋だったが、今はこの無心になれる手仕事の時間が、愛おしくてたまらなかった。
一針、一針に【住空間の調律】の魔力が無意識のうちに込められていく。
麻糸の強度が補強され、布の端のほつれが綺麗に馴染み、ウールの毛並みがシルクのように滑らかに整っていく。
仕上げに、かかとの部分をしっかりと麻糸で縫い閉じ、甲のパーツと底板をぐるりと一周、頑丈な巻きかがり縫いで繋ぎ合わせた。
「……ふぅ! できたぁ……!」
二時間ほどの熱中を経て、千尋の手のひらの上に、一対のルームシューズが完成した。
見た目は、ころんと丸みを帯びた、北欧風の素朴で愛らしいバブーシュ(かかとのないスリッパ)。
外側は温かみのある生成りの麻布、履き口から覗く内側は淡い羊毛の柔らかなオフホワイト。手作りの不揃いなステッチが、かえって既製品にはない温もりを醸し出していた。
千尋はゴクリと喉を鳴らし、床にスリッパを並べた。
そして、冷たい素足を、おずおずとその中へと滑り込ませる。
「……っ……うわぁ……」
足先を入れた瞬間、千尋の口から感嘆の吐息がこぼれた。
内側のウールが、まるで生まれたての子猫のお腹に触れたかのように、ふわっふわの極上の柔らかさで足の甲と指先を包み込んできた。チクチク感など微塵もない。体温がウールの繊維の隙間に蓄えられ、つま先からじわじわと温もりが広がっていく。
立ち上がり、一歩、足を踏み出してみる。
サクッ……。
かかとに体重が乗った瞬間、内部に仕込んだ干し草クッションが、小気味よい微かな音を立てて沈み込んだ。
硬い床の反発を完璧にいなし、まるで雲の上を一歩ずつ踏みしめているかのような、もちもちとした弾力。
そして、足を下ろすたびに、かかとの隙間からカモミールの甘く爽やかな香りが、足元からふわりと立ち上ってくる。
ペタペタという素足の音は消え、代わりにサッサッと床を優しく撫でるような衣擦れの音だけが響く。
飴色のパイン材の床と、手作りのルームシューズ。その相性は抜群だった。
歩くことが、ただそれだけで極上のリラクゼーションになってしまう。千尋は嬉しくなって、用もないのに部屋の中をトコトコと何往復も歩き回ってしまった。
「大成功! これなら冬になっても足元が冷える心配はゼロね!」
足先がぽかぽかと温まったところで、千尋はかまどへと向かった。
小さな鉄鍋に井戸水を張り、火を起こす。
お湯が沸くのを待つあいだに、昨日の朝に収穫して干しておいたカモミールの花頭と、庭の隅で見つけた野生のペパーミントの乾燥葉を、木の器の中で指先で軽く揉み合わせた。
シュンシュンと小さな湯気を立てるお湯を器に注ぐと、ジュワッと鮮やかな黄金色の成分が滲み出し、部屋いっぱいに甘く清涼なアロマが弾け飛んだ。
熱々の器を両手で包み込む。陶器のような滑らかな木肌を通して、じんわりとした温もりが手のひらに伝わってくる。
千尋は、小屋の北側の壁際に転がっていた、手入れ済みの古い木製デスクの引き出しを開けた。
昨日、大掃除をした際に見つけておいたものだ。
中に入っていたのは、前の住人が残していったらしい、分厚い革表紙の書物。
表紙の文字は掠れていたが、ページをめくると、このエルダリア王国の地理や、周辺に自生する植物のスケッチ、神話の断片などが、細かなインクでびっしりと書き込まれていた。文字は異世界のものだったが、転移の恩恵なのか、不思議とすらすらと意味が頭に入ってくる。
千尋はハーブティーの器をデスクに置き、木製の丸椅子に腰掛けた。
足元は手作りのルームシューズに守られてぽかぽか。
窓の外では、依然として白く煙る大雨が森を濡らしている。
トトトト、シャワシャワ……と、屋根を打つ規則正しい雨音のBGM。
ふう、ふう、と息を吹きかけ、ハーブティーを一口啜る。
ミントのスッとする爽快感のあとに、カモミールの濃厚な蜜のような甘みが広がり、喉を潤しながらお腹の奥へと温かさが落ちていく。
器を置き、革表紙の古い本をゆっくりとめくる。
カサリ、と乾いた羊皮紙の擦れる音が、雨音の中に溶けていった。
(……あぁ、なんて贅沢なんだろう……)
千尋はページに目を落としながら、心の底から満たされた笑みをこぼした。
前世にいた頃、こんなふうに雨の日にただ部屋にこもり、温かいお茶を飲みながら本を読む時間なんて、年に一度だって取れなかった。常に「やらなければならないこと」に追われ、休むことに罪悪感を抱き、時間を浪費することに怯えていた。
けれど、ここには誰の目もない。
締切もない。
雨が降っているから、外に出ない。
足が冷えるから、スリッパを作る。
喉が渇いたから、お茶を淹れる。
それだけのことが、どれほど人間の心を豊かにしてくれるか。
窓を打つ雨粒を見つめながら、千尋はゆっくりと紅茶を飲み干した。
雨音のジャズが流れる小さな山小屋の中で、元社畜OLの最高の休日は、誰にも邪魔されることなく、どこまでも優しく、穏やかに流れていった。




