第51話:荒らされた封印の地。黒い瘴気と庭先に身を寄せる森の命たち
山小屋の庭先のぬかるみから、けたたましい水音と、悲鳴にも似た喚き声が上がっていた。
「ひ、ひぃぃぃっ! な、何なのだあの娘は!? 化け物だ、人間の皮を被った天災だぁぁぁっ!!」
「旦那、早く立ってください! あんな風圧魔法、まともに喰らったら内臓が破裂しちまう!!」
千尋の放った【住空間の調律・強制換気モード】という名の超高圧ブロワーによって、室外へと射出された大公派の官吏オズワルドと、裏ギルド『黒狗』の傭兵たち。
彼らは前庭の泥水の中に顔面から突っ込み、上等な絹のローブも、頑丈な革鎧も、見る影もなく泥塗れになっていた。鼻や口にまで粘土質の赤泥を詰め込まれ、鼻水を垂らしながら這いずり回る姿には、先ほどまで王都の権力を笠に着て威張り散らしていた傲慢さの欠片も残されていない。
「に、逃げるぞ! あんな常軌を逸した怪物の相手などしていられるか!!」
「おい、馬はどうした!?」
「駄目です、風圧の余波に怯えて森の外へ逃げちまいました!!」
「ええい、歩いてでも退却だ! 早くしろ、あの娘がまた箒を持って出てきたら命がいくつあっても足りんぞ!!」
オズワルドは傭兵の肩にしがみついて立ち上がると、命からがら、山小屋の敷地から逃げ出した。
だが――恐怖でパニックに陥った彼らは、致命的な過ちを犯していた。
元来た街道へ戻る道ではなく、生い茂る木立の影、昼なお暗い常闇の森の深部へと向かう獣道へと、我先にと雪崩れ込んでしまったのだ。
足元の泥濘に足を取られながら、木の枝に顔を切り裂かれ、息を切らせて森の奥へと彷徨い込んでいく。
「ぜぇ、ぜぇ……っ、だ、大体ここはどこなんだ!? 街道はどっちだ!!」
「知るかよ! あんたがそっちへ走るからついてきたんだろうが!!」
「ふざけるな、私は貴族院の高級官吏だぞ! 雇われの身の分際で私に口答えを――」
オズワルドが金切り声を張り上げた、その時だった。
ヒタ……と、森の空気が不気味なまでに静まり返った。
雨上がりの爽やかな風は完全に途絶え、大気中に漂う温度が、まるで氷室の底のようにねっとりと冷え込んでいく。
周囲を取り囲む木々は、黒くねじくれ、葉を一枚もつけない異様な枯れ木ばかり。地面を覆う落ち葉は赤や黄色ではなく、墨汁を吸い込んだかのようにドス黒く腐敗し、踏み締めるたびにプシューッと嫌なガスを吹き出していた。
「な、なんだ……この気味の悪い場所は……」
歴戦の傭兵たちすら、肌を刺す悪寒に身を震わせ、足を止めた。
彼らが踏み込んでしまったのは、常闇の森において何百年ものあいだ語り継がれてきた禁足地――太古の凶悪な魔獣たちの死骸と穢れが封じられた『禁域の祭壇』だった。
開けた円形の広場の中央には、風化して苔むした巨大な黒曜石の祭壇が鎮座していた。
その四隅を取り囲むように、複雑な神代文字が刻まれた四本の石柱が聳え立ち、中心には、淡い青紫色の光を放つ巨大な『要石』が埋め込まれている。
要石からは、森の深部に沈殿する太古の怨嗟を抑え込むための、細やかな結界の波紋が絶え間なく脈打っていた。
だが、極限のパニック状態にあった男たちに、そんな古代の封印を理解する知性など残されていなかった。
「ひっ……な、何かいるぞ! あの石の影に、魔獣の目が光っている!!」
恐怖で目を血走らせたオズワルドが、要石の青紫色の輝きを魔獣の眼光と見誤り、ヒステリックに絶叫した。
「殺せ! 火を放て! 焼き尽くせぇぇぇっ!!」
「ちくしょう、喰らいやがれッ!!」
半狂乱になった傭兵の魔導士が、手にした杖をがむしゃらに振り回し、無秩序な火炎魔法を連射した。
ドォン! バァァァンッ!!
何重もの爆炎が、無防備な祭壇の中央へと直撃する。
数百年もの風雨に耐え、微細な魔力バランスによって保たれていた古代の遺物に、下品で乱暴な炎の衝撃波が無慈悲に叩きつけられた。
ピキィィィィィィン……ッ。
大気を切り裂くような、硬質で不吉な亀裂音が響き渡った。
爆炎が晴れた後――そこにあったのは、青紫色の光を失い、中心から十字に真っ二つに叩き割られた『要石』の無惨な残骸だった。
「あ……」
傭兵の口から、間抜けな声が漏れた。
次の瞬間。
ズズズズズズズズズズズズッッッッ!!!!
世界が、底から鳴動した。
地震ではない。大地の奥深く、地殻のさらに下層に眠っていた「何か」が、何世紀もの眠りから乱暴に叩き起こされたかのような、激しい脈動。
「ぎゃあああっ!? じ、地割れだぁぁぁっ!!」
砕け散った要石の台座から、蜘蛛の巣のように大地へと亀裂が走った。
割れ目の底から噴き出してきたのは、溶岩ではなかった。
ドス黒く濁った、紫色の奔流。
それは、太古の昔に大地を焼き尽くし、封印された古代魔獣たちのドロドロとした怨念と、腐敗しきった高密度の魔力粒子が混ざり合った――『未曾有の瘴気嵐』だった。
ボォォォォォォォォッ!!
天を突く巨大な黒紫の柱となって立ち上った瘴気は、森の上空を覆っていた澄み切った秋晴れのセルリアンブルーを、瞬く間に貪り食っていった。
太陽の光が遮られ、世界は一瞬にして、黄昏時を通り越したような陰惨な暗黒へと叩き落とされる。
吹き荒れる風には、腐ったヘドロと錆びた鉄の臭気が濃密に混ざり合い、触れた草木は見るみるうちに黒ずみ、葉を枯らし、ボロボロと崩れ落ちていく。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!? 助けてくれぇぇぇぇっ!!」
自らの愚行が生み出した地獄の光景に、オズワルドと傭兵たちは正気を完全に失い、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ惑った。しかし、噴き上がった瘴気の黒雲は、生き物のようにうねりながら、森全体を飲み込まんと怒涛の勢いで拡散を始めていた。
◇
一方、その頃。
山小屋の居間では、千尋たちが焼きたてのスコーンを囲み、穏やかな朝食の時間を再開したところだった。
「んーっ! やっぱり一番粉で作ったスコーンは最高ね! 外側はカリッとしてるのに、中はしっとりしてて、ベリーの甘酸っぱさがたまらないわ」
千尋はスコーンを小さく割り、自家製の有塩バターをたっぷり乗せて幸せそうに頬張っていた。
「本当に美味しいですわ、千尋お姉様! 紅茶の渋みとバターのまろやかさが、口の中で完璧に溶け合います!」
ノエルも嬉しそうに目を細め、白磁のカップを両手で包み込んで優雅にダージリンを啜っている。
アルヴィスもまた、口元にベリーの赤い果汁を少しつけながら、無言で三つ目のスコーンへと手を伸ばしていた。平和そのものの、幸福な朝の食卓。
――だが。
その平穏は、唐突に足元から響いてきた不穏な振動によって引き裂かれた。
ゴゴゴゴゴ……ッ。
「……ん?」
テーブルの上の紅茶の水面に、同心円の細かな波紋が走った。
食器棚の皿が、カタカタと微かに鳴り始める。
「地震……かしら? この世界にも地震なんてあるの?」
千尋が首を傾げた、その刹那。
バッ! とアルヴィスが椅子を蹴るようにして立ち上がった。
そのサファイアの双眸は鋭く見開かれ、南の窓の外――森の深部へと向けられている。
「……違う。これは、大地の揺れではない。……魔力の地脈が、底から破裂した音だ!」
「ぐるるるるるるッ……!!」
足元で丸くなっていたルゥが、毛を一斉に逆立て、牙を剥き出しにして低く唸り声を上げた。その金色の瞳には、先ほどの人間たちへの威嚇とは比べ物にならない、本能的な危機感が宿っている。
ギィィィィィィンッ!
納屋の奥から、耳を塞ぎたくなるような甲高い金属の摩擦音が響いてきた。
血相を変えて居間へと飛び込んできたのは、ギルバートだった。手にした真鍮製の携帯測定器『アイテール・クロノグラフ』の文字盤からは、パチパチと紫色の火花が散り、水晶レンズにビキビキと亀裂が走っている。
「千尋さん、アルヴィス閣下! 非常事態です!!」
ギルバートの悲鳴のような叫び声。
「常闇の森の最深部……座標X72、Y104の地点から、異常極まりない超高密度の汚濁魔力波が噴出しています! 指数関数的な拡散速度……このままでは、森全域が一時間足らずで死の瘴気によって呑み込まれます!!」
「な……なんですって!?」
千尋が立ち上がり、南向きの窓へと駆け寄った。
木枠の窓を押し開けた瞬間、千尋の息が止まった。
空が、死んでいた。
先ほどまであんなにも美しく澄み渡っていた秋晴れの青空が、森の奥から立ち上った巨大なドス黒い紫の雲によって、まるでインクを流し込んだかのように急速に侵食されていたのだ。
地平線の彼方から吹き寄せてくる風は、冷たく、重く、吐き気を催すような腐敗臭を孕んでいる。
森の木々が激しくざわめき、鳥たちのさえずりは一瞬にして途絶え、不吉な静寂が世界を圧殺していく。
そして――。
その異変に最初に反応したのは、人間たちではなかった。
サワサワサワッ、ザザザザザッ!
「……え? 何、この音……?」
ノエルが窓辺に寄り、怯えたように外を見下ろした。
森の木立の奥から、無数の葉を揺らし、下草を踏み荒らす、猛烈な足音が近づいてきていた。
一匹や二匹ではない。数十、数百という無数の生き物たちが、地響きを立てて山小屋の前庭へと向かって猛ダッシュしてきているのだ。
「敵襲か!?」
イヴァンが腰の短剣に手を伸ばした。
だが、森の生垣を突き破って前庭へと転がり込んできたモノたちの姿を見て、全員が言葉を失った。
タタタッ! ピョン、ピョンッ!
最初に庭の敷石へと飛び込んできたのは、長い耳をペタリと背中に張り付かせ、泥だらけになって震える十数羽の野生の野ウサギたちだった。
続いて、濡れた瞳を恐怖に見開き、細い足をもつれさせながら生垣を飛び越えてきたのは、数頭の小鹿と、その親鹿の群れ。
さらには、木の枝から枝へと必死に飛び移り、千尋の小屋の屋根へと滑り込んできた何十匹もの森のリスやモモンガたち。
「う、ウサギ……? 鹿……?」
千尋が目を瞬かせた。
それだけではなかった。
ドスン! ドスン! と重たい地響きを立てて森から現れたのは――大人の背丈の倍近くもある、漆黒の毛並みを持った巨大な『大角熊』だった。普段ならば屈強な騎士団ですら数人がかりで討伐する狂暴な上位魔獣である。
さらに、バサバサバサッ! と頭上を旋回し、庭の楡の木の枝へと舞い降りてきたのは、鋭利な爪と嘴を持つ巨大な猛禽類――『風切り大鷲』の群れ。
「ひっ……魔獣まで!?」
ノエルが息を呑んで後ずさる。
アルヴィスが即座に千尋の前に立ち塞がり、氷の魔力を両手に集めかけた。
――しかし。
「待って、アルヴィスさん!」
千尋が咄嗟にアルヴィスの腕を掴んで制止した。
「見て……あの子たち、戦おうとしてないわ!」
千尋の言う通りだった。
庭に雪崩れ込んできた魔獣や動物たちは、千尋たちに牙を剥くどころか、その瞳には狂暴さの欠片も宿っていなかった。
大角熊は、巨大な身体を小さく丸め、まるで叱られた子犬のように耳を伏せ、敷石の上に前足を揃えてペタンと伏せの姿勢をとっていた。
野ウサギたちは、千尋の作っていた家庭菜園の畝の隙間や、香月木のプランターの陰に身を寄せ合い、ガタガタと小刻みに震えながら身を寄せ合っている。
小鹿たちは、大工のベルントが作ってくれた白木の縁側の下の隙間へと、頭から滑り込むようにして隠れ、母鹿がその背中を庇うように寄り添っていた。
大鷲たちも、鋭い爪を木の枝に深く食い込ませ、羽毛を逆立てて震えながら、空を覆う黒紫の瘴気雲を見上げて怯えたように短く鳴いている。
彼らは、襲撃に来たのではなかった。
常闇の森の深部から噴き出した死の瘴気嵐から逃れるため――森の中で唯一、清浄な結界が保たれている千尋の山小屋へと、命からがら『避難』してきたのだ。
「くぅぅん……」
大角熊が、千尋の姿を認めるなり、巨大な鼻先を地面に擦りつけ、情けない甘えたような鼻音を漏らした。
足元の縁側の下からは、小鹿が恐る恐る顔を出し、湿った大きな瞳で千尋を見上げ、「助けて」と訴えかけるように細く鳴いた。
動物たちには、本能で分かっていたのだ。
千尋が毎日、床を磨き、換気を行い、天日干しのハーブを焚き染め、家庭菜園の土を慈しんできたことで、この山小屋の敷地全体には、原初魔法に匹敵する圧倒的な「浄化と平穏の結界」が隙間なく定着しているということを。
外の世界がどれほど黒い悪夢に染まろうとも、この敷居の内側だけは、太陽の温もりと命の安らぎが守られている絶対のオアシスであるということを。
「……あの子たち、森の動物たちがみんな……この家に逃げ込んできたのね」
千尋の胸に、熱く切ない感情が込み上げた。
ノエルがおずおずと縁側の端へ歩み寄り、足元に縮こまっていた野ウサギを一匹、そっと抱き上げた。
「大丈夫よ……怖かったわね……。ここでは誰も、あなたたちを傷つけたりしないわ」
ノエルの柔らかなリネンワンピースに顔を埋めたウサギは、トクン、トクンと激しく脈打っていた心臓を、次第に落ち着かせるようにノエルの胸元に身を預けた。
「……フェンリル」
アルヴィスが低く呼びかけると、足元のルゥが短く「わふ」と応じた。
ルゥは白銀の身体をふわりと光らせると、十代半ばの銀髪碧眼の美少年の姿へと変化した。その顔立ちには、いつもの甘えん坊な気配はなく、森の主たる神獣としての凛々しい威厳が宿っていた。
「千尋。森の深部の封印が解かれたんだ。太古の穢れ……古代の魔獣たちが残した瘴気の嵐が、森全域を覆い尽くそうとしている。動物たちはみんな、千尋の家の空気を頼って逃げてきたんだよ」
ルゥの言葉を裏付けるように、空の黒紫色はさらに濃さを増し、森の境界の木々がパキパキと音を立てて枯死していく音が風に乗って聞こえてきた。
冷たい風が、山小屋の庭先へと吹き抜ける。
しかし、千尋の小屋を取り囲む見えない結界の境界線に触れた瞬間、黒い瘴気はジュッと白い煙を上げて弾け、敷地内への侵入を阻まれていた。
けれど、その境界線も、外側から押し寄せる膨大な瘴気の圧力によって、キシキシと悲鳴を上げるように微かに軋み始めていた。
庭に身を寄せ合う、何百もの森の生き物たち。
縁側の下で震える小鹿。家庭菜園の陰に身を隠す小鳥たち。敷石の上で千尋を見上げる巨大な熊。
彼らは全員、信じ切った純粋な瞳で、エプロン姿の千尋を見つめていた。
「…………」
千尋は、静かに拳を握りしめた。
前世の社畜時代、誰にも頼られず、替えの効く歯車として使い潰されかけていた自分が。
この異世界で、ただ「心地よく眠りたい」「誰にも邪魔されずにお茶を飲みたい」と願い、手入れを続けてきたこの場所が。
今や、大切な仲間たちだけでなく、森に生きるすべての命にとっての、最後の希望の砦になっている。
「千尋さん……」
ノエルが、ウサギを抱きしめたまま不安そうに千尋を見つめる。
アルヴィスが、静かに愛剣の柄に手を添え、千尋の隣へと並び立った。
「千尋。お前の望む通りにしろ。私が、この命を懸けてお前の背中を守る」
千尋は、空を覆い尽くすドス黒い瘴気の嵐を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥に宿っていたのは、怯えなどでは断じてなかった。
生活を愛し、我が家を守り抜く者の、揺るぎない覚悟の光。
「……私の家庭菜園を荒らして、ベルントさんが作ってくれた縁側を汚して、この子たちを怯えさせるなんて……」
千尋はエプロンの紐をキュッと固く結び直すと、凛とした声で言い放った。
「絶対に許さないわ。……天変地異だろうが何だろうが、私のテリトリーに土足で踏み込んでくるゴミは、全部まとめて大掃除してやるんだから!!」
静かな森の庭先に、少女の力強い宣戦布告が響き渡った。




